ぶらぶら人生

心の呟き

雨の日曜日  (写真 アマリリスの球根)

2008-01-20 | 身辺雑記
 今朝は、集会所の掃除に出かけた。
 今月は、私たちの班が当番月である。
 生憎、朝からの雨。
 外掃除は無理だろうなと思いながらも、草取りの道具を持って出た。が、地はぬかるんでいて仕事にならない。
 さすがに冬の季節。
 草の伸びは遅く、草抜きをしなくても、見苦しくはなさそうだった。
 みんなで、室内の掃除だけをして解散。

 帰宅後、朝食。
 NHKの新日曜美術館を見終わったところへ、Tさんから電話があった。
 来訪を告げるお電話であった。
 玄侑宋久に関するブログを書いたので、Tさんは、ご自分の蔵書を早速届けてくださった。『御開帳綺譚』 『龍の棲む家』 『多生の縁』など。
 私自身がアマゾンに注文した2冊の本は、注文の翌々日には届き、早速、『中陰の花』は読み終わった。今朝から2冊目の『アミターバ 無量光明』を読み始めている。
 これに加え、Tさんからお借りした本を読み上げれば、玄侑宋久の世界が、かなり身近なものになるだろう。
 作家、玄侑宋久は現役の僧侶なので、その作品は独特な世界である。
 いずれ稿を改めて、作品については書く予定でいる。
 読書は、読者がどういう心理状態に置かれているかによっても、あるいは年齢によっても、受け取り方はかなり異なるように思う。
 私は、いい時期に、玄侑宋久に出会えたと思っている。

 Tさんからは、いつものことながら、立派な大根やチーズなども、いただいた。
 私が、元気のなさそうなブログを書くので、気にもしてくださった様子。
 いつもお邪魔するばかりだったが、今日は、私の部屋に上がっていただき、ゆっくりと、多方面にわたるお話をした。
 そのうち、水仙の里へも、一緒に行こうと、誘っていただいた。
 海辺へ向かって下りる勾配の急な細道は、一人では不安がある。
 昨年は、お天気に誘われ散歩がてら出かけたが、ひとりだったので、入り口のところで引き返した。さらに下った場所に、水仙が一面に広がり、<水仙の里>の見所があると分かりながら。
 Tさんと一緒であれば安心して、海原を見下ろしながら、下ってゆけるだろう。

 一番下の妹から、小包が届いた。
 開けてみると、セーターが入っていた。私の誕生日を祝して。
 当日は、それを着て、小さな旅に出かけよう。

 今日はしつこい雨が降り続く。
 どうやら散歩は諦めるしかないようだ。


 先日、クロネコから、例年通り、アマリリスの鉢が届いた。
 まだ球根のまま、鉢の中に眠っている。
 そこには、葉や茎、花などの命が宿っていそうには見えない。
 その名は「ピコティー」(写真 左)と「レッドニンフ」(写真 右)である。
 ささやかながら、育てる楽しみを味わおう。 
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イチゴ大福と思い出 

2008-01-19 | 身辺雑記

 姪が熊本から帰り、妹夫婦とやってきた。
 年の暮れに破損させた車の修理が完了し、それを受け取りに帰って来たのだ。
 事故を起こしたとき、近所の門柱をわずかながら損傷した。修理を申し出たところ、その必要はないと断られ、それでもなんだか申し訳なく、手土産を買ってきたというのだ。生憎、お留守なので、私に土産を託して帰っていった。

 私へのお土産としては、<イチゴ大福>を買ってきた。
 <一緒に十時のおやつにしましょう>と。
 五個入りのケースであった。
 四人で一つずつ食べ、残りの一つは、午後のおやつにして、と残していった。イチゴの水分が出るとまずくなるから、今日のうちに食べた方がいい、と言いおいて。
 大福の名に恥じない、ボリュームのある、美味しいイチゴ大福であった。(写真)

 <イチゴ大福>は、いつ頃からあるお菓子なのだろうか。
 私が初めて口にしたのは、平成の始め頃、Aさんにいただいたときだった。
 Aさんは、私より六歳年上の男性である。上戸であるうえに、お菓子にも目のない人だった。Aさんご自身が、<イチゴ大福>が大好きなので、私も喜ぶに違いないと、よく買ってきてくださったものだ。父母と一緒に食べてと。冬から春にかけて。
 イチゴは、洋菓子に使われるものという思い込みがあったので、最初は、なんとなく、なじめなかった。しかし、よく味わってみると、なかなか吟味された和菓子だと思うようになった。父や母も気に入っていた。

 「去る者は日々に疎し」のことわざどおり、Aさんは今では、日々、私の心をよぎる人ではなくなった。が、それでも私の人生をふり返るとき、稀有な存在だった、と懐かしく思う人の一人である。
 今日、<イチゴ大福>を食べながら、すぐさまAさんのことを思い出した。
 その後も、嗜好は変わらず、今も召し上がっているのだろうか? と。

 私が、仕事をやめ、老いた父母の面倒を見ながら、しきりに新聞への投稿を行っていた当時、平成の始め頃のことだった。
 私の記事が面白い、一度会って話したいと電話をくださったのが、きっかけだった。読書家で、映画、音楽、絵画、彫刻と、芸術に関心の深い人だった。
 考えてみると、あの当時、随分多くの時間を私のために費やしてくださったのだと思う。
 母が亡くなり、二年後には、父も亡くなった。その後、私がこの地を離れることになった平成7年の始めころまで、Aさんとの交友は続いた。
 当地に帰ったのは四年前だが、街で偶然にお会いすることもないまま、歳月が過ぎている。
 始めから、連絡は、私が一方的に受ける側で、こちらから便りを書いたり電話したりは、憚られる状況にあった。そのため、この地を去った段階で、交友は自然消滅せざるえをなくなった、といえる。
 
 会うごとに、数冊の本が届いた。したがって、それまでの私が読まなかった範疇の本も、Aさんの勧めで沢山読んだ。(今も書棚に、借りたままの本が数冊あるし、私のお貸しした本の幾冊かも、Aさんの方にあるはずである。)
 博多、下関、松江、徳山あたりまで、日帰り可能な範囲の美術展に、よく車で連れていってもらった。
 名曲に親しめと、沢山のCDをいただいたし、貸してもらって聴くこともあった。私の手元に、今かなりの数のCDがあるのは、Aさんの影響が大きい。

 毎夜九時は、Aさんからの電話がかかる時間だった。そして、最低一時間は、話していた。話題は、読書や音楽、絵画のことが多かったと思う。
 宴会その他、仕事などで電話が遅くなるときは、その連絡が必ず入り、深夜に電話のベルがなった。
 六年間の、不思議で豊かな交わりを懐かしく思う。
 もう十数年以上前の話になるのだが……。
 
 あの当時のA さんは、世間的には有用な人として生きておられた(今も多分そうだろう)が、心の奥に、満たされぬ寂しさを抱き続けておられたのだと思う。いささか自惚れめくが、妹のような私との交友に、小さな、ともし火の温もりを感じておられたのだろう…という気がする。
 (人は、存在し続ける限り、寂しさから逃れられないのかもしれない。)

 Aさんにブログを読んでもらえれば嬉しいが、パソコンの趣味がおありがどうか、それも分からない。万一お目に止まっても、<駄文ばかりだね。文章の質が落ちたよ>と、お叱りをいただくことになるかもしれない……。
 
 六時過ぎ、姪からことづかった品を近所に届け、空を見上げたら、12日くらいのお月様が冴えていた。その傍に寄り添うようにお星様が一つ、輝いていた。あれは、何星だろう? 私は、心の中で、勝手に名前をつけてみた……。

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午後の散歩 (水仙と焼き饅頭)

2008-01-19 | 散歩道

 雨の朝だったので、散歩は中止した。
 朝食後、外をのぞいてみると、お天気は回復していた。
 まずは、歩いてこようか(身体を疲れさせることが、一番の不眠解消法のようだ)と思ったが、朝、ベッドで読み始めた、玄侑宋久の『中陰の花』の続きを読みたくて、散歩は後回しにした。
 (午前中に、妹夫婦と姪がやってきたので、読書を中断。)

 一冊を読了して、散歩に出かけたのは二時前であった。
 昼間は予想外に暖かい。朝と同じ服装で出かけたので、まずは手袋を外し、コートの前を開き、外気に接する部分を多くして、調整しなくてはならないほどだった。

 土田の海岸に向かって歩いていると、どこからか鋏の音が、リズミカルに聞こえてきた。花作り名人のSさんが、庭木の剪定をしておられるのだった。
 足を止めて、挨拶した。
 今はやや殺風景なお庭だが、春になればまた、花を楽しませてもらうことになるだろう。

 水仙の里へ行く道の分岐点に、人の姿があり、テントが張られていた。
 何事だろう? と見ると、同じ町内の顔見知りのご夫婦が、小さなお店を出しておられるのだった。水仙の里へ見物に来た人のために、切り花の水仙や鉢植えの水仙、さらには飲み物や焼き饅頭を用意しておられるのであった。
 もう一人、どこか見覚えのある人が手伝っておられた。遠慮がちに、あれは誰かと知り人に尋ねると、地元の市議だと教えられた。道理で愛想がいいと思った。(私は、どうも人に無関心すぎるところがある。)
 しばらく立ち話していると、<水仙の里>から、見物を終えて帰る車がお店の前で停車した。四人が下車し、水仙を求められた。車体には、山口ナンバーのプレートがついていた。(写真)
 焼き饅頭のほかほかを買いたかったが、お財布を持っていない。
 土・日には、お店を出すから、また寄ってくれとのことだった。
 私も、いつか水仙の里まで歩いてみようとは思っている。今八分咲きだそうだから、当分大丈夫だ。
 そこへ小学校時代の同級生Rさんが、バイクに乗って、お饅頭を買いにやってきた。
 <お財布がない>と言ったのが耳に届いたかのように、私を見かけるなり、
 「食べる? おごろうか?」
 と言ってくれた。
 「おごってもらってもいいの?」
 「いい、いい。何個?」
 「では、同級生のよしみで、一つ」
 「一つでは…。じゃ、二つにしようか?」
 夕ご飯までに間がないし、姪の持ってきたイチゴ大福の残り一個も、今日のうちに食べてしまわなくてはならない。その上に、二つも食べられるだろうか? と思いながら、ありがたくいただいて帰った。帰り着くまで、焼きたてのお饅頭が、手の中でホカホカ暖かかった。一個、80円のお饅頭。

 お店があれば、人が集い、ひとりでに語らいも生ずるというもの。
 水仙のもたらす縁でもある。

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1月19日(土)の新聞より (庭の水仙 背を向けて)

2008-01-19 | 身辺雑記
 ※ 1面
 NHK記者らに課徴金
     監視委、命令勧告へ  株不正問題
 関連記事 
  天声人語
 ☆ <同僚が報道を目的につかんだ情報で、ひともうけをたくらむ神経をまず疑う>と、述べ、NHK記者らのインサイダー取引問題を、老舗の和菓子屋に並ぶ饅頭に、よく見るとネズミの歯形が二つ三つ、の例話をあげて、批判している。
    3面 社説
  株の不正取引  NHK記者のやることか
 ☆ 当然のことだが、社説の記者は、手厳しく非難している。
  34面
 NHK、全職員調査
    株不正疑惑 契約社員含む1万3000人

 ※  2面 時時刻刻
 忍の首相 旗は環境 
     サミットしのげば解散視野
 関連記事 3面 社説
  首相の演説 では「改革」はどうする
     8面
 福田首相の施政方針演説 全文(第169回国会開会に当たり…)

 ☆ 社説も取り上げているとおり、「国民本位で」、「国民の目線で」、「国民の立場に立って」と、「国民」がキーワードの演説だったようだ。何とか国民のための政治を行う姿勢を際立たせようとの意図は感じられるが、実際に国民の納得する政治が実現されない限り、空疎な演説だったということになるだろう。
 社説に述べられている<癒しの政治も、経済の安定なしには立ち行かない。福田流の「改革」をもっと明確に語ることだ。それなしに国民本位といわれても、説得力がない。>との主張は的を射ている。

 (写真 家庭の水仙。なぜか私に背を向けて咲いている。)
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星空の朝、そして夢 (写真 菅の類?)

2008-01-18 | 身辺雑記

 昨夜、就寝前、<新聞より>のカテゴリーに、昨日の新聞についてのブログを追加し、パソコンを閉じようとしたとき、新しいコメントが入っているのに気づいた。
 それには、昨朝未明の星の、大きく美しかったことが記してあった。

 コメントを読みながら、私は最近、夜空を仰いでいないことに思い及んだ。
 夜空を見上げて感慨にふけるには、心が閉ざされすぎている、と言えばいいのだろうか。今は上弦の月のはず、今日は何日くらいの月なのだろう? と思ったが、外に出てみることはしなかった。

 昨日も、散歩や外出で、一万歩以上歩いていたので、睡眠を薬に頼るのはやめようと思って、床についた。
 先日は友達に、また昨夕は妹にも、眠れないと思いすぎるのではないか、眠くなったときに眠ればいいのではと、忠告された。
 考えてみると、翌日、勤めに出るわけでもないし、玄侑さんの言の如く、たとえ日常茶飯事であっても、<「なりゆき」を生きる>のがいいのかもしれない、などとも思って…。(玄侑宋久氏は、人の生き方の問題として、前言を示されたのだったが。)

 昨夜も、ベッドに横たわってから、モーツァルトの「弦楽四重奏曲」第17番「狩」・第19番「不協和音」を聞きながら、山折哲夫の「日本人のゆく浄土」の続きを読んだ。
 この本は、本当はきちんと正座し、心を集中して読むべき本である。が、私は先日来、寝転がって読み続け、今<道元>について語られているところまで読み進んだ。心に吸収すべきことが多いので、そうやすやすと眠くはならない。モーツァルトの曲も鳴り止んでしまった。
 十二時過ぎたところで本を閉じ、自然な眠りに入れるように、無心を心がけた。

 目が覚めたのは、四時半だったから、自力でかなり眠れたことになる。
 が、今朝も、起床前のまどろみの中で、夢をみていた。
 小説の一場面にでも使えそうな、風変わりな夢だった。
 今朝の夢は、主要な人物が、はっきりとした顔を持っていた。

 Y 日赤の内科医で、師の7年にわたる主治医であったF・N 先生が、白衣を着て、場面の中央に立っておられた。先生はどちらかと言えば小柄な医師だが、背後の人たちが、やや幻想的であやふやな存在であるのに対し、夢の中では、毅然として目立つ存在だった。
 私がそこに姿を現すと、F・N 先生は、かなり厳しい表情で、それ以上は近づくな、と無言で拒まれた。私は、捜していた師の姿を、F・N 先生の後ろの群像の中にやっと見つけ、安堵して師の傍へ駆け寄ろうとした。
 実は、それ以前の夢のなかで、私は師と一緒にコーヒーを飲んでいた。こんな気のきいた喫茶店があったかと、師はご機嫌だったのだ。
 (その場所がどこなのか、さっぱり分からなかった。大都会のようでもあり、地方の町のようでもあった。そこは夢のたわいなさである。)
 とにかく、会えたことを喜び、共にコーヒーを楽しんでいたのに、気づいてみると、師の姿がないのだった。私は意気消沈しながらも、捜し回っていた。
 異形とはいえ、やっと師の姿を見つけることができたのに、F・N 先生に近づくことを阻まれ、それでも駆け寄ろうとしたところ、一瞬にして、師を含む群像は暗転し、黒い闇の中にかき消されてしまったのだった。F・N 医師だけを残して。

 なんという込み入った悲しい夢!
 師に会えたのは、夢の中での、はかない束の間であった。亡き人に会えたかのような錯覚を喜べるのは夢しかないから、それはそれで、たとえ夢でもよかったのだが。
 最後の場面があまりにも非情であり、夢らしからぬ夢でもあったので、目覚めた後、あの場面は何を意味するのだろうかと気になった。
 あれは、生きた存在であるF・N 先生によって、死者の世界と生者の世界に一線が画された状況だったのではあるまいか。
 また、私は生きた存在として、死者である師とは、現実には再会不可能であることの当然が、あの夢の形をとったのではあるまいか。
 F・N 先生の後ろに整列していた、師を含む白装束の人たちは、あるいは先生が医師として、日赤で最期を看取られた人たちだったのかもしれない……とも思った。
 いかにも夢らしいたわいなさの中にも、分析可能な要素も含まれており、目覚めたベッドの上で、あれこれと夢分析のひと時を過ごしたのだった。
 私のいかなる精神状態が、この夢と関わりがあるのかは、私自身にもよく分からない。

 夢に意味を持たせすぎかもしれないな、と思いながら私は起き上がった。
 牛乳の届く朝である。
 それを取り入れようと外に出た。
 空を見上げると、満天のお星様である。
 昨夜のコメントに記されていたように、寒冷の冬空のせいか、お星様がひときわ大きくて、明るかった。
 私を見守っていてくれる星も、あの無数のお星さまの中にはあるに違いないと、暫く佇んで空を仰ぎ続けた。早朝の冷えが、身体の芯まで染み透る感じだった。
 新聞も届いていた。
 それを持って、私は再びベッドに引き返した。

 (写真は、散歩の途中でみた植物。全身枯れたまま、ピンと立っている姿がいい。菅の類だろうか。)

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薄氷 (写真)

2008-01-18 | 散歩道

 海辺に下りるころには、厳しい冷たさから開放されていた。
 吐く息も白くはならず、頬と指先の冷たさも消えていた。

 今朝は高島がくっきり見えた。(昨日は、全くその姿を見せなかったのだが。)
 白い灯台も…。
 8時半頃は、干潮の時間帯なのだろうか、海面に近い島の裾周辺は、帯状に乾いた色をしており、高島そのものが、海面に浮き上がったように見えた。
 私の立つ磯は日陰だが、高島は朝日を存分に浴びて明るんでいた。

 穏やかな海景色である。
 これが冬の日本海といえるのか、季節感が狂わされっぱなしだ。
 半分嬉しく、半分失望しながら、足元を見ると、薄氷が張っている!(写真)
 この冬、初めて見る氷!
 でも、なんと薄いことか。
 私は足を乗せて、バリバリ割ってみた。氷の感触を確かめながら。
 さらに足を一歩進めたとき、その足が見事に滑った。転びはしなかったが、危なかった。かろうじて平衡を保ち、姿勢を正したとき、後ろから歩いてきた男性が、
 「氷は危ないですよ」
 と、注意を促した。
 「意外と滑りますね」
 と、照れるほかなかった。
 時々老婆らしからぬことをしてしまう。童心が顔を覗かせるらしい。

 まさに<薄氷を踏む思い>。
 <深淵に臨んで薄氷を踏むが如し>
 そんなことわざも思い出しながら、磯を歩いた。
 和語には、「薄ら氷(うすらひ)」という美しい言葉もあったな、などとも考えながら。
 (帰宅後、「うすらひ」を調べてみたところ、季語は春になっていた。真冬の厚い氷と区別されるようだ。)

 最近、散歩で出会う人は、みな新顔ばかりだ。
 以前出会っていた人には、まだ、ひとりも会わない。
 私の出かける時間が遅いせいもあるだろう。
 歩くことまだ四日なのだが。
 そこで出会った人々は、新しい年を迎え、覚悟も新たに、ウオーキングやジョギングを始めた人たちなのだろう。 

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吐く息白く (写真は残り柿)

2008-01-18 | 散歩道
 散歩に出かけたときには、すでに雲のない青空が広がっていた。
 8時を過ぎたばかりの頃。
 予報には、晴れマークがなかったような気がするのだが…。
 このところ、石見のお天気は外れが多い。いい方に外れるのだから、文句はないのだけれど。
 ただ、ちょっと拍子抜けした感じではある。冬は冬らしく寒い方がいい。たまには吹雪の中も歩いてみたい。
 完全に温暖化が進んでいるのだろう。

 今朝は、気温はかなり低かったようだ。
 国道に出たとき、深呼吸したら、息が白かった。こんなことさえ珍しい。頬が冷たい感じも、今朝が初めてだった。カメラが使いやすいように、指先のない手袋をしている。その指先も冷たかった。
 これぞ、冬の朝、という風情だった。

 国道から、海岸へ向かう道へ抜けようとして、思わず立ち止まった。
 柿の実? 裸木の梢が見事に赤い実をつけている。大樹である。(写真)
 こんなところに、柿の木があったかしら? と、立ち尽くして青空に映える赤い実を眺めた。ヒヨドリらしい鳥が一羽、実をつついていた。
 下から見上げただけでは分からないが、その実は皺しわで、カサカサなのではあるまいか。ヒヨドリにとって、決して美味しい食料ではあるまい、と思えた。
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1月17日(木)の新聞より (写真 道端のパンジー)

2008-01-17 | 身辺雑記

 ※ 1面
 阪神大震災きょう13年
  関連記事
    14面
 いつかくる その時
   首都直下地震 街は、人は――  作・高嶋哲夫
 今後30年以内に震度6弱以上の地震が起こる確率
 首都直下地震の被害想定(東京湾北部地震マグニチュード7,3
 命守る 我が家と地域に 富士常葉大大学院 重川希志依教授
    34面
 神戸復興みつめ13年
            被害地定点撮影の男性
             つめ跡消え「今年で最後」

 ☆ 14面の記事を読むと、いつか阪神大震災のような地震が起こり得る可能性が示されていて、不安をそそられる。家の備えを十分していても、旅の途中で大地震に遭遇するかも知れず、それはもう運命と諦めるしかないな、など考えながら、データーを眺めた。
 阪神大震災から13年。ということは、有馬温泉に出かけ、神戸でも遊んだのは、ちょうど12年前の今日だったのかと、朝の散歩をしながら、私自身の個人的な思い出に耽った。
 震災の記念日を始めから計画したわけではなく、10日頃出かけるはずだったのに、出発の前日に、私が風邪で発熱し、予定を変更せざるを得なくなったのだった。それが、ちょうど震災後の1年目という、被災地の人々にとっての悲しい記念日と重なってしまったのだった。
 神戸市では、記念行事も行われていた。
 街に下り立った私は、一年でよくここまで復興できたものだと感心した。
 美味しいコーヒーの飲めるお店にも事欠かなかった。
 どんなに思い出深い旅でも、年月日のあやふやなものが多いのに、大震災のちょうど一年後だったという理由のために、最後の有馬温泉行きについては、年月日の記憶をたがえることがない。それまでにも幾度か有馬温泉には行っているのに、それらは、はっきりした年月日を思い出せないのだ。
 12年前の今頃は、有馬温泉の湯に浸っていたのかもしれない。

 ※ 芥川賞 「乳と卵(らん)」 川上未映子(みえこ)(31)
      ひと欄(2面)第138回芥川賞に決まった「文筆歌手」 川上未映子さん
    直木賞 「私の男」     桜庭一樹(かずき)(36)

 ☆ 受賞者はいずれも女性。川上さんはシンガー・ソングライターでもあるそうだ。 作家気質が、昔に比べ随分変わってきた。多面的に活動する人が増えてきているのも、その一つの特徴だろう。
  直木賞の「私の男」は、<「父」と「娘」の禁断の愛という深刻な問題を扱った意欲作>と紹介してあった。世の中には、父と娘、母と息子、その他、血縁関係者同士の特殊な愛の形が絶えず存在し、問題となる場合も多い。今回は父と娘の愛を扱ったものとのことだが、それが文学として昇華された場合、どんな小説となっているのだろうか? 「私の男」という題名は、あまりに直截的ではあるまいか? あるいは、それがかえっていいのか? 
 今のところ、二作品とも、是が非でも読んでみたいという意欲は湧かない。

 (写真は、道のほとりに咲いていたパンジー。まだ寒さに震えていた。)

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「なりゆき」を生きる (写真 ひとひらの雲)

2008-01-17 | 小さな記録簿
 午前10時過ぎにNHKが放映する「知るを楽しむ」を、先日来、見ている。
 多分、再放送なのだろう。
 今日が最終回だった。
 僧侶であり、作家でもある玄侑宋久氏を、アナウンサーがインタビューし、玄侑氏の過去から現在に至る生き方を紹介しながら、玄侑氏自身が自分の人生から掴み取った、<人の生き方>について語る番組である。
 大きな示唆を与えてくれる、いい番組であった。

 <「なりゆき」を生きる>という言葉。
 さらに、<「なりゆき」を決然と生きる>という言葉。
 実践するとなれば難しそうだが、心に融通性を与えてくれそうな気がする。

 (添付写真は、雲の全くない空だなあ、とふり仰いだとき、悠然と浮かんでいたひとひらの雲。1月9日。山口後河原で撮影。)
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死者へ送った年賀状 (写真 歩道脇の雪)

2008-01-17 | 身辺雑記

 昨夜早々に、居間から寝室に移ろうとして立ち上がったところへ、電話のベルが鳴った。こちらから、見舞いの電話をしなくては、と思いながら、気が乗らないまま、先延ばししていた友達からだった。

 年賀状に、<昨年暮れ、目に怪我をして、美貌を損ねました。>と記されており、心配はしていた。が、賀状が書けるくらいだし、そう深刻な状態ではないのだろうと、勝手に判断していた。
 事実、もう腫れも打撲痕も、ほとんど消えたとの話だった。圧すれば軽い痛みを感じる程度にまで恢復した、と。
 「一体、どうしたの?」と尋ねた。
 庭木の小枝でも目に当たったのだろうかと思っていたのだが、車に乗ろうとして、右目の眉下にドアーをぶち当てたのだと……。
 「目から火が出るとは、あのことよ」
 と、そのときの惨めさを友達は語っていた。
 一昨年の暮れには、自宅の階段から落ちて背を傷め、今度は目の負傷、ちょっと不注意すぎない?と、私自身のおっちょこちょいぶりは棚上げにして言うと、全くそのとおり、と友達はあっさりと認め、しみじみと年のせいかも、と言った。

 「そういえば、S ・Tさん、亡くなったのねえ」
 と、言う。
 驚いて、言葉を失った。
 今年は賀状が届かなかった。おかしいなとは思っていた。
 あるいは病気かも知れない、そのうち電話で様子を尋ねようと思っていた矢先だった。
 私は思いがけない訃報に、<またひとり友を失ったのか>と、悲しくなった。どんどん周辺が寂しくなってゆく……。
 友達はS・Tさんとの交友関係はないはずなのに、どうして知っているのかと不思議に思った。昨年の12月始め頃、<おくやみ>欄で、その名前を見たというのだ。友達は、当然私も見ているだろう、と思っていたらしい。
 が、私はその欄を、平素ほとんど見過ごしている。だから、気づくこともなかった。

 何十年も会っていないので、私の脳裏にあるのは、高校生のS・Tさんの姿である。その当時から眼鏡をかけ、温厚そのもののような人柄だった。高校の二年生のとき、クラスが一緒だった。学友として、特に親しく付き合ったわけでもなく、賀状を交わすだけの友達であった。
 卒業後も長い間、会うことも話すこともなかったのだが、四年前に、幼なじみの住所を知りたくて、男性同士なら情報がつかめるだろうと電話し、二度ほど話した。
 そのとき、彼が即座に調べてくれた幼なじみは、茨城県に健在で、今年も賀状が届いているのだが…。
 電話で話した時の様子では、S・Tさんは順調な人生を生き、晩年の日々も、幸せそうであった。
 
 彼は、水族館「アクアス」のある、海辺の町に住む人であった。
 賀状には、
 <同じ石見の空気を吸って生活しながら、なかなかお会いできないものですね。そのうち、アクアスに出かける機会を見つけ、連絡します。>
 と記した。
 賀状に向かって、半世紀以上も昔の学友を懐かしみながら、そうしたためたとき、S・Tさんは、もうすでに、この世の人ではなかったのだ。
 こんなに早く、会う機会を永劫に逸してしまおうとは……。
 私の胸の中にしまわれた座席表に、空席がまた、ひとつ増えた。

 実は、もうひとり、京都在住の同級生からも賀状が届いていない。<京都には出かける機会が多いので、そのうちに…>と、賀状に記しながら、何十年も会わずに来た。その消息は、簡単には確かめがたい。果たして無事なのかどうか。
 このほか、年上の人からの賀状数通が、今年は届いていない。毎年欠かさず送られる賀状が届かなければ、あまりいいことは想像できない。

 友達、曰く。
 「だから、元気なうちに会いましょう。明日は、分からないのよ」
 と。
 新しくできた食事処に行ってみようと、誘われた。
 21日には、歯科の定期検査を受けるため街に出る、と伝えると、
 「では、その日に…」
 と、即決。

 私が、最近眠れないと話したところ、眠れなければ寝なくていいの、そのうち眠れるから、と友達は平然と言った。
 ベッドに横たわり、モーツァルトの「ピアノ四重奏曲」を流した。第1番、第2番を聴き終わっても、眠気は襲ってくれなかった。
 曲を聞き流しながら、心は、空席となった座席表のことなどを考え続けていた。
 12時過ぎ、また薬の力を借りて、就寝せざるを得なかった。

 (写真は、朝の歩道脇に残っていた雪。昨日同様、今朝も小雨が降っていた。が、風はなく穏やかな朝なので、散歩に出かけた。明け方に降ったのだろうか、歩道の山側に吹き寄せられた雪が、消えずに残っていた。雪を珍しがり、踏みしめて歩いた人があるらしく、靴跡がくっきりとついていた。) 

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