穂状の花序はまだ垂れず、つぼんだままである。
蕾は蕾なりに風情を持つところがいい。命が詰まっている感じだ。
花開くころ、懐古庵を訪ねることができるかどうか?
大きな甕に、椿と土佐水木、さらに菜の花を添えて活けてあった。
懐古庵の片隅に。
「これは侘助というのだそうです」
と、お店の女主が、教えてくださった。
「侘助」は冬の季語。
歳時記には、
<中国系の椿の交配種だという侘助は、ツバキ科の常緑高木。花は小ぶりで一重咲き、全開しない。花の数も乏しい。葉も細く、いかにも控え目で茶人好み、茶花として珍重される所以である。色は白、淡紅、赤白の混じりなど。……略……名の由来は諸説あり、これと決めがたいが、人名からの命名とする説よりも、閑寂趣味の「わび」と数奇者の「すき」が結びついたとする説のほうが信頼できる。晩秋からぽつぽつ咲き始め、早春まで咲いている地方もある。[今井千鶴子]>
と、説明されている。
広辞苑は、
<文禄・慶長の役の際、侘助という人が持ち帰ったからという>
と、その名の由来を人名説の立場から説明している。
私見としては、花の醸す雰囲気から考えて、「わび」「すき」といった日本的情緒が似合いそうな気がする。
食いしん坊の私は、旅に出たときには、その土地のおいしいものを食べたいと思う。年齢を重ねるごとに小食になったが、少量でいいから、おいしいものを食べたい。
大宰府では、梅ヶ枝餅を、と出かける前から考えていた。
素朴なお餅の味が忘れられず、参道の入り口で車を降りると、心の隅で、おいしい梅ヶ枝餅を売る店を探していた。
お参りよりも、まずは梅ヶ枝餅。
私の顔にそう書いてあったのではあるまいか。
さあ、どうぞどうぞと、呼び止められた。
馬鹿正直というか、おめでたいというか、精神的修養が足りないというか、私は喜怒哀楽が顔に出やすいタイプだと思う。
奥にゆっくりとお休みいただける部屋がありますから、と誘い込まれた。
大人数の客に対応できそうな、それでいて、こぎれいなお店であった。
セット物のうち、梅ジュースと梅ヶ枝餅を注文した。
焼きたての香ばしいお餅である。梅ジュースもさっぱりしておいしかった。昆布の佃煮まで添えてある。
満足して、天満宮のお参りと、博物館の「若冲と江戸絵画」展の鑑賞を済ませた。
再び参道に引き返し、西鉄電車の駅に向かっているとき、お店の前に行列ができているのに気づいた。何? とすぐに心が動く。
足が止まった。
列の一番前にいた人が、梅ヶ枝餅を手にして、こちらを向いた。梅ヶ枝餅を買うための行列だと分かる。
評判のいいお店らしい。
「かさの家」とある。風格と趣のあるお店だ。
時計を見て、さて、と考えた後、列には並ばず、店の横にある通路を入っていった。
茶房に通じる通路であった。
靴を脱いで、板の間に上がる。
勧められた席に落ち着くと、お庭が見えた。(写真)
茶房のあちこちに置物がある。所を得て、厭味なく置かれている。
抹茶と梅が枝餅のセットを注文した。
その日、二つ目の梅が枝餅。
ここでも、満足した。梅ヶ枝餅は、抹茶にも相性のいいお餅である。
私の入った二軒のお店では、お餅の味が微妙に違った。
列のできていたお店の方が、断然おいしいというわけではなかった。
お店ごと、小豆餡に、少しずつ異なる味があるようだ。
私にとっては、最初にいただいた、甘みを押さえぎみの梅が枝餅も、捨てがたい味に思えた。結局は、好みの問題のように思う。
だからこそ、軒を連ねたお店が成り立つわけなのだろう。
旅の楽しさの一つは、全く予期せぬことに出会うことかもしれない。
白と黒のきれいな猫が、のそりのそりとやってきた。
「猫ちゃん、ニャオ、ニャオ」
と、声をかけてみた。
が、全く無視された。
人間に無視されるのとは、わけが違う。まあ、いいか、と眺めていると、悠然と爪磨ぎを始めた。
大楠の地上に出た、大きな板のような根っこを、爪磨ぎの道具に使うとは!
なかなか賢いね。
それにしても、大宰府に限らず、博多の町でも、大きな楠に出会う機会が多かった。今まで気づかなかったが、九州には、他の地よりも、年月を重ねた楠が多いのだろうか。
数度は太宰府天満宮を訪れているのに、「東風吹かばの歌碑」を意識して眺めた記憶がない。本殿近くの飛梅の木は、いつも眺めてきたのに……。
そこで、今回は歌碑の位置をあらかじめ確かめておいた。
それは参道の入り口、総合案内所のすぐ近くにあった。
東風吹かば匂ひおこせよ梅の花あるじなしとて春な忘れそ
誰でもが知っている有名な歌が、丈高い石に刻まれていた。
権力争いの実相について詳しくは知らないが、讒言の末、都を追われた道真の、流離の思いは、複雑なものであっただろう。
歌碑の前に佇む人はなかったが、本殿脇の飛梅の老木の下には、大勢の参詣人がいた。つぼみの多い木を見上げ、二つだけ開いた梅の花に、皆歓喜していた。私も群集の中の一人として、頬を緩めて、ほころびた梅の花を眺めた。
博物館から引き返す途中で、満開に咲いた紅梅の木を一本だけ見つけた。
暖冬とはいえ、梅の本格的な季節は、もう少し後らしい。
道真の歌といえば、他に、百人一首中の歌、
このたびは幣もとりあへず田向山もみぢの錦神のまにまに
があることを思い出した。
この歌について、吉原幸子著「百人一首」には、
<宇多上皇が百人の供を従えて十二日間の奈良旅行をされた折、一行に加わった菅原道真(845~903)の詠んだ歌。道真はこの時五十三歳、学者としても政治家としても絶頂期だった。>と、記されている。
さらに歌については、
<この歌は錦織のように技巧をこらし、《この度》に《この旅》を掛けたり《とりあえず》に二重の意味を持たせたり、しかも《神》に所属するはずの自然を改めて神への捧げ物にするなど、いかにも自信満々、余裕綽々という感じである。>と、述べている。
さっき、改めてこの本を読み、作者の、詩人らしい説明に納得したところだ。
遠い過去の、菅原道真という人物に、しばし思いを馳せてみたが、結局、確たる人物像は思い描けず、雲をつかむような曖昧さから抜け出すことはできなかった。