どうしても事実を受け止めがたいことがある。
昨年の暮れ、私は草花舎で、Yさんのご母堂に会い、その老い姿の見事さに心を打たれた。
そのことは、12月31日のブログにも書いた。
実は、投稿前(草稿のとき)、町内会の班長から、その老婦人の逝去の知らせが届いた。が、どうしても信じることができないままに、書いた記事を投稿した。
私は今日まで、人違いに違いないと思っていた。そう信じ込もうとし続けてきた。数日前に会って、私に感銘を与えたその人が、亡くなられるはずなどない、と。
一方で、病臥することもなく、96歳の高齢で、あっけなく世を去った父のことも思い出した。お会いした老婦人も、90歳を超えておられる。老少不定は人の世の常であるとはいいながら、父の場合がそうであったように、高齢者には、若年者以上に、突如、死の訪れる率は高いのかもしれないと、内心案じてもいた。
お正月は、兄や妹、親戚の出入りもあり、時間が慌しく過ぎた。
今朝、新聞の[悲しみ]の欄で、私は事実を認めざるを得なかった。
お昼前には、直接Yさんからも、お電話をいただいた。
信じがたいことを、今は受け止めなくてはならなくなった。
あの日、老人施設「陽だまり」から帰られたご母堂は、そのまま母屋に向かわれるのが普通だったはずだ。
客として居合わせた私の前に座られ、しばらく歓談してくださったのは、私に、老いの範を示してくださったのではあるまいか。
存在そのものの姿を通して。
一つの不思議な邂逅! としか思えない。
今晩が通夜、明日が葬儀と伺っている。
明日、お別れに行くつもりでいる。
一度だけ会って、私の心にたくさんの贈り物をくださった、その方に、どうお別れすればいいのか、まだ心の整理はついていない。
誰にも、いつかは永訣のときが訪れる。
死後、生き残った者の心に、無形の宝物を遺せる人生、それこそがすばらしい一生といえるのではあるまいか、私は老婦人の美しい和顔を思い出しながら、そんな思いに耽っている。
Yさんとは、後日、ゆっくり話すときがあるだろう。ご母堂の在りし日を偲びながら。