「ゆわさる別室 」の別室

日々BGMな音楽付き見聞録(現在たれぱんだとキイロイトリ暴走中)~sulphurous monkeys~

20130808

2013-08-08 | 矮小布団圧縮袋

○そういえば、この土日はVAMPSも山梨LIVEか。何やら関東周辺及び各地がえらい祭りだな。災害がなく天気がおかしくならなけりゃよいのだが。そういう季節であるが仕事で朝出社して晩に退社する。熱中症警戒情報が出ているからだけではなく、原稿作成とプレゼン資料作成の極力「考える」作業だから、日中はとにかく工房で作業している。土曜の出張の準備作業で詰めていて、食料や飲料は朝か夕方買って搬入して。屋外では、移動することや海水浴や日光浴だけならまだしも、何かをじっと考えて書いたり資料にしたりという作業は、困難だ。しかしこの炎天下で仕事をしている人たちもたくさんいる。会社の前の軒並み開発中の数多の工事現場の方々とか。いろいろな仕事をする、その一人一人の力で、社会が支えられていて、回っている。

 …今聴いているような音楽を初めてリアルタイムで聴いていた30年前の頃は、そういう考え方が全然できなかった。自分の場合は、その頃が「子供だった頃」ということになるだろうか。この音楽をheadphoneで聴いていて目をつぶって周囲の視界を閉じると、その音楽に集中している意識の状態が、一瞬「そういう意味で、子供だった頃の意識」と重なって、その「音を聴いていた時」の「30年後、どういう場所で、どういう仕事をしているのか。自分が大人になっていたり、職業についていたりする状況が、全く想像できない状態の自分」に戻るのだ。そしてまた目を開くと、そこに2013年の自分がいる部屋があり、30年後の自分がそこにいる。

 そして気づく。自分は、幼児の頃も小学生の頃も、学生の頃も、そして社会人になって後も、ずっと「将来何をしているのか全く想像がつかない」ままで、ずっと生きてきている。よくもまあ、こうやって生きてこれたもんだ、と思う。
 20数年前だかラジオで高橋幸宏さんが「人が普通趣味で楽しむことを、仕事にしてしまっているという、可愛そうな僕たちなわけです」みたいなことを言っていたのをふと思い出す。自分は音楽そのものを仕事にはしなかったので、今でも仕事のためにインスピレーションを得られるものとして聴けるのかもしれない。昭和的な表現で言うと「まず一服」のようなものか。

本日のBGM:
 Nostargia / David Sylvian (「Brilliant Trees」)
 YMOのラジオのあえて「界隈」でノスタルジア言うたらまず最初に思い出すのはシルヴィアン先生のこれかな?ワシら周辺ではタルコフスキーは上映会も多かったし、ベルリン天使の歌で立ち見が出る頃ですし。そういえば、国語の教科書の「トロッコ」とか「羅生門」とかの後ろの方の芥川龍之介の写真のところに、よくえんぴつで吹き出しをつけて「立花ハジメじゃありません。」と落書きしてましたな。(20130808)

(写真:7月中旬頃、田んぼのあぜ道をお散歩中のキイロイトリ)
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