かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

横浜・盛り場ブルース④ 「伊勢佐木町ブルース」の歌碑を求めて

2024-04-10 03:42:25 | * 東京とその周辺の散策
 街の灯りを 求めてさ迷う
 どうせ気紛れ あてもなく
 ここは横浜 長者 福富 伊勢佐木町

 先の1月に「横浜・盛り場ブルース」の関外・散策を行った。
 大岡川沿いの黄金町からスタートし、末吉町、若葉町、宮川町、長者町、日ノ出町、宮川町、野毛町、福富町、伊勢佐木町と巡った。
 帰った後、青江三奈のヒット歌謡、「伊勢佐木町ブルース」の歌碑があることを知った。すぐに、一緒に歩いた湘南の士から「伊勢佐木町まで行ったのに、その1本隣にある「伊勢佐木町ブルース」の歌碑を見なかったということは、近々リベンジしないといけないですね」と連絡があった。
 それで、「伊勢佐木町ブルース」の歌碑を求めて、「横浜・盛り場ブルース」リベンジ行を実施した。

 *関内から出発して、伊勢佐木町へ

 2024年2月14日、JR関内駅を午後出発し、まず関内の基原ともいえる「吉田橋」へ。そこから、伊勢佐木町を歩いた。

 「伊勢佐木町」は、関内・吉田橋ふもとから南北(地図上では上下)に延びた通りに即した横浜市中区の町である。
 吉田橋のふもとから伊勢佐木町1丁目が始まり、通りの東側通りは「末広町」で、西側通りは「福富町」である。2丁目で東西(地図場では左右)に延びる通りの「長者町」に遮(さえぎ)られる。
 分断された長者町の通りを超えたら伊勢佐木町は3丁目となり、4、5丁目と延びていく。伊勢佐木町の東側は「曙町」、西側は「若葉町」と変わり、西側はその先でさらに「末広町」に変わるが、伊勢佐木町はその先7丁目まで延びて南区の「南吉田町」と接する。通りの長さは約1.4km。
 現在、長者町に遮られるまでの1丁目と2丁目は「イセザキモール」と呼ばれ、3丁目から 7丁目は「伊勢佐木町商店街」と呼ばれている。

 *「伊勢佐木町ブルース」の歌碑

 街の並木に 潮風吹けば 
 花散る夜を 惜しむよに 
 伊勢佐木あたりに 灯かりがともる

 明るく賑やかなイセザキモールを過ぎ、伊勢佐木町4丁目の通りに、まるで忘れもののように突然、「伊勢佐木町ブルース」(唄:青江三奈、作詞:川内康範、作曲:鈴木庸一)の歌碑があった。
 歌碑はよく見られる歌詞が刻まれた石碑ではなく、グランドピアノをモチーフとしたモダンな作品のようなものだった。歌詞とともに歌っている青江三奈のレリーフが刻まれている。青江三奈の死去から約1年後の、2001年に建てられた。
 歌碑の後ろの歩道に沿って青江三奈の写真が掲示してある。歌碑とセットでのカメラの写し映えを狙ったものであろう。(写真)
 台座部分にあるスイッチを押してみた。すると、あの伊勢佐木町ブルースの歌が流れてきた。
 「あなた知ってる 港ヨコハマ……」
 この歌詞が始まる前に、「あふん」とか「うふん」とか、吐息というかため息が流れる。
 街中に、しかも朝や昼からでも流れるものであるから、ため息は少し控えめの軽い声になってはいるが、やはり省いてはいなかった。伊勢佐木町ブルースといえば、このため息抜きにはありえない。
 この歌が発売されたのは1968(昭和43)年であるが、初めて聴いたときは多少の驚きは隠せなかった。誰もがそうだっただろう。
 いきなり、ハスキーな女性の声で「あふん」である。よく放送禁止にならなかったなあと思う。いろいろ物議をかもしたが歌は大ヒットし、歌った青江三奈はスター歌手になった。
 同時期「女のためいき」でデビューした森進一と共に、「ため息路線」と呼ばれた。

 青江三奈の歌では、私はその翌年の1969年に発売された「池袋の夜」(作詞:吉川静夫、作曲:渡久地政信)が好きである。
 「……美久仁(みくに)小路の 灯りのように 待ちますわ 待ちますわ さようならなんて 言われない 夜の池袋」
 池袋は何度も行って飲食しているのに美久仁小路には足を踏み入れていないので、ぜひ行かなくてはいけないとずっと思っている。
 つまり、路地裏のような「小路」が好きなのである。

 街の灯りがともるころは、かつての伊勢佐木町は今よりずっと艶っぽかったのだろう。
 ため息の街、伊勢佐木町。
 通りを歩きながら、ため息をついてみた。

コメント
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