かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

大阪を経て九州へ④ 佐賀・大町町の杵島炭鉱跡

2023-11-20 02:33:57 | * 九州の祭りを追って
 *炭鉱の面影の町「大町町」

 北九州一帯は石炭の産地だった。
 石炭産業は、明治以降の日本の近代化・工業化を支えていた。
 そのなかで、佐賀県の大町町を中心に北方町、江北町にまたがった「杵島炭鉱」は県内屈指の炭鉱だった。1909(明治42)年に高取伊好により創業、1918〈大正7〉年に高取鉱業株式会社に、1929(昭和4)年に杵島炭鉱株式会社と改められた。
 杵島炭鉱の本部があった佐賀県杵島郡大町町は、かつて人口密度は県内で最も高かったであろう。
 大町町は県内で最も面積の小さい市町村だが、戦前の1941(昭和16)年には人口は2万4千人がいたといい、戦後の1950(昭和25)年には2万3340人を数えた。1958(昭和33)年時の小学校の児童数は4000人を超え、当時、全国一のマンモス校と言われたものだ。1960(昭和35)年時でも、人口は2万人を超えていた。
 しかし、日本を牽引してきた石炭産業も、時代の波とともに石油によるエネルギー革命により衰退に追い込まれていく。経営が苦しくなった杵島炭鉱は、1958年に住友石炭鉱業へ経営移行。そして、1969(昭和43)年に閉山した。

 町の土台骨だった杵島炭鉱がなくなった後の大町町は、もぬけの殻のごとく急速に過疎の町となっていった。
 現在(2023年)の大町町の人口は6047人、人口密度は525人/㎢で、最盛期の4分の1である。
 ちなみに現在、佐賀県で最も人口密度が高い市町村は、鳥栖市で1042人/㎢である。県庁所在地の佐賀市は532人/㎢で4位。衰退した大町町がそれでも佐賀市の次の5位にいるのが奇妙な感じだ。

 *
 咲いた花が萎れて枯れていく様(さま)に似て、年ごとに賑やかだった大町の街から華やかさが消えていき、活気を失っていく過程を長年見てきた。
 現在、町から炭鉱関連施設はほとんどなくなった。
 炭坑節にも歌われていると思わせた大きな2本の煙突。7階建てと称した華麗な建造物であった選炭場。通学道にもなった不思議の構造だった三段橋。映画のほかに歌や芝居も行われた娯楽の殿堂・親和館。抗夫と一緒に入った大衆浴場・炭鉱風呂。いつも買物客でごった返していた青空市場・炭鉱広場マーケット。石炭の積み出し場の六角川沿い港町・住之江港、等々。
 それに付け加えれば、街中を行きかう7トン半のトラック。時折出没する1弦の三味線を弾く伝説の人、カックンちゃん。

 *
 4年ぶりに、育った町である大町町にやってきた。
 10月19~20日、炭鉱の面影を追って、この地に住む中学時代の同級生と町なかを廻った。かつて咲き誇った花の記憶をなぞる町巡りである。
 大町銀座と称して人通りが絶えなかった本町商店街もシャッター街と化し、行き交う人もない。かつて町のどこへ行っても数え切れないほど何列も並んでいた長屋の炭住(炭鉱住宅)は、すっかり姿形を変えていて、わずかに残っている建物は人の匂いを消してひっそりと佇んでいるばかりである。
 炭鉱の象徴であるボタ山とて、「ボタ山わんぱく公園」と整備され、登ってもそこがボタ山と結びつけるのは難しい。
 そして、日本一を誇った大町小学校・中学校は、大町ひじり学園という実態不明な名前に変わった。

 *炭鉱遺産である「電車道」のトンネル

 地元の同級生が、ぜひ見せたい、多くの人に見てもらいたいと言っていたものがある。
 それは、「電車道」跡のトンネル道である。
 かつて杵島炭鉱があった時代、大町の街中に電車が走っていた。石炭および抗夫を運ぶトロッコ電車である。大町の炭鉱本部があり選炭場のある三抗から、四抗をへて江北町の五抗へ走っていた。その道は、電車道と呼んで親しまれていた。
 今、その電車道は線路跡もない。多くは普通の道となっていて、ある部分は地下に潜ってどこだか不明のところもある。
 かつてノンプロ球団があった「杵島球場」のホームベース寄りの方向に通りを上ったところは、旭町と呼んだところだ。そこへやって来て同級生は「この家の下を電車道のトンネルが通っている」と言った。家の奥は藪の繁みである。
 トンネルの出口が向こう(西側)にあるが塞がれている、と近くの民家のあったところを下った斜面を指さした。
 さっそく、繁みの下方に位置する電車道のトンネルの入り口(東側)に向かった。
 そこは、通りの横にある民家の脇の奥に位置していた。町に住んでいる人でも、普段は通り過ぎて気づかないだろう。
 繁みのなかに分け入ると、暗い洞窟の穴のようなものが見えた。これが、電車道のトンネルの入り口(出口でもある)だ。入口近辺は車のタイヤが散在している。
 出口部分は塞がれているので奥は真っ暗である。暗いトンネルの洞窟の中に懐中電灯を持って入ってみると、そこは異空間だった。
 丸い天井は何重にも奥に続く梁がむき出しに見え、時空間を超えた、忘れられた遺跡のようである。これは、きちんと整備すれば炭鉱遺跡だと思った。
 (写真は、トンネルの中から入口方向を見たもの)
 ただし、友人によると、台風や大雨などでこの土地がどこまで持つかが不安だと言う。場合によっては、トンネルの上にある家屋まで影響を及ぼすからである。どうするかは難題である。先月には町の視察も行われたという。
 残っていた電車道のトンネル。大町ではめったに見られない炭鉱の遺産、遺跡であるが、見方によっては棄産、棄跡である。
 言っておくと、トンネルは老朽化しているので気軽に中に入るのは危険である。

 ノスタルジーに駆られて大町の街中を歩いたが、考えさせられた炭鉱の足跡であった。
 炭鉱の町で育ったこともあって、おりにふれ炭鉱の町を見て歩いた。
 北は北海道の夕張、歌志内から、福岡県筑豊の田川、飯塚、志免。それに三池の大牟田。長崎県の高島、松島、崎戸、等々。
 炭鉱の鉱山以外でも、佐渡(新潟)の金山、石見(島根)の銀山、足尾(栃木)、別子(愛媛)の銅山、等も見て回った。
 どこも過去の繁栄の面影が残り、想像をかきたて、時の流れの哀愁を感じさせた。

 この日の大町は、空を見上げれば青空だ。町の北の方の頂(いただき)では、白い浮雲を従えた鬼ヶ鼻(岳)が、変わりゆく街を今も静かに見守っているかのようだ。

 *武雄温泉の夜

 日が暮れたころ、大町を発って武雄に行った。
 武雄市は3年間、高校に通ったところだ。話題の西九州新幹線(武雄温泉~長崎)が開通して、駅の構内および外観がすっかり都会の駅のように変わった。
 この夜(10月20日)、高校時代の友人3人で、武雄在住の友人が馴染みの鮨屋「まねき鮨」で久しぶりに会って飲んだ。ここの鮨屋も4年ぶりだ。魚の素材と鮮度にこだわるこの鮨屋は、県内屈指の鮨屋と言っていい。

 会食・談笑も終わり帰り際、嬉野在住の友人に、「どうやって帰るの?」と訊いたら、「新幹線で」と言う。夜の酒の席には、車で来ることはない。「ほう、そういう手があるのか」と思った。
 武雄市の南に位置する嬉野市は温泉とお茶が有名だが、鉄道が通っていないことがウィークポイントだった。
 ところが、今度開通した西九州新幹線で「嬉野温泉駅」ができ、町(塩田町との合併で市になった)に鉄道が通ったのだ。
 本来博多から長崎まで繋ぐはずだったのだが、去年(2022年)見切り発車した西九州新幹線は、武雄温泉駅から長崎駅まで全5(武雄温泉-嬉野温泉-新大村-諫早-長崎)駅、全区間の実距離66 kmという新幹線最短距離数で、所要時間は全23~32分である。列車名も、従来博多~長崎間を普通特急として走っていた「かもめ」を使用している。
 ところで、武雄温泉駅から次の嬉野温泉駅まで1駅、10.9㎞。5~6分で着く。最終発車時刻が22時02分で、適度な時間だ。
 1駅だったら各駅列車でいいではないかと思うのが普通だろう。ところが、嬉野温泉駅というのは、新幹線だけの駅なのである。普通の列車は通っていないのだ。町(市)に鉄道が通ったからといって、隣町まで気軽に列車(電車)で行けるようになった、通学にも便利になったというのではないのだ。こんな町(市)と駅も珍しい。
 料金は、武雄温泉駅~嬉野温泉駅、乗車券280円、自由席の特急料金870円、合計1,150円で、新幹線だからと思えばそう高いともいえない。とはいえ1駅区間だけ乗ることを思えば、やはり高い。

 夜は、辰野金吾設計の竜宮城のような楼門の武雄温泉内の「楼門亭」に泊まった。効率的なビジネスホテルと違って、温泉隣接の昔ながらのアナログ旅館である。
 これも、またレトロな味があっていい。
コメント
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