かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

四谷見附橋の謎② 二つある四谷の四谷見附橋

2021-05-20 02:06:45 | * 東京とその周辺の散策
 四谷見附にある「四谷見附橋」は、新宿通り(国道20号)の四ツ谷駅上に架かる陸橋である。
 四ツ谷駅を出ると、この四谷見附橋の端に出る。西側は新宿通りの四谷から新宿方面へ行き、東の皇居側の駅前に出ると、右手(南)には上智大、まっすぐ進むと麹町で、皇居・半蔵門にぶつかる。
 そして、である。
 四谷界隈をよくご存じの人は、当然知っておられるだろうが、四谷見附のJR四ツ谷の駅と線路を跨ぐ橋は2つあるということを。
 四ツ谷駅の麹町(千代田区側)の駅前から左手(北)の市ケ谷方面に進むと、すぐに四谷見附橋と並行してやや小ぶりの橋があるのに気づく。ずっと前からこの橋はあるので、気づくのは当然だが、印象に残りにくい橋なのだ。
 それに、その橋のふもとには古い石垣がむき出しにあり、その上奥にはこんもりとした木々がある。これも前からあるので、何気ない風景として見過ごすぐらいだ。(写真)
 その橋は、大きな新宿通りの四谷見附橋と並行していて、西の新宿方面側に渡ると、これまた新宿通りと並行して走る、四谷1丁目の三栄町道に繋がる。
 それにしても、四谷見附橋と並行してある、この見落としがちなもう1つの橋は何という橋なのだろう。

 日頃愛用している東京の地図帳、「街の達人〔東京 便利情報地図〕」(昭文社2016年2版1刷)を開いて見た。
 通常の5万分の1の「皇居」箇所では、四ツ谷駅上に架かる新宿通りの大きな橋には何も名は書かれていなくて、その北にある小さな橋に、何と「四谷見附橋」とある。新宿通りの大きな橋でなく、北側の小さな橋が四谷見附橋だと?
 改めて、別枠としてある6千分の1の拡大図の「四谷・麹町」箇所を見ると、新宿通りの大きな橋はちゃんと「四谷見附橋」とあり、北側の小さな橋は「新四谷見附橋」となっている。
 「四谷見附橋」の北側に並行して架かる橋の名前は、「新四谷見附橋」なのだ。

 *江戸時代から四谷見附に橋はあったのか?

 では、2つの四谷見附橋はいつ頃、どちらが先に造られたのだろう?という疑問が残った。
 元を遡れば、江戸城の外濠にあたる。江戸城防御を目的とした外濠が造られた寛永13(1636)年後、併せて濠の各所に警備番所である見附が設置され、その要所には石垣を設けた枡形の門が造られた。
 いわゆる江戸城三十六見附であるが、その1つが、「四谷見附門」である。

 現在の外濠は、飯田橋(牛込見附)から市ケ谷(市谷見附)の少し先までである。市ケ谷から四谷(四谷見附)に向かう途中から埋めたてられて濠は切れている。四谷の先の赤坂(赤坂見附)あたりで外濠である「弁慶濠」が現れる。
 四谷見附から赤坂見附の間に、外濠である「真田濠」があったのだが埋めたてられて、いまは上智大のグランドとなっている。
 江戸古地図を見ると、江戸城を周る外濠は現在とは違いほゞ繋がっているのだが、見附の門のあるところで濠は区切られている。つまり、外濠の外と内を結ぶ線として、土で埋めて道を造っているか橋を架けているのである。
 四谷見附を古地図で見ると、四谷見附門を境に市ケ谷寄りの市谷濠と赤坂寄りの真田濠とに分断されて、新宿方面に繋がっている。四谷見附門から、道もしくは橋があるのだ。
 資料によると、寛永年間(1624~1644)に、新宿方面に繋がる土橋、つまり土塁が造られたようである。かつては、それは「四谷見附門橋」と言っていたらしい。
 四谷見附門から江戸城(現皇居)方面に続く道は、防衛上のためにクランク状に折れ曲がって造られている。今も、そのようになっている。

 *明治の「四ツ谷」駅誕生

 江戸時代が終わった後、1872(明治5)年、四谷見附門は解体された。
 冒頭の部分で書いた、現在もある四谷北側の新四谷見附橋のたもとの石垣は、その四谷見附門の名残なのだ。

 1889(明治22)年、甲武鉄道(のちのJR中央本線) 新宿駅~立川駅間が開業。
 1994(明治27)年、甲武鉄道の牛込駅~新宿駅間が延伸開業。牛込駅・四ツ谷駅・信濃町駅の各駅が開業。
 1895(明治28)年、市ケ谷駅が開業。飯田町駅~牛込駅間が延伸開業。飯田町駅が開業。

 「日本鉄道旅行地図帳」(新潮社)の廃線鉄道地図をみると、現在の飯田橋駅の少し市ケ谷駅寄りに「牛込駅」があり、飯田橋駅の少し水道橋寄りに「飯田町駅」がある。その後、1928(昭和3)年に「飯田橋駅」が置かれ、同年牛込駅は廃止となっている。飯田町駅は1933(昭和8)年に貨物駅になったあと、1999(平成11)年廃止となっている。

 新宿から飯田町まで延ばした甲武鉄道は、その中間にある四谷から飯田町まで外濠の皇居側の土手に沿って線路を敷き、「四ツ谷駅」続いて「市ケ谷駅」が誕生した。

 *「四谷」と「四ツ谷」、そして「市谷」と「市ケ谷」

 「よつや」の名の謂れは諸説あるが、定説はない。
 地名として「四谷」が見られるのは、徳川家康が甲州街道と青梅街道を敷いた際、その途中に設けられた「四谷大木戸」が最初である。
 「四谷」と「四ツ谷」の表記であるが、現在でも決定的な区別の根拠はない。
 江戸から明治の中頃まで、「四ツ谷」の表記が多いが、「四谷」と混在している。1878(明治11)年に「四谷区」が誕生した以降、「四谷」表記が強くなったようである。
 それが要因かどうかは不明だが、地名表記は「四谷」だが、JRの駅名表記は「四ツ谷」である。東京メトロも駅名は「四ツ谷」であるが、「四谷三丁目」はなぜか「ツ」がない。

 四谷の隣の「市谷」(いちがや)も、地名は市谷田町、市谷佐内坂町など「市谷」表記だが、JRの駅名は「市ケ谷」である。
 地下鉄の東京メトロの駅も「市ケ谷」だが、都営地下鉄の駅は「市ヶ谷」と表記する。
 市谷冠称地名は、外濠の外側の新宿区にあるのだが、JRの市ケ谷駅が外濠の内側の千代田区にあるため、千代田区富士見町の「法政大学市ケ谷キャンパス」や千代田区九段北にある「アルカディア市ヶ谷(私学会館)」など、千代田区内でも市ケ谷、市ヶ谷もしくは市谷を表するものも少なくない。
 「いちがや」は、「市谷」とすると「四谷」(よつや)と違って、「いちや」と称するので、地名以外は、「市ケ谷」もしくは「市ヶ谷」と表記した方がわかりやすいように思う。さすがに「市ガ谷」、「市が谷」は見うけないが。
コメント
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