かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

平成最後のお節と、武蔵国一の宮の初詣

2019-01-03 19:27:14 | 気まぐれな日々
 青空に 流れる雲の ゆく末は
   君くれないの 花盛りの径(みち)
               (沖宿)


 * 一人のための簡単お節料理

 平成最後の年である2019(平成31)年の東京の正月は、青い空が一面広がって、穏やかな日だった。
 今年最初にかけた曲は、ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ第9番イ長調「春」。そのあとは、「惨憺たる幸福」のなかの、モーツァルトのピアノ協奏曲第1番ヘ長調へと。

 いつものように、一人でのお節料理の元旦を迎えた。
 前日の大晦日に買ってきていた、蒲鉾、昆布巻き、黒豆が売り切れだったので普通の大豆煮。それに田作り。
 田作りは、今年は出来あいのものではなく、片口イワシをフライパンで乾煎りし、それに醤油と砂糖と水を混ぜたたれをまぶし、弱火で撹拌して作った。これで、出来あいのものより少しは甘みを弱めることができる。
 それに茹で卵を加えると、何とか最低限のお節の体裁は整えられるというものである。子づくりに励むわけではないので、カズノコなどはいらない。

 あと野菜類は、カボチャ煮、ホウレン草のおひたし。それに何と、場違いな感はあるが冷蔵庫にあるトマトを切って並べる。
 魚は、脂がのったカンパチの刺身に、淡い桜エビ。

 これらを普段は食器棚に眠っている、有田の皿にのせる。少し華やかさを醸し出したい正月には、「香蘭社」の赤い椿の絵皿がよく似合う。こんなハレの日にしか出番がなくて、申し訳ないが。
 日本酒は、正月ぐらいしか飲まない。
 佐賀での正月のときは、ときに「東長」のときもあったが、通常は「窓の梅」か「天山」であった。佐賀の酒は東京では容易には手に入らないので、ここのところ新潟の「越乃寒梅」である。
 徳利と猪口は、今年は佐賀の実家から東京・多摩に引っ越しさせた「深川」の瑠璃葡萄の絵柄で。酒は少し熱燗で、正月だから屠蘇を入れて飲むことに。

 料理や酒をテーブルに並べると、品数と見栄えだけはいいが、手間をかけていない簡単お節の出来上がりである。
 これまた正月だから、花を柿右衛門風の花瓶に差すと、心も少し浮かれる。
 今年から少しは早く起きようと思っているのだが、テーブルに座る頃はやはり昼になってしまい、窓からはお節を並べたテーブルに少し眩いぐらいの陽がさしこんでいる。(写真)
 穏やかな正月だ。
 いつまでも続けばいいのだが、そうはいかないのが世の常だろう。
 
 ちびりちびりと酒を飲みながら自称お節料理を食べ終わったあとは、例年なら雑煮を作るところである。
 ところが、今年は手抜きで、前日近くのスーパーで買った焼き芋で腹の足しにした。本当に、最近の焼き芋(石焼き芋であるが)は、自分で蒸かしたのより、格段に甘いというか美味いので、ここのところちょくちょく買い、病みつきになりそうな気配なのだ。
 
 * 初詣は、多摩の白山神社から武蔵国一の宮・小野神社へ

 さて、雑煮の代用、焼き芋を食べ終ったあと、陽も傾いた夕方、おもむろに初詣に出た。
 まずは、多摩市の近くの神社の「白山神社」である。
 神社に着くと、境内では多くの人がいて、ちょっとした人の波だ。本堂の脇の方では、暖のためか薪を燃やしていて、周りに人が集まっている。お神酒もふるまわれている。誰彼が参拝している本堂からは人が並んでいて、参道となる階段の下の通りまで行列が続いている。
 この白山神社は、普段は観光地ではないので人は滅多に見かけないのだが、多摩センター駅から近いからか(キティちゃんのピューロランドからさらに近い)、正月は予想外の多くの人が集まる。
 参拝するのにも、日本人は几帳面に並んで列を崩さないので感心してしまう。2年前に体験した明治神宮だったら致し方ないと思うのだが、参拝するのに何分かかるかわからないので、また別の日に来ることにして、この日は甘酒だけいただいて白山神社を出た。
 白山神社よ、すまん!

 年末からはイルミネーションが輝き、人通りも多い多摩センター駅からパルテノン多摩に続く大通りも、正月は行き交う人も何故かひそやかだ。

 その足で、多摩市の聖蹟桜ヶ丘にある武蔵国一の宮の「小野神社」に向かった。
 小野神社へは、この2年、9月の秋の例大祭のときに来ているのだが、正月の初詣は初めてである。
 着いたときは、もう暗くなっていて、境内のなかは数えるほど人は疎らだ。本殿の方に明かりが見えるが、おみくじの販売もお神酒の配分も、もうお仕舞いのようで係りの人は誰もいない。
 ともあれ、まずは本殿で参拝をして、今年のささやかな希望を祈った。
 まあ、いつも同じようなことを唱えるのだが、実現しない。それは、ひとえに毎年神様が怠けているのではなくて、僕が怠けているにすぎないのだが。

 燻ぶっている薪のあとを箒で這っている神官用の白衣を着た人に、もうお仕舞いのようですが、何時で終わるのですか、と訊いてみた。
 すみません、早く終わって。そうですね、だいたい陽が暮れた頃に終わりにしています。時間で門を閉めるところもありますが、ここは入るのはいつでも入れます、との返事だった。

 何時までというのではなくて、陽の暮れる頃という、時計に縛られない昔風のところが何とも古風でいい。
 小野神社は、武蔵国一の宮といっても威厳を感じさせるのではなく、どこにでもある村の八幡神社を少し大きくした感じと思わせるのが、親しみを持たせる。



コメント
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