かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

無頼な死にざまを描く、「愚者よ、お前がいなくなって淋しくてたまらない」

2014-08-21 00:18:11 | 本/小説:日本
 文学上、無頼派というと、一般的には坂口安吾、太宰治、織田作之助、檀一雄などを指す。さらに時代を下ると、無頼派の定義はさておき、吉行淳之介、色川武大、中上健次などがあげられるだろう。
 現在活躍中の作家では見つけるのが難しいが、伊集院静はまぎれもなく無頼派だろうと「愚者よ、お前がいなくなって淋しくてたまらない」を読んで改めて実感した。
 「流星たちの宴」でデビューした頃の白川道は、その片鱗を感じさせたが、今はどうなのだろう。西村賢太も範疇に入りそうだが、バラエティ番組に出演している言動を見ると、個人的には認めがたい。
 無頼派というと、作品もそうだが、魅力は何といってもその生きざまだろう。常道を逸脱した、いや逸脱せざるを得ない生きざまが痛ましくも哀歓を抱かせるのだ。
 無頼派と呼ばれるほどの作家が少なくなったのは、近年は男の作家が大人しくなったからなのか。むしろ女性で、西原理恵子、中村うさぎ、若い時の山田詠美などにその原資を見出すことができる。

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 「愚者よ、お前がいなくなって淋しくてたまらない」(集英社刊)は、伊集院静の女優である妻(夏目雅子)の死後、ギャンブルや酒の日々の時代に登場してくる人物を描いた自伝的な私小説である。そのような意味では、先に話題になった色川武大(阿佐田哲也)との交流を描いた「いねむり先生」と同時代のものである。
 奈良から、梅田、函館、十三、小倉、新宿、福島、浅草、六本木、向島、そして安来と舞台は変わる。そして、いねむり先生も登場する。

 妻の死後、関西に居を移した主人公は、スポーツ紙の競輪記者エイジと出会う。彼は喧嘩っ早いが正義感溢れる男だった。二人は競輪のあと、よく一緒に飲みに歩いたが、主人公は彼といるときはなぜか気が休まるのだった。
 そして、CMディレクター時代の後輩で、今は芸能プロダクションをやっている陽気な男。
 私はあなたの書く小説が読みたい、と小説執筆を迫るフリーの編集者。
 彼らは主人公にとって気の許せる男だったが、いつしか主人公の前からいなくなる。理由も言わないままに。主人公は、彼らと連絡をとろうとするが、まるで逃げるように、彼らは姿をくらます。

 筆者は次のように書く。
 「まっとうに生きようとすればするほど、社会の枠から外される人々がいる。なぜだかわからないが、私は幼い頃からそういう人たちに恐れを抱きながらも目を離すことができなかった。その人たちに執着する自分に気付いた時、私は彼らが好きなのだとわかった。いや好きという表現では足らない。いとおしい、とずっとこころの底で思っているのだ。」

 本書では、常道を生きようとしながら逸脱していった男の人生が、哀歓を持って語られている。
 究極、ここで語られるのは、男の死にざまである。男はどうやって死ねばいいのか。男のやるせない死に方が読む者自らにもふりかかり、いとおしくも戸惑うのだ。

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