先日、<作戦間違い@電王戦>、<その2>、そして<その3>と、勝手にもやもやしていることを書いてきました。
昨日の第四局も一時は森下九段が指せそうなところまでは頑張ったのですけど、第三局の豊島七段のように序中盤のうちに明確な差がつけられるようにできないと結局かなわないという図式ができつつあるようです。
(それにしてもあのトイレの位置っていうのは何なんだ?!和服着てる棋士に対するいじめみたいに見える。大雨とかだったらどうなってたの?試合放棄もんじゃない?そして外に出て階段下りてトイレに行く様を中継してるってどうなの??)
さて、電王戦の仕掛け人の記事がありました。
「将棋、そして囲碁」電脳に負ける人類を待つもの (川上量生)
<一部引用させてもらいます。>======================
身の回りの強い人から挑んでいって負けていく。だんだん勝てるひとが少なくなって、そして、最終的にはプロが人間を代表して戦う。そういう構図です。素人から徐々に勝てなくなっていく様子をリアルタイムで歴史に残していける、というのが、囲碁電王戦の役割だと思っています。
そこから人々は何を学ぶことができるのか。それは、コンピューターとのつきあい方でしょう。人間よりも優秀になってくコンピュータに対して、正々堂々と一騎打ちを挑む道もあれば、戦いを避けることもできる。また、利用するという生き方もある。
だれもコンピューターに負けたくないわけですよ、人間は。でも現実はいつかは負ける。コンピューターが進化したらどうなるかというと、徐々に人間の頭脳は必要とされなくなっていくのです。
この問題に対して向き合うというのが、これから21世紀を生きる我々にとって重要だと思っています。コンピューターの頭脳が人間を追い越したときのひとつの回答として、人間には共存を選ぶという道がある。将棋電王戦ではそれを試しました。
<中略>
そういう意味では、将棋電王戦はAIの進化に少なからず影響を与えるとは思います。でも、将棋電王戦をやったところで、AIの進化の速度はさほど変わらない。コンピューターは知らないうちに賢くなるし、知らないうちに人間に勝つ。
ただ、将棋や囲碁というのは、人間がやってきたことにコンピューターが挑戦してくるわけで、分かりやすくその進化が可視化される。つまり、人間が知らないうちに追い抜かれるのではなくて、ちゃんとわかる形で追い抜かれるんです。
そのとき、人間はどう対応していくかのモデルケースが電王戦です。進化していくコンピューター、人工知能にどう対応すればいいのかを人間側に考えさせる極めていいモデルケース、というのが、電王戦の意義だと思っています。そこに、社会的な意味がある。
少なくとも5年10年は電王戦を盛り上げたいと思っています。人間がどこまでやれるか、見守る。それが僕らの義務だと思っているので。
==========================
僕はプログラマーとか科学者じゃないのでわからないけど、なんだかずいぶんと不遜な言い方に聞こえるし、上から目線も感じるし、正しいことを言ってるのかもしれないけど、どうにも友達にはなりたくない人っていう印象が残る。
いや、言ってるように電王戦の意味とか役割っていうのは理屈としてはよくわかるのだけど。。
『コンピューターは知らないうちに賢くなるし、知らないうちに人間に勝つ。』って、誰かが一生懸命そういう研究開発をしてるからそうなるんですよね?
もちろんメーカーや国も加担してるということだろうけど、なんだか人の手を離れて、人間の意志とは別のところで勝手にそうなってるわけではないですよね?
ITとか科学技術の研究開発はすごいスピードで進んでいるし、もうどうにも止まらない状況なのかもしれないけど、それってどうなのだろうか。
もちろん人類の発展や進化や幸せに結びつくことは計り知れない価値があるのだと思う。
でも負の部分だってたくさんある。
結局は人間が主導的に自分の幸せ、地球全体の幸せとは何かをきちんと考えて取捨選択したり判断したりしていかないと歯止めがきかなくなる。
環境問題、地球温暖化の問題、核や原発の問題、市場経済・金融経済の問題などなど科学技術の進化は巨大な文明や経済発展をもたらし、限りなく地球や人間を変えていってる。
人間はそれでいいのか。
将棋はそれでいいのか。
ずいぶん前の<成長し続けること>という記事の中でも書いているけど、近代化、文明化、経済発展のこの流れは我々にとって本当にいいのだろうか、という懸念です。
経済発展による恩恵は十分受けているし感謝もしているけど、
いささか調子に乗りすぎなんじゃないの?
少し立ち止まって反省したり振り返ったりする時期なんじゃないの?
3年前の東日本大震災を機に皆がそういう気持ちになったのではないの?
と冷静に、客観的にそう思うのです。
ips細胞やSTAP細胞ができて、病気が治って、若返って、すべての人が120歳まで生きられることが本当に幸せなのかどうか。
そのことで社会全体のデメリットはないのか。
戻りたくても後戻りできなくなることはないのか。
いろんな画期的なものができてしまったときにそれをきちんと運用できるだけの信頼感がコントロールする人間に対して持てるのかどうか。
などと、話は将棋と関係なくどんどん大げさな展開になっていって収拾つかなくなっていってるけど、こんな記事も見つけました。
電王戦は,21世紀を生きる人類を映し出す鏡なのかも――将棋棋士・谷川浩司氏がゲストの「ゲーマーはもっと経営者を目指すべき!」第16回
山崎バニラが語る今回の将棋電王戦について思うこと
羽生善治三冠と川上量生ドワンゴ会長のスペシャル対談
また電王戦に話をもどしてこのシリーズ続けますね。
昨日の第四局も一時は森下九段が指せそうなところまでは頑張ったのですけど、第三局の豊島七段のように序中盤のうちに明確な差がつけられるようにできないと結局かなわないという図式ができつつあるようです。
(それにしてもあのトイレの位置っていうのは何なんだ?!和服着てる棋士に対するいじめみたいに見える。大雨とかだったらどうなってたの?試合放棄もんじゃない?そして外に出て階段下りてトイレに行く様を中継してるってどうなの??)
さて、電王戦の仕掛け人の記事がありました。
「将棋、そして囲碁」電脳に負ける人類を待つもの (川上量生)
<一部引用させてもらいます。>======================
身の回りの強い人から挑んでいって負けていく。だんだん勝てるひとが少なくなって、そして、最終的にはプロが人間を代表して戦う。そういう構図です。素人から徐々に勝てなくなっていく様子をリアルタイムで歴史に残していける、というのが、囲碁電王戦の役割だと思っています。
そこから人々は何を学ぶことができるのか。それは、コンピューターとのつきあい方でしょう。人間よりも優秀になってくコンピュータに対して、正々堂々と一騎打ちを挑む道もあれば、戦いを避けることもできる。また、利用するという生き方もある。
だれもコンピューターに負けたくないわけですよ、人間は。でも現実はいつかは負ける。コンピューターが進化したらどうなるかというと、徐々に人間の頭脳は必要とされなくなっていくのです。
この問題に対して向き合うというのが、これから21世紀を生きる我々にとって重要だと思っています。コンピューターの頭脳が人間を追い越したときのひとつの回答として、人間には共存を選ぶという道がある。将棋電王戦ではそれを試しました。
<中略>
そういう意味では、将棋電王戦はAIの進化に少なからず影響を与えるとは思います。でも、将棋電王戦をやったところで、AIの進化の速度はさほど変わらない。コンピューターは知らないうちに賢くなるし、知らないうちに人間に勝つ。
ただ、将棋や囲碁というのは、人間がやってきたことにコンピューターが挑戦してくるわけで、分かりやすくその進化が可視化される。つまり、人間が知らないうちに追い抜かれるのではなくて、ちゃんとわかる形で追い抜かれるんです。
そのとき、人間はどう対応していくかのモデルケースが電王戦です。進化していくコンピューター、人工知能にどう対応すればいいのかを人間側に考えさせる極めていいモデルケース、というのが、電王戦の意義だと思っています。そこに、社会的な意味がある。
少なくとも5年10年は電王戦を盛り上げたいと思っています。人間がどこまでやれるか、見守る。それが僕らの義務だと思っているので。
==========================
僕はプログラマーとか科学者じゃないのでわからないけど、なんだかずいぶんと不遜な言い方に聞こえるし、上から目線も感じるし、正しいことを言ってるのかもしれないけど、どうにも友達にはなりたくない人っていう印象が残る。
いや、言ってるように電王戦の意味とか役割っていうのは理屈としてはよくわかるのだけど。。
『コンピューターは知らないうちに賢くなるし、知らないうちに人間に勝つ。』って、誰かが一生懸命そういう研究開発をしてるからそうなるんですよね?
もちろんメーカーや国も加担してるということだろうけど、なんだか人の手を離れて、人間の意志とは別のところで勝手にそうなってるわけではないですよね?
ITとか科学技術の研究開発はすごいスピードで進んでいるし、もうどうにも止まらない状況なのかもしれないけど、それってどうなのだろうか。
もちろん人類の発展や進化や幸せに結びつくことは計り知れない価値があるのだと思う。
でも負の部分だってたくさんある。
結局は人間が主導的に自分の幸せ、地球全体の幸せとは何かをきちんと考えて取捨選択したり判断したりしていかないと歯止めがきかなくなる。
環境問題、地球温暖化の問題、核や原発の問題、市場経済・金融経済の問題などなど科学技術の進化は巨大な文明や経済発展をもたらし、限りなく地球や人間を変えていってる。
人間はそれでいいのか。
将棋はそれでいいのか。
ずいぶん前の<成長し続けること>という記事の中でも書いているけど、近代化、文明化、経済発展のこの流れは我々にとって本当にいいのだろうか、という懸念です。
経済発展による恩恵は十分受けているし感謝もしているけど、
いささか調子に乗りすぎなんじゃないの?
少し立ち止まって反省したり振り返ったりする時期なんじゃないの?
3年前の東日本大震災を機に皆がそういう気持ちになったのではないの?
と冷静に、客観的にそう思うのです。
ips細胞やSTAP細胞ができて、病気が治って、若返って、すべての人が120歳まで生きられることが本当に幸せなのかどうか。
そのことで社会全体のデメリットはないのか。
戻りたくても後戻りできなくなることはないのか。
いろんな画期的なものができてしまったときにそれをきちんと運用できるだけの信頼感がコントロールする人間に対して持てるのかどうか。
などと、話は将棋と関係なくどんどん大げさな展開になっていって収拾つかなくなっていってるけど、こんな記事も見つけました。
電王戦は,21世紀を生きる人類を映し出す鏡なのかも――将棋棋士・谷川浩司氏がゲストの「ゲーマーはもっと経営者を目指すべき!」第16回
山崎バニラが語る今回の将棋電王戦について思うこと
羽生善治三冠と川上量生ドワンゴ会長のスペシャル対談
また電王戦に話をもどしてこのシリーズ続けますね。
科学の進歩、進化とは、結局様々な行為にかかる時間が短くなるだけのような気がするのです。
将棋に関しても、必勝法?というか、結論が出るのが早まるだけではないか、と。
将棋の結論、こればかりは、人間、プロ棋士から奪って欲しくないです。うんうん唸って、チビり出す過程が観たいのです。
なんちゅうハンドルネームですか。(笑)
ま、それはともかくコメントありがとうございました。
>いつも楽しく拝見しております。
ありがとうございます。また時々気軽にコメントいただけたらうれしいです。
>科学の進歩、進化とは、結局様々な行為にかかる時間が短くなるだけのような気がするのです。
そうなんです。ほんとそう思います。
ゆっくりじっくり精一杯、楽しみながら進めていけばいいと思います。
>将棋に関しても、必勝法?というか、結論が出るのが早まるだけではないか、と。将棋の結論、こればかりは、人間、プロ棋士から奪って欲しくないです。うんうん唸って、チビり出す過程が観たいのです。
それが楽しいんですよね。
将棋がどんどん丸裸にされていってつまらなくなったらちょっとルールをいじったらいいと羽生さんが言ったみたいですけど、それはそのときのことで、ITの力を駆使してプロ棋士同士(+ファン)の楽しみの場所に押しかけなくてもいいと思うのですよ。
連盟は、電王戦で新しいファン層を開拓するつもりなのでしょうが、はてさて。
なし崩し的に総合格闘技に参戦したプロレスと、どうにも被ってみえるのです。
ヅラだけに。
座して死ぬよりも・ってくらいに、今、将棋界は追い込まれてしまってるんですかねぇ??
>お返事頂き恐縮です。連盟は、電王戦で新しいファン層を開拓するつもりなのでしょうが、はてさて。
そこは具体的な数字まではわからないですけど、これをきっかけに将棋に興味を持ったり安定的なファンになったりした人はかなりいるのではと思っています。
>なし崩し的に総合格闘技に参戦したプロレスと、どうにも被ってみえるのです。ヅラだけに。
僕もそう見えます。それも安っぽい、とか場末の、とかの形容詞をつけたくなっちゃうのですけど、上記のこととかぶるけど、格闘技ファンを将棋ファンに取り込もうとする狙いはよくわかります。
>座して死ぬよりも・ってくらいに、今、将棋界は追い込まれてしまってるんですかねぇ??
どこまで現状に危機感を持っているのか、今回の件をどのような位置づけ、目的として今後につなげようとしているのか、機会があれば聞いてみたいと思っています。とはいえ子供や若い女性などへの普及はずいぶん進んでいますよね。その辺は努力の成果だろうと思います。
電王戦関連の考察記事、どんどん面白いことになってきますね。世間的な事情とは全然違う理由で、仕事が割と忙しくて、ついついレスが遅れてしまいました。
実は「その3」も「その4」もずいぶん前(多分Up記事がされた当日)に読んでいたのですが、読んだ直後から心の中にモヤモヤが沸き起こってきて、でもそれをうまく表現できなくて、困っていました。それが、今日たまたま有名な山本一成さんのブログで「コンピュータとラッダイト運動」という記事を読んで、モヤモヤが一気に晴れました。
例によって考えは浅いのですが、私の直感としまして、どうもコンピュータ将棋の問題を議論するときに、科学技術一般の話を持ち出して、「技術の進歩し過ぎを止めるべきだ!」という論調に持ち込むのは、筋悪な気がするのです。だって、当面の問題は将棋のプロ棋戦(を観戦する楽しみ)を現在のままの形で維持する(=将棋ソフトの開発に楽しみを見出す人達の自由を制限する)ことを優先するか、将棋ソフト開発者の自由と楽しみを維持する(=棋士と将棋観戦者の現在形での自由と楽しみ方を制限する)ことを優先するか、ですよね? なるほど、こちらを立てればあちらが立たずで難問ではありますが、別に人類の滅亡がかかっているわけじゃないし、何も核兵器とかの話を持ち出さなくてもいいんじゃないかと思います。
で、将棋ソフト問題を技術一般の問題に拡大する傾向がある(nanaponさんはいろいろな角度から考えているだけで、大上段に構えて議論しているわけではありませんが、巷にそういう傾向はあるようです)のに対して、山本さんが正面から反論されたのが、上の引用記事だと思うのです。でも、私は山本さんは尊敬していますけれども、この記事は筋悪の議論に対する筋悪の反応であって、読んでから残念な気持ちがしました。山本さんご本人は、きっと単に「前向きになろうよ」と言いたいだけなんでしょうけれど、ラッダイト運動との比較みたいなことをソフト開発者の立場にいる人自身が大々的に書いちゃうと、将棋ソフトや電王戦に批判的な意見を持つ人達を「時代遅れの人達」と見下しているようになってしまって、非常によくないと思うのです。
というわけで、将棋(プロ棋戦)を愛するあまりに、事柄をあまり大げさに捉えないよう、注意した方がよいかもしれない、というだけのコメントでした。例によって長文ですいません。
小学校のときには将棋世界と近代将棋を毎号買って道場に通うぐらいに将棋が好きだったのに、その後ずっと将棋から遠ざかってしまい、電王戦をきっかけにまたちょっと自分でも指してみようかな、と思い始めた40代後半男性です。
コンピュータの棋力がプロ棋士を上回っていることが明らかになったときのプロ棋士(と棋戦と観戦記者?)の存在意義について、いろいろな方が心配されているようです。この件、私は楽観的です。
なぜなら私にとっての将棋の楽しみとは、自分でウンウンとうなりながらある局面での最善手を探すプロセスにあるからです。
プロ棋士同士の対局を見ているとき、私もその棋士になったつもりでウンウンとうなりながら(下手なりに)考え、大盤解説者の示す他の考え方に「あっ、そんな読み筋もあるのか!」と感嘆し、また、対局者が指した手について(大抵私のヘボ読みとは違う手になるのですが)考えるのが楽しいのです。
ある局面の最善手は何か?というパズルの解自体には関心はなく、そのパズルを自分で解く過程を楽しみ、同時に同じパズルを共有している対局者や解説者との指し手や大盤を通した対話を楽しんでいるのです。
なので、そこで私の持っているスマホの画面に最善手(の候補)が提示されていても、それで他の読み筋を探す楽しさや対局者や解説者と対話をする楽しさは、少なくとも私にとっては減らないのです。将棋を指している人たちの大多数は、私と同様にして将棋を楽しんでいて、将棋というゲームの完全解を求めることには関心は高くないのではないかと思っているのですが、いかがでしょう?
こうした対話を楽しむのが文化だからこそ、将棋連盟も公益財団なんですよね?将棋というゲームの完全解を求めようというなら、それは単なる1つの数学の課題だという気がします。
ようこそいらっしゃいました。
すっかりレス遅くなって申し訳ありません。
>小学校のときには将棋世界と近代将棋を毎号買って道場に通うぐらいに将棋が好きだったのに、その後ずっと将棋から遠ざかってしまい、電王戦をきっかけにまたちょっと自分でも指してみようかな、と思い始めた40代後半男性です。
そうなんですか。
テレビその他でかなり露出したし、そういう方が多分たくさんいらっしゃると思うし、その意味では電王戦の意義、普及効果は十分あったと思います。
>なぜなら私にとっての将棋の楽しみとは、自分でウンウンとうなりながらある局面での最善手を探すプロセスにあるからです。プロ棋士同士の対局を見ているとき、私もその棋士になったつもりでウンウンとうなりながら(下手なりに)考え、大盤解説者の示す他の考え方に「あっ、そんな読み筋もあるのか!」と感嘆し、また、対局者が指した手について(大抵私のヘボ読みとは違う手になるのですが)考えるのが楽しいのです。
それは僕も同じです。観る将棋ファンとしての楽しみ、醍醐味はそういうことですよね。
>なので、そこで私の持っているスマホの画面に最善手(の候補)が提示されていても、それで他の読み筋を探す楽しさや対局者や解説者と対話をする楽しさは、少なくとも私にとっては減らないのです。将棋を指している人たちの大多数は、私と同様にして将棋を楽しんでいて、将棋というゲームの完全解を求めることには関心は高くないのではないかと思っているのですが、いかがでしょう?
解説者も含め、やはりプロ棋士の読みとか意見を聞いて、自分なりに考えながら局面や流れを楽しむわけですよね?
でもそこでプロ棋士よりもはるかに上級者の(数年後かもしれないけど)コンピュータの考える読みが提示されたとしたら、ちょっと興醒めなんじゃないですかね?
解説してるプロ棋士だって、自分よりもはるかにいい指し手を次々と提示されてしまったら、面目丸つぶれというか、嫌気がさしちゃうと思うのだけどどうでしょうか?
心配し過ぎと言われたらそうなのですけどね。
今後ともよろしくお願いします。
この話題、先日、職場の同僚とも話題にのぼりました。私と同じように、子供の頃は将棋を指していたけど中学ごろからはずっとご無沙汰していたなぁ、という人が多いのは驚きで。それじゃあ早速指してみます?という話になり、何局か楽しみました。
どうしてこういう人って、同じような棋力なんでしょうね?(それとも私が手のひらの上で踊らされただけかな?)
それはともかく、同僚と話しているときに話題にあげたネタを nanapon さんにもお伝えしようと思って再びコメントを差し上げました。
コンピュータ将棋から少し離れて、例えば、トヨタや google が開発しているクルマの自動運転について考えます。これは、いずれ人より優れた運転をするようになることは間違いありません。なんといっても、人は目と耳からしか情報を取り入れないのに対して、コンピュータはそれ以外の情報も(場合によってはほとんどの人が持ち歩く携帯電話の位置情報すら)使えるので、将棋以上にコンピュータに有利な面さえあります。
でも、だからといって、個人がクルマをドライブする楽しみが減ることはないんじゃないか?と私は思っています。そしてその楽しみを感じることができる人が多く存在する限り(自動運転が人より優れたものになっても)、F1 や WRC のような自動車競技はなくならないように思うのです。
で、同じことは将棋についても言えるだろうな、と。
将棋のプロ棋士や解説者の生活を支える仕組みが崩れるとすれば、それはコンピュータ将棋の棋力がプロ棋士の棋力を上回った時ではなく、将棋を指す楽しみを知らない人が増えたときだと思います。現状を見渡せばそちらの危険のほうがよほど大きく、休み時間に将棋をみんなで指していたなんていう光景は今の小学校ではあまり見られないようです。だとすれば、コンピュータに勝とうが負けようが、いずれ10年か20年後には将棋連盟の経営は成り立たなくなっていたはずです(スポンサーをしている大手新聞社と比べて、どちらが危なくなるのが早いかという話はありますが、それは別の話です)。
どんな企業にとっても、伝統的な顧客を満足させながら新しいマーケットを開拓するのは難しいのですが、これまでの普及活動では新規開拓には足らなかった(少なくとも私や私の同僚の周りには届いていなかった)わけです。少なくとも電王戦というイベントで将棋への関心は高まったのですから、これをどのように生かして将棋人口を拡げていく努力をするかが大切なところだと思います。
むしろ、私が心配しているのは、伝統的な顧客からの声(これは当然、組織に届きやすい)を重視するばかりに、新規マーケットを理解し、参入しようとする努力を止めてしまうことです。
今回の電王戦をきっかけに将棋への関心をとりもどした人間としては、正直なところ、記者会見や blog, twitter などでの連盟の方々の発言の中には、「あぁ、これではこの組織は将来持たないだろうなぁ」と感じられてしまうことがたくさんあります。
杞憂でなければいいのですが。。。
今後ともよろしくお願いします。
すっかり遅くなって申し訳ないです。
ずっと忙しかったのと電王戦の件ではいろいろ読んだりしてどう書いていいのか瞑想したり迷走したりしてました。
この九鬼さんのコメントもまた記事にしていろいろ書こうと思っていましたがやっぱりまとめきれないので予定変更してここに書きます。
>で、将棋ソフト問題を技術一般の問題に拡大する傾向があるのに対して、山本さんが正面から反論されたのが、上の引用記事だと思うのです。でも、私は山本さんは尊敬していますけれども、この記事は筋悪の議論に対する筋悪の反応であって、読んでから残念な気持ちがしました。山本さんご本人は、きっと単に「前向きになろうよ」と言いたいだけなんでしょうけれど、ラッダイト運動との比較みたいなことをソフト開発者の立場にいる人自身が大々的に書いちゃうと、将棋ソフトや電王戦に批判的な意見を持つ人達を「時代遅れの人達」と見下しているようになってしまって、非常によくないと思うのです。
筋悪ですか。(笑)
僕はやはり理科系の人間ではないこともあり、上記の記事もそうだし、九鬼さんのおっしゃるように上から目線というか、勝手おたく目線を感じてしまいます。
山本さんのことは知らないですけど、「もうできてるものは仕方ない、すべて肯定してどう新たな価値を見出すか考えればいい、その前提の上で嘆くのでなくどう生きていけばいいか考えればいい。」というのはかなり違和感を感じてしまいます。
この話をまたつきつめていくと、さらに味の悪いことになるので、とりあえずこの辺で。本当に遅くなってすみませんでした。
>コンピュータ将棋から少し離れて、例えば、トヨタや google が開発しているクルマの自動運転について考えます。これは、いずれ人より優れた運転をするようになることは間違いありません。なんといっても、人は目と耳からしか情報を取り入れないのに対して、コンピュータはそれ以外の情報も(場合によってはほとんどの人が持ち歩く携帯電話の位置情報すら)使えるので、将棋以上にコンピュータに有利な面さえあります。でも、だからといって、個人がクルマをドライブする楽しみが減ることはないんじゃないか?と私は思っています。そしてその楽しみを感じることができる人が多く存在する限り(自動運転が人より優れたものになっても)、F1 や WRC のような自動車競技はなくならないように思うのです。
で、同じことは将棋についても言えるだろうな、と。
車は運転もしないし詳しくないので車の楽しみのことはよくわかりませんが、機能と楽しみということですよね?いわゆるデジタルとアナログ。
僕も、アナログ的ないかにも人間が苦しみながら考えたりすることはなくならないと思います。
>将棋のプロ棋士や解説者の生活を支える仕組みが崩れるとすれば、それはコンピュータ将棋の棋力がプロ棋士の棋力を上回った時ではなく、将棋を指す楽しみを知らない人が増えたときだと思います。現状を見渡せばそちらの危険のほうがよほど大きく、休み時間に将棋をみんなで指していたなんていう光景は今の小学校ではあまり見られないようです。だとすれば、コンピュータに勝とうが負けようが、いずれ10年か20年後には将棋連盟の経営は成り立たなくなっていたはずです(スポンサーをしている大手新聞社と比べて、どちらが危なくなるのが早いかという話はありますが、それは別の話です)。
それはおっしゃる通りです。
棋士がコンピュータにかなわなくなることよりも、一言でいえば将棋ファンが減ることです。
僕が懸念するのはそこで、コンピュータソフトとの付き合い方を間違えるとファンが減ることに繋がりませんか?大丈夫ですか?ということです。
大手新聞社にだけ依存してるとそのうちやばいのでは?ということも今後の連盟の大きな課題なのでしょう。
そういう意味では、ドワンゴのような新たなイメージのスポンサーがつくことは本当にいいことだと思います。
>どんな企業にとっても、伝統的な顧客を満足させながら新しいマーケットを開拓するのは難しいのですが、これまでの普及活動では新規開拓には足らなかった(少なくとも私や私の同僚の周りには届いていなかった)わけです。少なくとも電王戦というイベントで将棋への関心は高まったのですから、これをどのように生かして将棋人口を拡げていく努力をするかが大切なところだと思います。
そうですね。せっかく拡げられた層を今後もうまく育てていくことが肝心ですね。
入り口だけ興味を持ったけど、すぐに飽きてしまってはせっかくの電王戦の意味がないですものね。
>今回の電王戦をきっかけに将棋への関心をとりもどした人間としては、正直なところ、記者会見や blog, twitter などでの連盟の方々の発言の中には、「あぁ、これではこの組織は将来持たないだろうなぁ」と感じられてしまうことがたくさんあります。
杞憂でなければいいのですが。。。
それはどの辺の発言を指しているのでしょうか?
昔から連盟に対しては期待を込めてではあるけど、かなり辛口発言したりしてるので、また教えてください。僕が懸念してる今回のことも杞憂に終わればいいと思っています。
>今後ともよろしくお願いします。
すっかり遅くなって申し訳なかったですがまたちょこちょこ遊びに来てください。