竜王戦のまとめについては
前回の記事でも書きましたが、今日は今回の竜王戦を振り返って感じたことをつらつらと。
将棋ブログ界の巨匠、
shogitygooさんも
今回の羽生が最後までどこかおかしくてちくはぐだった印象を与えたのも事実だと書かれてますが、誰もが感じた
「今回の羽生名人はどこか変調だった。」という印象について、少し掘り下げてみたいと思います。
まず、
英さんが
渡辺竜王7連覇 ~その強さの独善的解析~という記事の中で、こう分析されています。
③渡辺将棋と羽生将棋の相性
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「相性」という言葉に逃げたくはないのですが……。
以前にも述べたことがあるかもしれないが、読みのリズムが合わないのではないか。
羽生名人は一局の将棋は読みの積み重ねで出来上がると考えている。定跡や研究の道筋をたどっていけばスイスイ進めるところでも、立ち止まって周りを見渡し樹木の後ろや看板の陰などを覗きたい。ところが、渡辺竜王はそういったものは実戦では不要でなるべく方針を決めて想定した局面に進めたい。もちろん想定した局面やそこに至る道に落とし穴がないかを検証する作業は必要だ。
羽生名人にしてはもう少し眺めていたい場面でも、竜王がずんずん進んでいってしまうので、ストレスに近いものを感じてしまうのではないだろうか。
両者の違いは心理面だけでなく、物理面(ちょっとニュアンスが違うかも)でも少なからず違いがある。
車に例えると、羽生名人は障害物を完璧なコーナリングでクリアしていく、きれいな弧を描きながら、しかも、紙一重で障害物をかわしていく。しかも、スピードを落とさず立ち上がりもフル加速で。
過去の定跡や研究を踏まえながら、また、一局の流れも考慮しつつ、さらに、局面局面をそのつど新鮮な目で解析しなおして、読みの精度を上げ大局観も駆使して読み進めている。
対する渡辺竜王は直線的なコーナリング。コーナー手前まで直線的に入り、そこで一気にターンをし、直線的にコーナーに突っ込んでいく。スキーの回転競技のように旗門の前でターンを終え肩から旗にぶつかっていくイメージだ。もちろん、強靭な足腰(タイヤのグリップ力)と基礎体力(エンジン)とボディの頑丈さが要求される。ただ、読みの省略がうまいので、細かいコーナリングはそれほど要さない。
具体的に将棋について言及するとしたら、先ほど述べたように定跡や研究を基に、対局前や開始直後に目指す局面を想定しそこを目指す。中盤以降は寄せ筋をある程度想定し、それを目指すための方針(受け切る、斬り合う、入玉含みに上部を厚くする)を決める。
両者とも高いスペックが要求されるが、名人の方がエネルギー的にも物理的(制動力やタイヤやエンジン)にも消耗が激しいように思える。
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車を比喩にしての説明、とてもわかりやすいですね。
「羽生名人は、スイスイ進めるところでも、立ち止まって周りを見渡し、樹木の後ろや看板の陰などを覗きたい。」
これも面白いです。
羽生名人の方が、勝負というよりも将棋というものへの畏敬や探究心が限りなく大きいということですね。
将棋が好きで好きで、奥が深すぎて、面白くて、だからこそそこから派生して他の分野の一流の方々との交流がある。
社会や時代のいろいろな事象と将棋とのリンクを探求している。
将棋という文化、ゲームの奥底に、もっと複雑で難解な哲学が横たわっている。
将棋の指し手を進めるということは、その哲学を探求していくということ。
羽生さんと他の棋士との違いはここなんじゃないでしょうか。
竜王戦第三局、
第五局の記事でも書きましたが、今回の竜王戦は、記念扇子の揮毫そのままの展開だったように思えます。
渡辺竜王の「勢」と羽生名人の「意」。
渡辺竜王の、攻めでも守りでも、決して消極的にならず、終始勢いのある将棋を指したいという思い。
羽生名人の、一手一手に、あるいは一局一局に、意義があるように、後世に残るような意味のある棋譜を残せるように、という願い。
「意」と「勢」が盤上で火花を散らす。
今回の竜王戦について、羽生さんを良く知る某羽生応援サイト管理人さんはこう語ってます。
「それにしても泰然自若な羽生さんが異常なほどに意識している。
谷川さんが羽生さんに意識した構図が、なんと羽生さんに輪廻は回る糸車・・・
谷川さんがふと肩の力を抜いたとき羽生さんに勝てるようになったように、
羽生さんが渡辺竜王の呪縛をとりはらったときに自然に勝てるようになる
気はしますが果たして・・・」
羽生さんが「すっぽ抜けてた」という表現もされてました。
目の前の一局、盤上の一手、といつも泰然として言っている羽生さんが意識せざるを得なかったのは、何か、噛み合わない、空回りしがち、技がかかりにくいというイメージがあったからこそではないでしょうか。
けんか四つではないけれど、がっぷり四つには組めない。
勝負の呼吸が合わない。
この14年の世代の差と言うのは、特にネット文化というものが血液の中に入ってる濃度が違うはず。
ネットの時代に育った感性や思考形態。
山の頂上と言う目指すところは同じでも、その登り方は絶対的に違うはず。
そして、ここからは羽生さんだけが感じてることと思うけれど、
相手(渡辺竜王)は敵でもあるけど、いい棋譜を残すため、いい作品を作るための共同製作者なわけだから、気の合った共同作業をしていかないといけない。
お互いの良さをさらに引き出して、二人でしかできない最高の作品を作り上げたい。
しかし、二人の意気が以心伝心でぴったり合わないと、うまく回っていかない。
すっぽ抜けてしまう。空回りしてしまう。
なんか噛み合わないので、急遽共同作業から単独作業に切り替えてみたりもせざるを得ない。
そこに齟齬が生まれ、金属疲労が発生し、本来の力が出し切れない。
棋は対話なり。
その対話が(同世代たちとのものより)いまいち弾まない、という思いを対局中にひとり感じてたのではないだろうか。
長年連れ添った相思相愛の夫婦のような安心感や信頼観が持てない不安。焦燥感。
いろんな人が指摘しているように、渡辺竜王は羽生名人が相手でもなんら意識も警戒もしない。(明らかにおととしとは違うはず。)
常に、ゴーイングマイウェイで、合理的、効率的に、ズバっと一刀両断していく。
動じないし、クレバーだし、歯切れがいい。
おまけに自信に満ちていて、いい意味の鈍さも持ち合わせ、思うがままにどんどんと局面を切り拓いていく。
この二人の将棋を
おととしの竜王戦の時の記事で、
「渡辺は西洋医学、羽生は東洋医学。」
と書いたことがあります。
西洋医学というのは、敵を見つけて倒せ、という思想。
一方、東洋医学は、バランスを保て、という考え方。
曰く。西洋医学は、病気を治し、東洋医学は、病人を治す。
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西洋医学と東洋医学の位置づけ。
西洋医学
検査で病気の原因をまずさぐり、その原因を取り除くことによって病気を治すのが治療方法。
病気の原因を「悪」ととらえ、取り除くものと考えるが、人間の身体を一種の精密機械と考え、病気は部品(臓器や組織)が故障(異常や変調)した時に修理したり、交換したりして元に戻す、というのが考え方。
あらゆる科学的な検査をして、消去法に近い形で病気・炎症部分を特定していく。反面、病気の原因が究明できないと効果的な治療ができない。
検査漬けと薬漬けなどの面もあるが、先端的な技術で致命的な病気も治療できる。
東洋医学
原因を取り除くことよりも、元々備わっている健康状態のバランスを重要視する。
「自然と人間のバランスがとれている状態」を健康状態と定義する。
このバランスが崩れてしまうと「病気」になり、それを直すには、バランスをもとに戻し均衡を保てば良いということになる。
身体は一つの小宇宙で、病気は全身のバランス(自然治癒力や免疫力)に乱れがあった時に起こると考える。
宇宙の中で生かされている生命体の一つとして人間をとらえ、未病(まだ病気になっていない状態)学を発達させてきており、西洋医学とはまた違った優しさや真理がある。
どちらがいい、悪い、優劣というものではなく、歴史も背景も基本理念も違うものだけど、結局は人間を相手にするものだし病気を如何に治すかが課題である。
最近では、西洋医学も東洋医学を取り入れ、予防と自然治癒力を回復することに重点を置き始めていて、それぞれの利点を生かしながら、社会や自然、宇宙との調和に基づいてもっと全体的に健康を考えていこうという流れにあるようだ。
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西洋医学も東洋医学も、目的、頂上は、病気を治すことです。
その頂上に向かってどう登っていくかの考え方が全く違っています。
しかし、現在は両者はお互いの優れた部分を認めつつ、さらに効果的な登り方を極めようとしています。
こういう話になってくると、
渡辺=うまくアクセルを踏む
羽生=うまくブレーキを踏む
渡辺=正しい手
羽生=美しい手
渡辺=一意専心
羽生=一期一会
渡辺=知識・記憶の基づく読みの深さと集中力
羽生=適応力・見切り力・創造力
などと、二人の現在の将棋観、大局観の違いについてのイメージが広がっていく。
ずいぶん長くなってしまったので、
最後に、某羽生応援サイト管理人さんの印象的な一言で締めたいと思います。
「羽生さんがもし完璧な絶対王者だったら応援してなかっただろう。
危うさ、脆さ、儚さを秘めている羽生さんだからこそ応援したくなるのです。」
そんな二人が今この2010年と言う時代に、一期一会で死力を尽くした今回の竜王戦。
まだまだその余韻に包まれて、二人の戦いを振り返りつつ、
将棋の奥深さや無限の可能性に改めて胸を熱くしている冬の夜です。