即席の足跡《CURIO DAYS》

毎日の不思議に思ったことを感じるままに。キーワードは、知的?好奇心、生活者発想。観る将棋ファン。線路内人立ち入り研究。

作戦間違い@電王戦・その3

2014年04月03日 22時26分51秒 | 将棋
先日、<作戦間違い@電王戦>、そして<作戦間違い@電王戦・その2>という記事を書きました。

最初の記事にコメントいただいた九鬼さんの意見を元に電王戦について考察していますが今回は前の記事の続きです。
前回の記事では「このままコンピューター将棋が強くなっていっても、プロ将棋は大丈夫なのか?」について考察したので、今回はもう1つの問題点、「強い将棋ソフトを作るのは何のためなのか?」についてです。

まず九鬼さんのコメントを引用させてもらいます。

冷めた見方?   by 九鬼さん

<九鬼さん>もう1つの問題点、「強い将棋ソフトを作るのは何のためなのか?」に対して、私は直接回答できませんが、こう言わせてください。将棋自体はゲームにすぎません。将棋のプロ棋戦が成り立たなくなっても、将棋はなくならないでしょう。じゃあ、将棋のプロ棋戦は何のためにあるのでしょうか? 将棋文化は? そんなに社会の役に立っていますでしょうか?

いや、私自身はプロの将棋を観戦するのが大好きだし、今後も絶対になくなって欲しくないですが、でもエゴを抑えて冷静に見てみると、将棋のプロ棋戦とか、将棋文化とかが、強い将棋ソフトの開発以上に社会の役に立っている、代替不能の価値を有している、と断言することは難しいように思います。繰り返しますが、将棋自体は、所詮は有限ゲームですし。

将棋自体の歴史をみても、プロ棋戦っていうのは割と最近にできたもので、それ以前は家元制度があったわけです。じゃあ家元制度がプロ棋戦になって失われた文化の価値と、プロ棋戦がなくなって失われる文化の価値を比較せよ、と言われても困ります。他方で、強いコンピューター将棋同士を戦わせる世界にも、文化がないと言えないわけではない。文化って何のためにあるんでしょうね?
===============


かなり奥深いところに行ってしまいそうなテーマです。

将棋は何のためにあるのか?
名人戦などのプロの棋戦は何のためにあるのか?

そして、将棋ソフトは何のためにあるのか?
何のために強いソフトを開発するのか?

さらにはもっと大きなテーマになり、
文化とは何のためにあるのか?
そして科学とは一体何のためにあるのか?

これはでかすぎるし深すぎますね。

文化についてはこんな言葉があります。
《文化芸術は、人々の創造性をはぐくみ、その表現力を高めるとともに、人々の心のつながりや相互に理解し尊重し合う土壌を提供し、多様性を受け入れることができる心豊かな社会を形成するものであり、世界の平和に寄与するものである。》

心豊かな社会、そして、世界平和まで登場しちゃってますね。
普通に考えたら、科学も同じだと思いますが、要は人間、人類の幸せのため、ということでしょう。

しかし、まだ文化の方がとてもわかりやすいし受け入れやすいですけど、それが科学技術とかとなると一段階難しくなる気がします。

さて長くなりますが、科学って一体なんのためにあるの?というお題について考察します。

科学技術の意義という教えてgoo!の記事です。
Q:《大学の講義で,「科学技術には裏表があり,ある技術を開発すると,その技術は,社会にプラスの影響と同じだけのマイナスの影響を与える」というものです.例えば,車を開発したら,いろいろ便利だけど,同時に環境を悪化させるといえますよね.どんな技術にも当てはまると思いませんか.

では,科学技術を進展させることの真の意義とは何でしょうか.プラマイゼロなら,進展させることに意義などありませんよね.難しい問題ですので,そこまで本質を突いた回答でなくて構いません.》


とてもわかりやすく共感する疑問です。
そのベストアンサーがこちら↓。

A:《電気を使ういろいろな技術が開発されています。しかし、なぜ、電子があるのか、なぜ、原子があり、その存在意義は何か、と言う意味でのwhyについてはなんら答えられていません。そういう意味でのwhyです。

ある課題、たとえば、100mを5秒以内に移動するというものを解決することは、技術を持って出来るわけです。しかし、「移動」はなぜ必要なのか、そもそも「移動」って何だという問いは、多くの場合、答えないままでいるわけです。

もっと卑近な例で言えば、「食べる」と言うことです。おなかがすいたから食べる、生きるために栄養が必要だから食べる、これが答えでしょうが、では、人間を食料として必要な生物が出てきて、彼等が「腹が減ったから食うぞ」と言ったら、それで納得がいくのかと言うことです。
なぜ、「食べる」と言うことが出来るのか。植物も、鳥も、牛や豚も同じ生き物であり、人間が彼等を食べることが出来るのは、単に「強い」からに過ぎないのか。それなら、もっと強いものが出てきたら、どうするのか。「強さ」の裏づけである進化は、何を目指しているのか。人間が進化してきたというのは、本当はどんな意味があってのことなのか。

これらの問いに、まったく答えることが出来ていないわけです。そして、その状態で、人類は巨大技術というか、人間のコントロールを超えた技術を開発してしまっています。それは、遺伝子操作であり、核関連技術です。起こると予測されているプレート境界型の大地震で原発が地震で壊れたら、六ヶ所村の核廃棄物保管施設が壊れたら、それこそ地球規模の震災になります。》


どんどん深い話になっていきます。

また有名な書評ブロガーの小飼弾さんは科学の存在理由、目標についてこう述べています。

『人間にとってそれが自然の姿なので、「信じたい」より「知りたい」を優先するのが、科学だ。

人間の幸せのためとかではなく、「知りたい」は「信じたい」よりも強いからこそ科学の意味があるはずだ。

ゆえに科学に存在理由は不要だ。』


NHK-E「新世代が解く ! ニッポンのジレンマ」感想の中に小飼さんと同じようなこんな意見もありました。

『科学とは、自然なる真実の探求であり、実践にどう役立つのか、科学者の社会貢献という問題はまた別のテーマ。
たとえば車を作ろうとするときには、こんな車ができたらいい、こんなことが可能になったら楽しいのでこんな車を作りたい、と科学者はいろいろ考える。
でもその時に、轢かれて死ぬかもしれない、とか排気ガスはどうなんだ?と考え始めたら車なんて一生できやしない。
実際に車ができて、使うときに初めて議論すればいい。』

『一部の非常にずば抜けた能力を持つ人が、自分が追求したいことをパッションの赴くままに追求することが真の科学者の役割とすれば、そうして生まれた科学技術をリスクを管理していかに社会に役立てるかという役割と本来切り分けられているべきではないか。』


どんどん電王戦の話からずれていってますね。

ここまで来ると話はどういう方向に進むのか自分でもわからなくなってきました。

強い将棋ソフトを作るのは真実の探求なので、知りたいという欲求のままに研究を進めていく。
できたらどうするのか、世の中にどういう価値を提供するのかは謎のままに、日々強いソフトを作るための研究を進めていく。
そして出来上がった時に初めて、そのソフトをどう使うのか、どう伝統文化と融合させればいいのか、どう役割分担するのか、どう協力したらいいのかということを検討して決めていけばいい。

まあそうなんでしょうね。
科学者ではない僕はなんかひとつ腑に落ちない気もするけど。

開発者、研究者のそもそもの思いってあるわけですよね?
ざっくりとでもいいので、こんなものを作りたい、の先にあることってあるんですよね?
そこがないと、何かひょんなことですごいものができちゃった時に、そこから使い方とか社会にどう取り込んでいくのか考えるってとても怖い気がします。

昨日から始まったNHKのNEWS WEBで中村太地ネットナビゲーターも言ってました。
コンピュータと人間がそれぞれに得意とするところを組み合わせてどんどん新しいものを生み出していければいい。
伝統文化である将棋にとってもどんどん新しいものを取り入れていく部分と決して変えてはいけない部分もあるので今後しっかりその辺を考えていかなければいけない、と。

まあ、何度も言ってるけど、強いソフトのとめどない進化は続いているわけだから、将来的な共存共栄できる形を皆で想像力を目一杯働かせて議論しなければいけない時なんじゃないのかなあ、って思うわけですね。心配性のオジサンとしては。

九鬼さんからまたまたコメントいただいたこともあり、このネタ続く予定です。
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