電王戦、いろいろありましたが、順当な結果で終わったようです。
テレビでも新聞でもかなり話題にもなり、これをきっかけに新たに将棋に興味を持つ人もかなり増えたと思うし、覚悟を持って出場した棋士の方々もおしなべて、いい経験になった、新たな気づきがあり間違いなく自分の成長につながったというような感想を述べています。
そういう意味ではそこを目論んでいた連盟理事会もかなり満足しているのではと思っています。
さて、今年の電王戦についていろいろもやもやを書いた記事はこちら。
<作戦間違い@電王戦>
<その2>
<その3>
<その4>
<その5>
上記の記事には九鬼さんはじめいろいろなご意見のコメントもいただきました。(九鬼さん、まだ一つのコメントにレスできてなくてすみません。)
今回の電王戦の総括という意味ではいろいろ下記のような記事が出ています。
遠山五段の第3回電王戦総括 コンピュータとの共存共栄と今後の電王戦について
shogitygooさんの将棋における人間とコンピュータ雑感Ⅲ
そして、
将棋電王戦と「機械的失業」と棋譜の著作権
いろいろな見方があり考えさせられますね。
そんな中で昔からのブログ仲間だからというわけではないけれど、やはり共感してしまうのはこの二人の記事。
ssayさんの記事、<・・・もう、やめたら?(完)>
---------------------------------------------------
プロ棋士の中には、今回出場した棋士たちよりも、更に強い棋士もいる。
しかし、その更に強い棋士がコンピューターに挑んでいったとしても、
コンピューターは更に上の強さを我々に見せてくれるに過ぎないであろう。
その底知れぬ強さを目撃してみたいと思わなくもない。
しかし、それをやってしまうと、ぼくのような人間は心に大きな傷を負うであろう。
-------------------------------------------------
そして英さんも<電王戦雑感 その1「最高峰の将棋じゃなくなること」「研究でのソフト使用について」>、<その2「対局規定の整備の必要性」「電王戦仕掛人の思惑」>、<その3「コンピュータ将棋の特徴」>、<その4「羽生将棋とコンピュータ将棋の類似点」>と続々と記事を書かれてドワンゴ川上会長の意見に対してこう言ってます。
**************************
「役割」「意義」「義務」という言葉を使っていますが、棋士がコンピュータに立ち向かい、苦しみ、敗れ去る様を見世物にするという意思を感じます。
***************************
そして、僕のその5の記事に対して将棋ペンクラブログ@shogipenclublogさんがtwitterでこんなレスをくれました。
+++++++++++++++++++++++++
コンピュータやシステムは人間のための道具・手段であるわけで、それを目的と取り違えているからこのような考えになるのでしょうね。 川上会長は。
+++++++++++++++++++++++++
いろいろな意見を踏まえて、
『ほんと、このままでいいの?
連盟さん、今ここでしっかり考えて未来のために想像力を働かせていろいろ手を打っておかないと、知らないよ、大丈夫なの?
僕ら将棋ファンを悲しい気持ちにさせないでよね、お願いだから。』
少なくても僕はこんな気持ちなわけですよ。
いろんな難しいこと、手を打たなければならないことはすでにちゃんと考えているから心配は要らないですよ、と言われればそれまでで、心配性過ぎるオヤジの戯言なわけです。
ま、要は早めにそう言ってもらって僕らを安心させてほしいわけですね。
さて、電王戦の今後の展開。(ほんとにまだ5年10年続けるの?)
(空想(妄想))
羽生さんが誰もいない後楽園ホールのリングに設置された特別対局場で、真剣に電王手くんと向き合っている。
いつものように工夫してひねり出す羽生さんの指し手がすべてかわされ見透かされ、いいようにあしらわれてしまう。
苦悶の表情を浮かべていたものの、あまりの実力差に立ち向かうすべもなく、あきれたような物憂げな表情に変わっていく。
今まで出場した棋士の方々の、強い相手に立ち向かいたいという気持ちはよくわかるけど、多分3年後では手も足も出なくなるのだと思う。
まだ何とか棋士が勝てるのはせいぜいここ1,2年だから、今のうちに強い棋士を登場させて人類とコンピュータの戦いを歴史に残しておこうというのはとてつもなくむなしいし、棋士に対する思いやりやリスペクトがないと言わざるを得ない。
(棋士を愛するファンに対する愛情や感謝の意も含め)
棋士がどうしても進んでやりたいというのであればまだ仕方ないし、歴史の瞬間も見たいというファンもいるのだろうけど、その足跡を残したところでそこに何の意味があるのかわからない。
強い棋士と対戦することでコンピュータの開発のヒントが増えるだけのような気もしてしまう。
将棋がどんどん丸裸にされていく。
日々の人間の研究の苦しみや努力が意味をなさなくなっていく。
ヒントをくれるだけでなく、その楽しみや苦しみの道程をコンピュータがどんどん奪っていってしまう。
プロが対局の場で、また、研究会で、寄ってたかって研究した結果の手がそれなの?
そんなのダメに決まってるじゃん、アホやなあ、人類なんて偉そうな顔してなんぼのもんじゃい、とコンピュータにさらっと言われてしまうことになっていく。
考えれば考えるほど、コンピュータソフトの進化は何のため、誰のため?と思ってしまう。
プロ棋士に勝つため?
より強いソフトを作るため?
より強いソフトを開発することで人工知能や科学技術の進化に貢献するため?
将棋をこよなく愛する僕たち人間が、より将棋を楽しめるようにコンピュータを使いこなしていくというのがまっとうな形ではないのだろうか?
もちろん科学の技術開発そのものを否定したり疑問視したりするわけではないのだけれど、大局観や理念もなく技術開発を進めていくと制御不能になったり、管理できなくなることが起こりはしないのだろうか?
人類対コンピュータ!と格闘技のような話題性ばかりが目立ってしまって、本来のこういう議論がないがしろにされているように思う。
そんな大げさな話じゃないとも思うのだけど、まだまだもやもやしています。(続くかどうか不明)
テレビでも新聞でもかなり話題にもなり、これをきっかけに新たに将棋に興味を持つ人もかなり増えたと思うし、覚悟を持って出場した棋士の方々もおしなべて、いい経験になった、新たな気づきがあり間違いなく自分の成長につながったというような感想を述べています。
そういう意味ではそこを目論んでいた連盟理事会もかなり満足しているのではと思っています。
さて、今年の電王戦についていろいろもやもやを書いた記事はこちら。
<作戦間違い@電王戦>
<その2>
<その3>
<その4>
<その5>
上記の記事には九鬼さんはじめいろいろなご意見のコメントもいただきました。(九鬼さん、まだ一つのコメントにレスできてなくてすみません。)
今回の電王戦の総括という意味ではいろいろ下記のような記事が出ています。
遠山五段の第3回電王戦総括 コンピュータとの共存共栄と今後の電王戦について
shogitygooさんの将棋における人間とコンピュータ雑感Ⅲ
そして、
将棋電王戦と「機械的失業」と棋譜の著作権
いろいろな見方があり考えさせられますね。
そんな中で昔からのブログ仲間だからというわけではないけれど、やはり共感してしまうのはこの二人の記事。
ssayさんの記事、<・・・もう、やめたら?(完)>
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プロ棋士の中には、今回出場した棋士たちよりも、更に強い棋士もいる。
しかし、その更に強い棋士がコンピューターに挑んでいったとしても、
コンピューターは更に上の強さを我々に見せてくれるに過ぎないであろう。
その底知れぬ強さを目撃してみたいと思わなくもない。
しかし、それをやってしまうと、ぼくのような人間は心に大きな傷を負うであろう。
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そして英さんも<電王戦雑感 その1「最高峰の将棋じゃなくなること」「研究でのソフト使用について」>、<その2「対局規定の整備の必要性」「電王戦仕掛人の思惑」>、<その3「コンピュータ将棋の特徴」>、<その4「羽生将棋とコンピュータ将棋の類似点」>と続々と記事を書かれてドワンゴ川上会長の意見に対してこう言ってます。
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「役割」「意義」「義務」という言葉を使っていますが、棋士がコンピュータに立ち向かい、苦しみ、敗れ去る様を見世物にするという意思を感じます。
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そして、僕のその5の記事に対して将棋ペンクラブログ@shogipenclublogさんがtwitterでこんなレスをくれました。
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コンピュータやシステムは人間のための道具・手段であるわけで、それを目的と取り違えているからこのような考えになるのでしょうね。 川上会長は。
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いろいろな意見を踏まえて、
『ほんと、このままでいいの?
連盟さん、今ここでしっかり考えて未来のために想像力を働かせていろいろ手を打っておかないと、知らないよ、大丈夫なの?
僕ら将棋ファンを悲しい気持ちにさせないでよね、お願いだから。』
少なくても僕はこんな気持ちなわけですよ。
いろんな難しいこと、手を打たなければならないことはすでにちゃんと考えているから心配は要らないですよ、と言われればそれまでで、心配性過ぎるオヤジの戯言なわけです。
ま、要は早めにそう言ってもらって僕らを安心させてほしいわけですね。
さて、電王戦の今後の展開。(ほんとにまだ5年10年続けるの?)
(空想(妄想))
羽生さんが誰もいない後楽園ホールのリングに設置された特別対局場で、真剣に電王手くんと向き合っている。
いつものように工夫してひねり出す羽生さんの指し手がすべてかわされ見透かされ、いいようにあしらわれてしまう。
苦悶の表情を浮かべていたものの、あまりの実力差に立ち向かうすべもなく、あきれたような物憂げな表情に変わっていく。
今まで出場した棋士の方々の、強い相手に立ち向かいたいという気持ちはよくわかるけど、多分3年後では手も足も出なくなるのだと思う。
まだ何とか棋士が勝てるのはせいぜいここ1,2年だから、今のうちに強い棋士を登場させて人類とコンピュータの戦いを歴史に残しておこうというのはとてつもなくむなしいし、棋士に対する思いやりやリスペクトがないと言わざるを得ない。
(棋士を愛するファンに対する愛情や感謝の意も含め)
棋士がどうしても進んでやりたいというのであればまだ仕方ないし、歴史の瞬間も見たいというファンもいるのだろうけど、その足跡を残したところでそこに何の意味があるのかわからない。
強い棋士と対戦することでコンピュータの開発のヒントが増えるだけのような気もしてしまう。
将棋がどんどん丸裸にされていく。
日々の人間の研究の苦しみや努力が意味をなさなくなっていく。
ヒントをくれるだけでなく、その楽しみや苦しみの道程をコンピュータがどんどん奪っていってしまう。
プロが対局の場で、また、研究会で、寄ってたかって研究した結果の手がそれなの?
そんなのダメに決まってるじゃん、アホやなあ、人類なんて偉そうな顔してなんぼのもんじゃい、とコンピュータにさらっと言われてしまうことになっていく。
考えれば考えるほど、コンピュータソフトの進化は何のため、誰のため?と思ってしまう。
プロ棋士に勝つため?
より強いソフトを作るため?
より強いソフトを開発することで人工知能や科学技術の進化に貢献するため?
将棋をこよなく愛する僕たち人間が、より将棋を楽しめるようにコンピュータを使いこなしていくというのがまっとうな形ではないのだろうか?
もちろん科学の技術開発そのものを否定したり疑問視したりするわけではないのだけれど、大局観や理念もなく技術開発を進めていくと制御不能になったり、管理できなくなることが起こりはしないのだろうか?
人類対コンピュータ!と格闘技のような話題性ばかりが目立ってしまって、本来のこういう議論がないがしろにされているように思う。
そんな大げさな話じゃないとも思うのだけど、まだまだもやもやしています。(続くかどうか不明)