戦時下においては、戦争に大義があるかどうかなどは関係ない。
だから、不正がまかり通ってしまうこともあるのは、
歴史が証明している。
これまでの人生において、
ウマが合わないと思う人物と出会うこともあった。
その中には、単にイヤな人物だと思えるだけでなく、
明らかに悪意的な人間もおり。
それが組織社会で関わり合うこととなる人物(同僚や上司など)だと、
かなり悩まされることにもなった。
実際、自分本位な行動をとっていただけでなく、
不正行為までしたものまでいたのだから、
収まりどころのつかない感情を抱えることとなった。
しかし、こんな話は、戦時下とは異なる平時の日本での生活においてのこと。
もし戦時下であれば、このような案件は、別の面を見せることになる。
簡単に言えば、「処刑」されるか「リンチ」にされるかである。
それを理解できるものであれば、隠蔽を図ろうとするだろう。
社会全体が不穏な状態となる戦時下においては、
“巻き添え”や“とばっちり”で謀殺されてしまう人間が、
平時とは比べものにならないようにも思える。

理想的なまで社会正義が浸透している世界でも、
不正の排除は困難で、不正は、社会にとって、大きな脅威。
数年前、ある不正行為の実情を把握しきれないことから、
本社のエラい人たちは、不正行為を行なった同僚や上司とも、
その事業所の人員を、まとめて処罰することにした。
それは(親会社への)対外的なアピールだけでしかなく。
もちろん納得できるハズもなく、本社の役職者とぶつかることになった。
ここで本社にとって、解決すべき問題は、
「不正行為」から「本社の判断には、不都合な人物」へと、
変わることになった。
それを、迂闊(うかつ)にも気付いていなかった。
ハッキリ言えば、本社のエラい人たちには、実務経験もない人間がおり。
無理解な(バカでやる気もない)人物たちへの説明と説得には、
かなりの時間と根気が必要になった。
本社が、現場サイドの仕事を理解できないのは、
単純に、本社の怠慢でしかなく。
今、そのような時間と向き合っていたときには、
感じ取れなかった後悔が、心に静かに染みていく。

いつの頃からか?
8月15日の終戦記念日より、
8月が終わっていく、
今の時期になってから戦争について考えるようになった。
今も、政情不安定な地域や内戦状態の国だってある。
戦争体験者である祖父母が亡くなって、ずいぶんと経っており、
正直、75年前の戦争のことなど、どうでもいい。
戦争や紛争のようなものとは、これからも無縁でいたい。
暴力とは、無縁でいたい。
“いじめ”や“ハラスメント”のような社会的な暴力も含めて、
暴力とは関わりたくもない。
そう考える人は少なくもないだろう。
「“他人”など、どうでもよいから、“自分”は関わりたくない」というのは、
ある意味、自然な感情。
だけど…。
そんな問題とは、無縁でいたいと思っている人間には、
かなり下劣な行動(マネ)ができるものもいる。
それは、守るべき平和なのだろうか?
戦争が終わって、生活は一変する・・・そう思っていた。
(2020年8月28日加筆訂正)