昨日の続きです。
春の高山祭り、今年は、コロナ禍であっても、通常通りの祭礼を行うと決心しました。
素晴らしいことです。
その決断に称賛を送ります、ということです。
昨日記したのに、また書こうというのはどういうことかというと、その英断に、必ず横やりが入るからです。
批判する人がいるからです。
意見を述べるのは結構なことで、それを悪くいうつもりはありません。
だけど、現場を知らずに、物知り顔で批判する輩に対しては、許せないのです。
しつこく記しますが、3年行われなかったら、継続は難しいです。
祭りを行うこと、それは、神楽、獅子舞、カラクリ、巡行、等色々ありますが、毎年、祭り前に集まって、確認をします。
どうするんだったかな、ということを思い出しつつ行うのです。
毎年行っているのにも関わらず、一から思い起こして始めるのです。
要は、感覚の問題なのです。
たとえマニュアルがあったとしても、役に立たないのです。
確か、例年こうしているから、こうすればいいんじゃない、てな感覚で練習を始めるのです。
現場とは、そういうもんなんです。
ここで反論が来るのは、それなら、祭りが無くても、伝統を継承するための練習をすればいいじゃないかと。
まったく、何も分らない人がそういう無責任なことを言うのですね。
本番が無いのに練習なんかしない、ということです。
ただでさえ、祭りの準備は大変なのです。
それでも、伝統の継承、自分たちの文化の誇り、があるから、仕事を犠牲にしても行おうとするのです。
それが、祭りが無いのだったら、無理することないですよね。
もう一度記しますが……
本番が無いのだったら練習はしない。
ということです。
失礼しました。