私が通っていた映画専門学校、聞けば、来年廃校になるそうです。
私は4期生でしたから、40年近く映画制作を教えていたわけですが、来年度からある大学の映画学科に吸収されるそうです。
まあ財産は継承されることですから悪いことではないと思うのですが、一抹の寂しさは感じます。
他にも、横浜映画学校も大学になるとかで、こちらは私が通っていた学園と違い幾人かの有名映画監督を輩出しましたが、日本でも大学で映画を教える時代になったわけです。
完全に遅すぎると思いますが・・・。
日本では映画の世界は職人の世界のように思われていて、入ってから修行する、という感じだったのでしょう。
そのため、学校では現場の即戦力を作ることが求められていて、事実、私の友人も2回生の後半から現場へ出て、卒業式には出席できなかったそうです。
映画制作を教えるといっても、監督や映像作家を育てることではなかったわけです。
私が学園に入った当時の映画監督といえば、東大、京大出の監督が多かったです。
大学で映画を学んだといえば、早稲田の演劇学科を卒業した監督が一人二人いたくらいで、日本大学映画学科出の監督は一人くらいしかいなかったように覚えています。
大手の映画会社所属の映画監督のことですが。
ようは、大学では映画を学んでも監督にはなれなかったわけです。
メジャーの監督になるためには、助監督試験に受からなければならなく、その試験が高学歴出でなければ合格しないところがあったようです。
時代は変わり、というか、制作・配給のシステムが変わり、誰でも監督になれるようになりましたが・・・。
さて、私が通っていたころ、仲の良かったヤツでは、一人、有名監督つきの編修者になったものがいるそうです。
二つ年上で、最初から編集を目指していて、「俺は次男坊だから故郷へは帰れないんだ」、といっていたヤツですけれど、初心貫徹したわけです。
友人から話を聞いて驚いたことのなかに・・・
カリキュラムに音楽の時間があったのですが、映像学校ですから、ほとんどの生徒は音楽を勉強することに興味はありませんでした。
その中で、自慢して恐縮ですけれど、私は音楽のテストで100点満点を取りました。
私一人で、音楽の講師に褒められたのですけれど。
なんとその講師が、久石譲さんだったのです。
ジブリ映画の音楽監督で有名な、今では大作曲家です。
久石さん、若くて無名な時、学園で、興味のない生徒たちに音楽を教えていたのです。
私のこと、覚えていないでしょうね・・・。