シライマコトの戸惑い八景

見たり聞いたりしたモノを独自に味つけしました。
飛騨の高山から発信しています。

覆水からの想い

2013年08月25日 | 想うこと

今日は感動的なコンサートを聴いてきましたので、そのことについて書こうと思っていたのですが・・・

帰ってきてドラゴンズの試合中継を入れたら、2-7で負けていました。

結果は、4-7での完敗です。

まさかのホーム3連敗になりました。

夏休み最後の日曜日、家族連れで賑わって・・・7割ほどの入りですが、楽しみにしていたお客さんも多かったでしょうが、とても残念な結果です。

試合終了ともに、”六甲おろし”が鳴り響き、どこの球場かと思える光景ですが、寂しい夏休みの終わりとなったわけです。

まあそこまでならなにもここに記す必要はないのですが、放送時間が30分あまり、立浪特集と、ドラゴンズの優勝特集になったのです。

ドラゴンズは過去9回シーズン優勝をしています。

そのうちの4回は落合監督の時です。

落合監督8年のうちに、4回優勝、つねにAクラスで、2位だったときに、CSのお陰で、日本一にもなっています。

実質、セリーグ、ナンバー1チームでした。

が、それは過去のことで、懐かしい話なのです。

もう二度と訪れない、輝かしい過去の歴史になったのです。

そんなことを改めて考えてしまった放送でした。

・・・

さて、今日のコンサート。

高山室内合奏団・第10回記念定期演奏会、です。

会場は飛騨センター・飛騨芸術堂で、500名はいるホールに、300名ほど入っていたでしょうか。

演奏曲は、ヘンデル組曲『水上の音楽』からの抜粋と、ベートーヴェンの『運命』です。

高山室内合奏団は結成して10年になるとのことで、年に一回、このような定期演奏会を開いています。

それが、10年目にして、『運命』を演奏するまでになったわけです。

実は私、今日の昼まで、聴きに行く予定ではありませんでした。

たまたま、ビデオを借りにいこうと、妻を待って店に立っていたら、このコンサートのチラシが目に入り、入場無料という文字に目がいき、それなら行ってみようかと、思い立ったのです。

実は、私の友人の、イタリアンレストランテ『ラ・フェニーチェ』のシェフも、この合奏団に入っていて、ヴィオラを弾いています。

毎回チラシだけはいただくのですが、彼から一度も「聴きに来てくれ」、と言われたことがないため、聴きに行きませんでした。

ミスした話はよく聞きましたし、自信もあまりないようだったので、行かずにすましていました。

それが、今回は、開演時間近くになって、チラシが目に入ったため、急遽行ったのです。

さて、演奏が始まりました。

最初は、ヘンデルの組曲です。

聴いていて、オーケストラがきちんと曲を美しく響かせているので、驚きました。

まさかこんなに上手いとは、思っていなかったのです。

シェフから色々な事情を聴いていたため、シロートに毛が生えた程度の発表会レベルだと、勝手に思っていました。

本当に、失礼しました。

これはまるで、クラッシクのコンサートだと、感じたのです。

確かに、クラッシク音楽の演奏会でした。

心改め、『運命』を拝聴いたしました。

最初の音が鳴る瞬間、とても緊張しました。

たぶん、会場の大方のお客さんも緊張したと思います、客席がしーんとしてしまいましたから。

そして、あの有名なフレーズ(?)です。

崩れることなく、当たり前ですが、しっかり鳴らしていました。

もうそれから、一気に演奏に吸い込まれてしまいました。

私の大好きな第4楽章では、感動のあまり、泣いてしまいました。

何がこんなに感動させるのだと、当惑しながら聴いたのです。

シェフがかつてこんなことを言いました。

「プロのオーケストラの洗練された演奏より、アマチュアの何が起こるか分からない演奏の方が、感動することが多い」、と。

その時は、そんなもんかな、と聞き流しましたが、なんのことない、自分がそれを味わっているのです。

演奏家たちの、なんとか演奏を成功させたい、この思いを伝えたい、といった思いが客席に伝わるのでしょうか、とてかく胸を打たれました。

そして思ったのは、作曲家である、ベートーヴェンの思いというか、テーマが確実に現れているのでは、と。

”苦悩から歓喜へ”。

第九のテーマでもありますが、その片鱗が、かいま見えるとでも言いましょうか、アマチュアであるがゆえの苦しさ、辛さは、大きなものがあると思います。

それを乗り越えての演奏会ですし、一発勝負であります。

それがゆえに、何が何でも成功させるんだという、みんなの思いが一つになって、響き渡っていたのでしょう。

第四楽章では、私はその気になりやすい性格ですので、”天かける白馬”、をイメージしてしまいました。

演奏を聴き、とてもありがたい気持ちになりました。

そして、こういうのが聴けるということはとても貴重なことなんだと、改めて思ったのです。

地元の合奏団だから、意義があるのです。

聴いているお客さんの思いが直に演奏家に伝わる、そして、その思いを受けての演奏会になると思うのです。

高山に、オーケストラがあるというのは、とても素敵なことなのです。

入場無料になっていましたが、運営は大変だろうと思います。

ですが、これからも続けていってほしいと真に願いました。

そして、聴いていて最後に感じたのは、大切なのは”精神性”だと。

いかに作品から”想い”をくみ取るか。

もちろん技術がなければ、話になりません。

だけれども、想いを伝えようとしなければ、遣る意義がない。

そういう点では、私の考えられる範囲で記しますが、シェフには申し訳ないですが、主宰者の考えは正しいのでは、と思ってしまいました。

大変素晴らしい演奏を聴かせていただき、ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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WWZ

2013年08月20日 | 想うこと

『ワールドウォーZ』を観てきました。

平日昼の回で、劇場には、私たちを含め5人ほどのお客さんでしたでしょうか。

夫婦二人で2千円です。

私が50を過ぎていますから、ありがたいことです。

さて・・・ネタばれもあるかもしれませんが・・・

ゾンビ映画だったのですね。

私、映画を観るときは、極力内容を知らずに見にいきます。

ですので、この映画がゾンビ映画だということを知りませんでした。

ウィルス感染のパンデミック映画だと思っていたのです。

だけど、それがなぜに”ワールドウォー”になるのか分からないまま観たのです。

Zの意味も、最終、という意味なのだろうと、勝手に解釈していました。

Zは、ゾンビの頭文字なのですね。

要するに、ゾンビとの世界的な戦争ということですか。

てんこ盛りのボリュームたっぷりの映画でした。

十分楽しめると思いますが・・・

自己中心的な家族愛が横糸で、絶対悪との闘いが縦糸になっていました。

ゾンビだって、もとは人間なのに・・・。

最後の焼いてしまうシーンはいただけないというか、何か意図があって、と勘繰ってしまいました。

だって、「闘いはこれからだ」、と締めてしまうのですから。

いったい誰と闘うつもりなのでしょうか・・・?

 

 

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お盆過ぎて

2013年08月17日 | 想うこと

猛暑、酷暑もお盆まで、となってくれればよろしいのですが・・・。

高山は観光客でたいへん賑わっています。

昼時、観光中心街の食事どころは、どこも列ができていますが、グリーンホテル近くの中華そば屋さんにも列ができていたのには驚きました。

ガイドブックにも載っていたのでしょうか・・・?

そのように食べ物屋さんは繁盛していますが、土産物屋さんは、どうも良くないらしいです。

何十年も土産物業界にいるけど、今年のお盆ほど振り上げが少ないのは初めて、と仰った方もおられます。

お客さんがお金を使う傾向が変わってきたのでしょうか・・・。

 

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無心2

2013年08月14日 | 想うこと

昨日の続きです。

10年ほど前になってしまうでしょうか、私、『法王庁の避妊法』というお芝居に出演させてもらったことがあります。

荻野博士を演じました。

2時間出ずっぱりの芝居です。

ダブルキャストでの出演ですが、十分練習時間を与えられ、余裕を持って本番に臨める態勢となりました。

・・・・が、ダブルであるため、リハーサルは前半部分しか演じることができませんでした。

本舞台で、後半を試すことなく、本番に挑んだのです。

ですが、長い期間練習をこなしているため、芝居の前半はまったく問題なく演じることができました。

それどころか、前半最後のクライマックスでは感情が爆発してしまい、袖に入っても抑えることができないくらいになりました。

おかげで、1分ほどの幕間では涙も鼻水も乾くことがなく、落ち着かないまま後半に突入してしまったのです。

しかも後半はリハーサルをしていません。

案の定、5分ほど演じた後、急に、セリフが出なくなりました。

忘れてしまったのです。

次のセリフがまったく出てこないのです。

私は本番の舞台上で、頭の中が真っ白になってしまい、呆然と立ちつくしました。

周りの役者も、何があったのかと、私を見つめています。

その間、10秒ほどあったでしょうか・・・。

私にとっては永遠ともいえる時間です。

完全に芝居が止まりました。

しかし、相手役が、半ページほど飛ばした後のキッカケセリフを出してくれて、その場は収まりました。

助かったと、真に相手役に感謝しました。

ですが、動揺は収まりません。

短い暗転の後、いよいよ芝居の核心ともいえる、なぜ自分が医者になりこのようなことに格闘しているのか、というのを語る、長い独白の場面がきました。

妻を相手に、自分の半生から婦人科医としての決意を語るのです。

そのときです、長いセリフを語りながら、私は思ってしまいました。

「自分はまったくこんなことは信じていない」

嘘だな、嘘だな、と。

医者でもない自分が、こんなこと思うはずもない、と。

セリフは淀みなくほとばしります。

芝居は順調に進んでいます。

しかし、肝心の自分は、自分の吐いたセリフを信じられないのです。

それを本番中、感じてしまったのです。

それなのに、見かけ上は、私は演技を滞りなくこなしているのです。

たぶん、自分の動揺も表情に表れていなかったと思います。

それだけ練習をこなしていますから。

ですが、言ってるそばから、自分は嘘をついている、と意識してしまったのです。

自分がまっぷたつに割れた気がしました。

と同時に、演技をしつつ、なんとか修正しようと格闘していました。

そのとき、ふと、感じました。

というか、閃いたのです。

私は、私であって私でないのだと。

どういうことかといえば、役である荻野博士が、私の身体を通して現れているのだと。

私の口を借りて、役である荻野博士が語るのだと。

私が演じているわけではない、役が私を通して演じているのだと。

そんな思いが頭に閃きました。

そう思った瞬間、力が抜けました。

ほんの一瞬です。

その時感じたことを言葉にすれば、先のような表現になるのですが、そう感じた瞬間、楽に演じることができるようになったのです。

そういう経験を、本番中にしてしまいました。

いま考えるに、結局は、自意識との闘いなのかとも思うのです。

・・・・

虚実の皮膜。

いきなり飛躍してしまい恐縮ですが・・・

演技は、誠ではないが偽りでもない、本当のことではないが嘘でもない。

その間にある、とでもいうのでしょうか。

考えるに、役者の中に起こることは真実です。

だけど、それは事実ではない。

例えば、殺人犯を演じる場合、役者の中には、殺人にいたる動機があり、舞台上であろうと行為もあるわけです。

だけど、その役者は人を殺したことがない。

ここで演じる上で障害になるのは、自分が自分であるという自意識ではないでしょうか。

自意識があるから役に至る過程を考えることができるのですが、またそれが重要ですけれど・・・

いったん演じるとなると、その自意識をいかに消すかが重要かと。

そこが、無心になる、ということなのかと。

とそのように、二日にかけて、考えてしまいました。

もっとも、その考えが、いかに自分の演技に貢献するかは、まったく未知ですが・・・。

 

 

 

 

 

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無心

2013年08月13日 | 想うこと

20年ほど前、”名古屋城祭り”というイベントの中で、薪能が催され、見学に行ったことがありました。

題目は、『葵の上』です。

立ったまま、降りしきる雨の中、傘の合間からのぞき見るように鑑賞しました。

近くではロックバンドが演奏していて、騒音とざわめきの中での鑑賞です。

こんな猥雑な中で、演者はどう集中するのだろうと、気になっていましたが・・・・

シテが般若になり舞い踊る場面では、なんとも切ないものがこみ上げてきました。

能など観たこともないドシロートにも、演ずる者の哀しさが十分伝わってきたのでした。

・・・・と、ある時まで思っていました。

それから二年ほどたち、能の研修を受ける機会に恵まれました。

一通り舞を習い、その後、質問を受けられたのですが、そのとき私は、「能の演者は演じられているとき、感情はどうもってくるのですか?」 

と質問してしまいました。

思えばバカな質問をしたものですが、若い頃、”メソード”をちょこっと囓ったことがあるため、そのような質問が口をついたのです。

その質問を受けた講師は、しばらく私の質問の意味が分からなかったようで、沈黙していました。

そこで、私は、「哀しい場面では、自分の中に悲しみを作り上げるのですか?」と聞き直したのです。

それを聞いた講師は、少し沈黙した後、「それは、ないですね」、と答えられました。

それから、「何も考えていません」、とも言われました。

「無心になることが大切だから」と。

講師はそのように答えられました。

私は、昔から変わらない伝統芸能だから、そうなのだろう、と納得したのです。

さて、時はずいぶん流れ・・・・現在ですが。

劇団くるりんぱ、の、『ブレーメンの音楽隊』というお芝居に、私、出演することになりました。

動物さんを演じるのですが、練習最初の頃、ずいぶん戸惑いました。

メソードでいえば、内的動機、というやつです。

なぜ、このように動くのか、なぜ、こう言わなければならないか、と、理屈が先行してしまうのです。

しかし考えたところで、演じるのは動物です。

結果、自分が演じる動物に見えなければなりません。

はたして私はその動物だと、お客さんから思ってもらえるのだろうか、と悩みました。

現在は開き直って練習に励み、セリフも段取りも入ってしまいましたが。

さて、いまは、練習に入る前、動機と感情などの確認をします、そこで、よーい、はい! と入るのですが・・・

ある時、ふと思ったのです。

練習に入ったら、何も考えないのが良いのだと。

入るまでは考えるのですが、入ったら、何も考えない。

そうです、理想は”無心”になることです。

セリフも段取りも入っているのだから、流れを止めることはないでしょう。

ならば、無心になる、演じていることさえ思わない。

こうなれれば、最高なのでは、と思ってしまったのです。

なぜ、そう思ったのかには、また違う経験も関係してくるのですが、それは、またの機会に記すことにします。

 

 

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新人は

2013年08月09日 | 想うこと

こちらの地方において、プチ総合商社的な会社に勤めている、同級生と話す機会がありました。

息子の就職のこともあるし、そこの会社は今年何人の新入社員を採ったのか、と訊ねたところ・・・

ゼロ、と答えました。

ゼロ? それなら、ここ数年は? と聞いたところ・・・

まったく採っていない、と言われました。

傍目には繁盛している会社にみえていただけに、少なからずショックを受けました。

そこの会社の社員は評判が良く、みなさん積極的に働いています。

が、思えば、三十代、四十代が中心で、当然、会社は上手く回っているわけです、現在は。

足らぬところは、バイトとパートがこなすわけでしょう。

ですが、将来的には・・・となります。

息子の同級生が四月から、県内で有名な寿司やチェーン店に勤めていますが、20名ほどいた新人さんは、彼以外みんな辞めてしまったそうです。

1年の三分の一しか過ぎていませんが・・・。

その彼も、辞めようか、と弱気なことを口走っているそうです。

真面目な奴ですので、たぶん辞めないとは思いますが、そのチェーン店でも、新入社員は、毎年、一人もしくはゼロなのでしょう。

職人の世界ですからサラリーマンとは違うのかもしれませんが、本当の寿司職人さんは、なかなか生まれないのでしょう。

できる人たちは段々年齢が上がっていくわけですから、そのチェーン店は、少しづつ縮小していくことになるわけです。

代わりは、回転寿司やさん、ということですか。

業種によっては、新入社員を多数必要としている会社もあるのでしょうが、全体的には、まだまだ低調なようです。

 

 

 

 

 

 

 

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