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手稲は最高!

手稲在住30年、手稲って本当にいいなって常々思っています。時に触れ、折に付け思いついた事を、取り留めなく書いてみます。

悔いだけは良く覚えている ・・・つつき

2020-02-29 19:47:26 | 身辺雑記

 大学時代、もう少し何か一科目でも真剣に勉強して置けばよかったのにと悔やむ。なんとか単位を揃えることはしたけれど、これを勉強したなどと大きな顔をできるようなことはない。それでも卒業の時、ゼミの山本教授から推薦されて高等学校の先生になれたのはラッキーだった。
 大学の勉強より、の青年団でリーダーシップを発揮していたことの方が楽しかった。
 私の生活信条は「和して同ぜず」だった。自分の意見は言うけれど、無理に通すことはしない、しかし、相手の言うことを聞いても、自分の信条に反することは、ほどほどの協力にして済ませた。ずるいといえばずるい生き方なのだが、自分の信念もないままに随っているのはできなかった。
 世間には、極端な表現をすれば、左派的とか右派的に分けられるような勢力分野がありそれぞれのりーダーのような方がいた。そんな中でいえぱ私は中道派に属するのかもしれなかった。その中間的な位置でリーダーにさせられるとが多かった。とりわけ美唄東高校に転勤になったとき、高教組の活動に引き込まれ、二年目に学校班長に担ぎ出され三年目には美唄支部支部長に担ぎ出され、10,21のリーダーとならなければならなかった。しかし、これは私が中道であることを利用して、左傾の強い高教組をもう少し柔らかな方向に方向転換させようとする、たくらみだったことを後で知った。このころ、一月に一度くらいの間隔で同僚の心の通じる仲間を私の家に集めて教育のあり方について話し合う会・・・村川学級・・を数年持っていました。この仲間も二つに分かれました。心情の違いです。二つに分かれてもに憎み合うことはありませんでした。むしろ何もしない方たちとは違う仲間意識で付き合うことができました。
 詩吟も美唄東で始めたのですが、一番下手な私が会長にさせられました。その詩吟のおかけで私の退職後の後半生を本当に充実したものにすることができ、1999年度の札幌市市民表彰で社会福祉功労者賞を戴くことができたのです。これは晴れがましい第一のものかもしれません。
  
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悔いることは多いけれど・・・ つづき

2020-02-28 19:55:41 | 身辺雑記

 大学卒業のころまでの]無様な生き方をさらけ出したが、私は悪たれにはなり切れないが又優等生みたいな生き方もできなかった。まんざらでないところもあった。永山の2年生になって間もなくのころ、寮の仲間が上級生に殴られた。これは寮の伝統的なもので、それまで押さえつけられていた1級上の方が最高学年になってその権威を下級生に見せしめようというものなのです。しかし、それは戦時中の名残で、民主主義に進もうとするさなかだったのです。その事件が起きて、仲間たちが私のところへ来てどうすると相談を持ちかけてきた。そこで私はこれは上級生の暴力だから先生に訴えようということになり、私が中心になって先生に何とかしてほしいと告げました。結果、上級生は先生に調べられることになった。そして、先生の方からは私に、仲間と相談して、どんな処罰
をしてほしいか決めてきなさい。その結果通りにするとうことだった。それで、みんなに、当時者の上級生には謝ってもらい二度とこんなことを起こさないと誓わせる、という案を提案してみんなの了解を得てその通りことを運んだことがあった。同級生の中ではなんとなく一目置かれるようなところがあったみたいだった。私は文系に興味があり勉強でも国語、歴史などでは結構先生にも気に入られていた。仲間からは詩人と評されていた。国語の自習の課題で俳句を作って提出しなさいといわれ、何人かの俳句も作ってあげたりしたものでした。そんな姿をすっかり変えてくれたのが、その時は予科練上がりだと勝手に決め込んだ年上のH君が同級生として入ってきたことだだった。年上で大人びていて、直ぐ友達になってしまった。ここから、転落が始まり、3年目に汽車通となってますます勉強をよそにして学生生活を楽しむようになってしまった。それでも、前に書いた通りスズラングループというグループの中でそれなりの存在感を示していた。

 待望の旭川師範本科に入学して参ったのは、一年目は一般教養科目で数学とか理科とかの勉強をしなければならない。自分の好きな勉強に集中できるのは2年からなのです。これが私の足を引っ張った。そして2年になったとき新制大学の入試までは旧制の師範本科2年の勉強ができるようになり。私は、それまでほとんど勉強をして事のない英語を集中的にやろうと思って気合を入れかけた時に、大学入学試験があり学芸大学一類文科に合格してしまった。ここで又狂いました。新制大学の2年間は一般教養科目の勉強で又数学や理科の勉強が現れたのです。どんな風にして単位をもらったのかわからないけれど、とにかくほとんど勉強をしないで単位をもらったように思う。そして、一年前本科1年に入学した間もなく私の前に現れたのが、卒業まで遊び続けた金子君でした。麻雀を永山にいるうちに覚えていて、麻雀仲間に入れられて、暇があれば麻雀に明け暮れました。麻雀は強い方で一目置かれるような状況でした。
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悔いることは多いけれど・・ 昨日の続き

2020-02-27 19:15:48 | 身辺雑記
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悔いることは多いけれど

2020-02-26 20:12:11 | 身辺雑記

 90年の人生を追ってきたが、悔いは山ほどある。でも、人に誇れるようなことってさっぱりない。

 10人兄弟の長男として生まれ、貧しかったが、父がの小学校の校長で、校長先生の息子ということで、ちゃほやされながら育った。年子の妹がいて妹のほうが男勝りのリーダーシップを持っていて、妹を通して助けられた思いは多い。

 小学校に入学した年が、当時の言葉でいう日支事変が始まった年で、永山農業に入学した年が終戦の年だった。そして、永山を卒業して北海道第三師範学校本科一年に入学したが、師範学校の最後の学年になった。本科一年を終わって2年生になったときに新制大学が立ち上がり、師範学校は学芸大学になった。

 短期大学に相当する二類と4年制の一類とに分かれて入試が行われ、新制大学の一期生として押し出されるようにして卒業してきた。そして務めたのが、新制高等学校だった。

 小学校5年の時、父に6年を終わったら予科練に行こうかなと言ってみた。家計からして中学校に行かせてもらうような余裕のないことが分かっていたので言ってみただけです。即座に「お前は、高等二年まで行って師範学校に入りなさい、。師範学校を卒業して兵隊になったら将校になれるのだ。」と言われた。

 結局、師範学校を受けたが不合格、仕方なく永山農業に入ったのでした。結構同じような経験者がいたのを後で知りました。私は、旭川師範学校を落ちてしまいましたが、妹はすんなり入学でき、素晴らしい人脈を作って楽しんでいた。その話を聞いて、本科には絶対入ると決めてかかっていたのでした。それが災いして、農業の勉強をおろそかにしてしまい、一年生当時は先生方からも嘱目されていたのでしたが、それにこたえられない恥ずかしい成績になってしまいました。
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今日の午後の陽射しは 春

2020-02-25 19:56:17 | 無題

 昨晩、21時ころ家内がロードヒーティングのスイッチを入れてくるといって出て行った。なかなか戻ってこないのでどうしたのかと思っていた。しばらくして入ってきて、すっかり晴れているので、今晩は降らないと思うからスィッチを入れないできた。積もっていた雪撥ねをちょっとしようと始めたら、菅原さんの奥さんが手伝いに来てくれてきれいにしてきましたという。

 今朝起きて行ったら家内が、夕べ雪が降って積もっているという。外をのぞいてみたら結構な量の雪です。夕べスイッチを入れておけばきれいに溶けているはずなのに、大仕事が待っている。湿った重たい雪です。家内は今日トレリハ行きです。8時半までに除雪をしなければなりません。8時15分ころごみを出してそのまま家の前を除雪し道をつけ始めていた。すると、いつも手伝いしてくださる木村さんが来てスノーダンプを使ってばたばたと片付けてくれた。おかげ様でことなく終わりました。
 
 午後になって晴れてきた。お日様が煌々と顔を出してくれました。春の顔です。家の居間に差し込む日差しには力があり、暖房を消してもいい暖かさでした。待ち兼ねた春が来たのです。日も伸びました。17時を過ぎてもまだ明るい。

 12月に入院して、すっかり体調が落ちて雪撥ねが全くできなくなり、家内だけで冬が乗り切れるかと心配したのでしたが、木村さんの絶大な協力もあり、今こうして春の日差しを喜べるのは本当に有り難いことです。感謝しかありません。
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コロナウイルスによる影響が北詩連にも及んだ

2020-02-22 19:29:04 | 詩吟関係

 コロナウイルスによる肺炎が予想より早い速度で北海道にも来ている。でもそれほど身近に感じていなかった。しかし私の所属している詩吟の団体北海道詩吟連盟の札幌東支部担当の資格審査会、3月1日予定が6月に延期となって他人事でなくなった。
 
 このウイルスの伝搬速度は速いようだ。全国的な防御の取り組みがされているけれど、そのかい間を抜けて発症が増えている。
 
 早期発見の場合はかなり回復が早いともいう。しかし、まだ薬の開発が追いついていない。もう少し暖かくなると情勢も変わるのかも知れないが風邪とも違うのであればあたたかくなろうがなるまいが関係ないことになる。

 それにしても大変な病気が発生したものですね。世界中がピリピリしている。企業が工場を動かすことができなくなり、特に中国人の旅行客を中心に旅行関係の企業は大きな打撃を受けているみたいだ。

 とにかく終焉の兆しも見えないのです。不要不急の外出を自粛することが私たちのできることですか。
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肺炎での入院 12月でよかった

2020-02-19 19:49:39 | 身辺雑記

 コロナウイルスによる肺炎で世界中がざわめいている。今肺炎で入院となったらどんなことになっていたのだろう。12月の入院はいいタイミングだったのだ。今のコロナの菌はないわけだから、普通に治療をされたのかと思うけれど、時が時だけにうたがわれたり、ひどい目に逢っていたかもしれない。いいタイミングで済んで良かった。
 体調は肺炎になる前より良くなっているのではないかと思っています。平常の行動での辛さは変わらないのです。入院前も力仕事をするとたちまち動けなくなり、必ず休んでいました。今も同じなのです。少しでも耐久性を維持したくて、酸素の補給はしていますが、家内の買い物のお供で歩いても困ることはありません。無理はしないでいますが、詩吟、入院前と同じにやれそうです。間もなく暖かくなるのて゜それまで辛抱してみます。
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トレリハ  見学に行ってきました

2020-02-18 19:57:07 | 身辺雑記

 今回の入院で「要支援1」という障碍者に認定されました。障碍者支援センターから視察に来られ、トレリハでリハビリーを受けることが決まりました。゛トレリハ」聞いたことのない名称と思いますが「トレーニング リハビリー」を簡略化させた言葉てす。家内が先に入っていて、中身は判っていました。でも、今度は私もです。家内と同じところでよいか聞かれOKしていましたら、今日見学に行ってみてほしいといわれたのです。
8時45分に迎えの車が来て、家内と一緒に乗って出かけました。途中お二人同乗者がいて四名で会場入りしました。
今日は全員が体力測定をする日になっていて、私は他3名の方と一緒に行動しました。特別にむつかしいこともないけれど、障害を持つ身には厳しいところもあります。一つ一つ記録が採られます。この記録が回復の証しになるのでしょう。あまり記録が良いと要支援から外されることにもなるのだと思います。
10時半過ぎに帰宅となりましたが、そのタイミングで次の番の方がどっと到着しました。一日3交代くらいになっているのかもしれませんね。
 3月から毎週火曜日はトレリハ通いになります。iv>
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碌峭会 会旗 

2020-02-17 20:21:24 | パークゴルフ
 象堂流から独立して、碌峭会を設立した時に作りました。
  象堂流でお世話になってた、東先生の香典返しをいただいたのを
使わせていただいたのです。先生にとっては名前を入れられるにはご不満な
ものになりましたが、私たちにとっては掛け替えのないものとなりました。
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冬の峠が終わったみたい

2020-02-11 19:13:41 | 随想
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 天気予報通り、今日は暖かな日となった。最高気温9度ほどに上がったみたいです。昨日まで冷下の気温が一気に9度まで上がるのも異常な気がするけれど、冬の峠を越えたということですよね。明日、明後日とこんな天気が続くようです。日も伸びています。17時でもまだ明るい。16時には暮れていた時から見ると春がそこまで来ているように感じる。
 
 これからまだ雪は降るけれど、雪の腰が弱くなっていて、溶けるのが早くなる。でも、一度は猛吹雪の日があるはずです。それを私は私なりに春一番と称しています。でも、異常気象の昨今ですから、それも来ないかもしれない。
 
 今年の冬は本当に有り難かった。12月に入院し、酸素ボンベを引っ張る身になり、除雪をする体力が無くなっていて、家内にすべてを任すことになっていた。家内はスコップの使い方もわからなければ、力もなくて、ドンナことになるのかと心配していたけれど、ほとんどロードヒーティングだけで間に合った。何回かブルトーザーの置いて行った車道の雪、どうしようと思ったことがあったけれど、kIさんが、来て忽ちきれいにしてくれた。もうKIさんにたよりっぱなしにすることにしました。
 
 今日は午前中家内が買い物に行くので車で連れてゆきました。最近酸素ボンベを使わなくてもいいような状況になってきているので、天気もいいからボンベを持たないで行きました。ホクレンショップとJR生鮮市場の二か所、カートを押しながらお供をしましたが困ることがなかった。午後、西友に眼鏡の調整で出かけましたがこの時もボンベなしで済ませました。
 まだ寒い日は酸素を使わなければならないと思うけれど、春になって暖かくなったら酸素から解放されるように思います。

 この病気で、要支援1という障碍者認定を受けました。3月から週一回リハビリーに通うことになります。家内が数年前から行っていて、今度家内と一緒にリハビリーに通うことになるようです。
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