手稲は最高!

手稲在住30年、手稲って本当にいいなって常々思っています。時に触れ、折に付け思いついた事を、取り留めなく書いてみます。

ロッテ 予想通り

2005-09-30 19:11:50 | パークゴルフ・野球
 交流戦の優勝で、ひょっとすればひょっとするかと思ったが、予想通りの結果となりました。
 
 まず、西武に2勝しなければならない。困ったことに、ロッテは松坂と帆足に弱いのです。松坂が頭で来ることが決まっている。ただ、西武のカブレラが故障しているとか、それだけが救いみたいなものです。
 
 ロッテで、清水がいまいち調子を下げている。とすると小林宏之・俊介・小野、とりわけ小野が頑張れば面白くなるのではないか。松坂には初芝が強かったのだけれど、引退を表明して、使えるのだろうか、ピンチヒッターででも使えると面白い。
 
 西武に勝てば、ソフトバンクにもその勢いで勝てるかもしれない。期待したいものだ。テレビで釘付けにされそう。最後近く、斉藤を崩しているし、杉内だけが問題、でも後を勝てばいいのです。

 
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「神無月」 かんなづき  かみなしづき  かみのつき

2005-09-29 20:26:35 | 随想
 いよいよ10月、神無月となる。「かんなづき」=「かみなしつき」どんな意味かわからない人は多い。
 
 10月は、各地の神社の神様が、皆出雲大社に集まるので、各地が神様のいない月になるからなのだそうです。

 神様が、一同に集まるのだから、「かみのつき」という、読み方もあるみたいです。

 日本語は、とてもいい言葉が多い。語彙が豊かだというのでしょうか。この月の異称なども、とても味わい深いものがある。1月2月というより睦月、如月といったほうが、づうっと趣きがある。

 詩吟をやっていて、教える中で、日本語としての読み方、イントネーションの付け方等に苦労する。その流派とか先生により、随分違ったりするのですが、その違いは、詩吟の本質が、正しい日本語でその詩文を読む=吟ずるというとにあることを忘れているように感ずる。
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「北に夢を追ったサムライ」 時を越えて、鳴り止まぬ響き!

2005-09-28 20:34:02 | 随筆「残響」
 田中和夫原作「残響」の演劇が9月23日生涯学習センター「ちえりあ」で開演された。その題名が「北に‥‥」です。
 
 その演劇のポスターがまたとてもいいのです。A2に伸ばしたのを頂いてきた。残響の麦酒醸造所開業式の写真を合成したもので、とても気にいったので、部屋に貼った。
 
 演劇も、あれだけのキャスト・スタッフでよくまとめたものだと感心した。脚本も仕上げるのに大変だったと思う。いい脚色だった。

 私のブログにコメントバックが入り、吉村さんが胸像の隣に立った写真が添えられていた。この写真もいい写真だった。吉村さんには最高の贈り物かもしれない。

 そうなのです、吉村さんがいて、この胸像はここに在るのです。吉村さん、ご苦労さんでした。また、「いの平」でいつかお会いできればと思っています。

  緑樹背に知事公館の庭に立つ村橋の胸像鳴り止まぬ響き
 
  知事公館緑樹背にして凛と立つ残響の胸像村橋の視線
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北大構内クラーク像を見てきました

2005-09-27 21:19:29 | 随想
 羊が丘のクラーク像は何度も見ているのですが、北大の構内の像がどこにあるのかも知らなかった。

 今日、第一内科の定期健診が終わってから、構内を歩いてみた。エルムの園といわれるだけのことのある、すばらしい構内でした。原始林を思わせる大木があり、林の中に学舎が点在するような、樹木に覆われた構内です。最初にクラーク会館を目指し、その入り口に立つ「クラーク博士の像」を写真に収めた。

 この、現在の像は2代目なのだそうです。一代目は戦時中昭和19年に銅製品の徴収で取り去られたのを、昭和23年に再興したのだそうです。

 それから、こちら歩きながら、新渡戸稲造先生の胸像も写真に収めてきた。ポプラ並木はあまり興味が無かったので、言ってみなかった。林の中に沼のような池があり、蓮が飢えられて?いて、そこに数十羽の鴨が群れていて、しかもとても人になついていて、足元を歩き回ったりする。
 
 札幌にいながら、こんな名所を歩いていなかったとは‥、でも、またまだ一部しか見ていないのだと思う。

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「残響」その言葉の響き?

2005-09-26 21:38:43 | 随筆「残響」
 「残響」 "ざんきょう" 凄くいい響きの言葉です。残る響き  余韻といえるのでしょうか。余韻が聞こえる。
 村橋久成の「残響」とは、どのように理解したらよいのでしょう。村橋の出奔前の活躍、そして、行路病者として死んでいった死に様。
 生前の華々しい活躍の場面、そして、その最後。その落差には、尋常では図れない大きなものが感じられる。その大きなもの、それが響きなのでしょう。
 胸像「残響」の、久成の鋭い眼差し、あれは何を射抜く眼光なのか。今、一様に官財癒着に抗議して身分を棄てたと評価されている。しかし、職を辞するだけでなく、世までも棄てたのです。生きて抗議する道は無かったのか。
 官を辞しても、生活に困る身分ではなかった。辞表を叩きつけるというだけで自分の気持ちを納得させることが出来なかった。のうのうと生きて、政府の要人たちが、自分の同志と思っていた者たちが、我が物顔に幅を利かせている姿を黙って見ている気持ちにはなれなかったのでしょう。この怒りを静めるのは、一切の煩悩を断ち切る仏の道しかないのでしょう。結局、自分が自分と戦うしかなかった。寺に入ることすら許されない戦いだったのだと思う。
 そのように、考えてみると、あの北海道産業の育成に掛けた、村橋の情念は、一官吏の仕事の域をはるかに超えたものだったのだと思う。それ故許せなかったし、そこに流れ、残る村橋の情念、ひれこそが「残響」なのかもしれない。村橋の悔しさとか、怒りとかということばでは表現できない、もっと深いものがあると思う。 あの残響の像の眼差し、あれは、北海道に命を捧げ、北海道の未来を見据える気迫の眼差しでは無いでしょうか。   
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「麦とホップを整すればビイルといふ酒になる」久成、  「残響」祝賀会  

2005-09-25 20:05:22 | 随筆「残響」
 午前の除幕式、そして午後からの記念演劇鑑賞、そして祝賀会場の札幌ビール園到着は16時30分、一番乗りで会場に入った。
 多分、17時には開宴されるかと思っていた。17時頃テーブルに乾杯用ですといって「開拓使麦酒」瓶、500ml入りが一人1本置かれた。そのころ祝賀会次第を見つけ出し、「乾杯は17時50分になっています」という。え!まだ50分も待つの?となる。
 もう、席についてから30分もたっている。目の前のビールは毒です。終に、誰かが、ビールに手をつける。皆様へ注いでくれる。「はい、そっと乾杯」、席の6人が静かに、喉を鳴らす。隣の仲間も続く。たちまち5本が空いたけれど、1本だけあけないで置いていた。従業員が、小さな声で、それ乾杯用ですからという、「大丈夫、1本残して有りますから」とかといつて、あとはゆっくり飲みながらいたら、ちゃんとまた従業員が5本ほどもつてきて黙って置いてゆく。見たらどのテーブルも、ちゃんと始めていました。
 
 17時30分に、祝賀会が開式となり、17時50分に乾杯となった。食べ放題、飲み放題、酒もワインから焼酎、酒までといろいろ有る。私はビールだけで通した。ワインが1杯つがれたけれど、一口、口をつけただけにした。
 後で知った人だけれど「開拓使麦酒」は、村橋久成がクローズアップされて、昨年から、札幌ビールが新たに製造することと成り、ビール園だけでの限定販売にしているとか、今、買ってきて飲めないビールを随分飲ませてもらいました。
 「麦とホップを整すればビイルといふ酒になる」と、札幌ビール醸造所の開業式に積み上げたビール樽に、久なりが大書した、あのビールの味が之だったのだろうか、、、、、
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村橋久成胸像「残響」建立除幕式に出席

2005-09-24 21:36:54 | 随筆「残響」
 知事公館の正面入り口の通路、左側、緑樹を背に、その像は建てられた。折からの小雨、でも、100数十人の見守る中で、関係者の手により除幕された。
 田中和夫先生が、「残響」を自費出版されてから25年目にして、この胸像が、ここ北海道のそれも知事公館の庭に移設されたのです。
 田中先生が、小説「残響」を出版した時を同じくして、村橋の故郷鹿児島では、鹿児島大学教授日本芸術院会員中村晋也氏が「若き薩摩の群像」という、若者の群像を彫刻されていた。これは明治維新、薩摩藩からイギリスに留学生として派遣された17名の若者の群像です。その中に村橋もいたのです。
 そんな中で「残響」を通し、村橋の活躍、そしてその壮絶な最後を中村先生は知るのです。そして、田中先生との交友も深まっていくのです。また、残響によって鹿児島で、村橋久成の存在がクローズアップされ、終に鹿児島久成会が出来るのです。

 田中先生は、北大図書館で、村橋の写真を見つけます。それを中村先生が受け取り、その写真に感動して、すぐにその胸像の製作に入ったとのことです。そして出来上がった胸像の銘を「残響」としたのは言うまでも無く、この小説の題名からなのです。
 この胸像は中村先生の美術館に展示していたのですが、その胸像を北海道に移設したいとう、運動が始まり、この期成会の事務局長をなさった吉村百一さんが中村先生を尋ね、この像の寄贈をお願いしたところ、先生もこの像は北海道に置くべきと思っていらっしゃって、快く承諾されたとのことです。

 そしてこの移設運動の、切り札となったのが、新知事高橋さんの施政方針演説だったようです。この演説の最後を、東京でのビール醸造所建設計画を覆し、札幌にビール工場を建設させた村橋の高い志と果敢な挑戦を、自身に重ねて話されたことだったのです。
 高橋知事は、この移設計画に直ちに賛同し、建設場所も知事公館の庭と決めてくれてのです。
 
 除幕式の後、この残響を原作とした演劇「北に夢を追ったサムライ」を観賞し、札幌ビール園での祝賀会に出させていただき、おいしいビールを、とてもおいしく飲ませてもらいました。
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カラオケの思い出

2005-09-21 21:45:07 | 趣味
 歌が好きで、カラオケが出たころからとりこになっていた。初めの頃は、飲みに出かけて、酒に任せて、酔いに任せて、一曲100円、100円玉を積んでおいて次々と勝手に歌っていたものだ。
 自分でも、とうとうカラオケの8トラも使えるのを買ってしまつた。しかし、この機械は、兄弟が集まったときに何回かつかい、新しい曲を覚えるために、時々使っただけでした。あとは、詩吟のテープのダビングに使うくらいで今も置いてはあるものの殆ど使わない。勿体無いことをしたといえるのでしょう。
 
 初めの頃は、名月赤城山だとか、奥飛騨慕情だとかを随分歌ったものでした。
仙台で全国高等学校PTA大会のあったとき、たまたま役員の引率で出かけ、晩に遊びに皆様と飲みに行き、二次会でキャバレーに出向いた。キヤバレーはバンドが入っていて、バンドの伴奏で歌うことになった。酔った勢いで奥飛騨慕情を歌ったのだが、歌えることと、上手であることの違いを当時自覚していなかった。よくもまあ、生バンドで歌ったものだと後から自分であきれていた。

 スナックバーが、昼間カラオケを始めた。コーヒー一杯つき、1000円で歌い放題
時間は13時から17時まで、酒も飲まずに歌う、それも4時間もなんて驚いていたら、どんどん進化して、コーヒーは飲み放題、軽食は出る、お菓子はでる、希望であれば、小ジョッキーのビールも飲める、それで1000円なら高くはない。といことになった。そんな店が随分多くなっている。

 現役の頃は、職場が午前で終わるような時は、飲み屋の開店の時間までの暇つぶしによく仲間といったものだ。今、手稲で飲みに行くただ一軒の「いの平」も開店当時から知っていて、16時には店が開くので、バーが開く19時までの「もやい店」として利用していたのでした。

 今は、顔なじみの常連様ばかりだから、気兼ね無しに思いっきり歌える店になっている。飲みに行くというよりカラオケを歌いに行くというのが適当かもしれない
 明後日は、村橋久成の胸像移設除幕式に行き、サッポロビール園で祝賀会がある
終わって帰ってきたら、また「いの平」さんなのだろう。

 

 
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今宵(十七夜)  いい月です

2005-09-20 22:18:43 | 随想
 13日、うす雲に隔てられ、ぼんやり見えただけ、
14日は雲の中、15日は、途切れ途切れ、雲の谷間から一寸覗くだけだった。
今22時、窓を開けて見ると、素晴らしい月がかかっている。
 写真に撮ってみたけれど、どんな写真になるのか、今日は遅いから焼かないことにする。
 明日から、一段と秋が深まる天気予報。暑さ寒さも、、、、本当にそうだ。
晩酌はしたのだけれど、月見酒なんて考えてもいなかった。勿論、その時間に月も出ていないのだから、思えば、"月より団子"とかいうことになったのだろうが。
 月が綺麗だから、歩いて帰るかい、なんていいながら、酔い覚まし方々帰ったこともあったっけ、、、、、
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「カラオケ」雑感

2005-09-18 20:13:24 | 随想
 兄弟に、ビアノを教えてり、プロのバンドでサックスを吹いたりしたのがいるのだから、満更、音楽の血を引いていないわけではない。だが、 歌は好きで、昔から歌っていて、今も「カラオケ」は趣味の大きな部分を占めているのに、なんとも下手なのだ。「でも、詩吟の先生でしょう」といわれるけれど、私には関係が無く、どちらも下手なのです。音痴とはいえないけれど、歌のリズムから外れるのです。おまけに声が悪い。
 
 自分の声って、判らないものです。テープで聞いたら、いつも落胆。もお少しいいと思っているのですが、駄目なのです。

 一時期、詩吟で声だけは大きく出せるから、北島三郎、鳥羽一郎なんかの歌だとか、女の歌う男歌を、しきりに歌ったものでした。
 
 70を越えて、飲みに歩く機会が減って、もっぱら行きつけの居酒屋さんだけになったら、そこの常連さんで、ムード歌謡のとても上手な方がいて、その小さな居酒屋で、鳥羽一郎を、がなってもしょうがなく、酒場演歌等の古い歌を最近は歌っている。石原裕次郎にも一寸挑戦したけれど、あの味はとても出せれないし、下手な私が歌っても、さっぱり映えないから止めた。

 詩吟をやりながら、人に詩吟を勧めるときに、詩吟をやるとカラオケが上手になりますよというのだけれど、私の歌を聞いた人には通用しないのか、その殺し文句で詩吟に入ってくれた人はいない。
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