手稲は最高!

手稲在住30年、手稲って本当にいいなって常々思っています。時に触れ、折に付け思いついた事を、取り留めなく書いてみます。

昨日に変わる今日・・・・天気急変

2020-08-30 19:31:56 | 身辺雑記

 昨日の午前、この数日の暑さで、二階での仕事がとても辛かった。天気予報ては今日が雨になり7そのあと幾分暑さも和らぐようだった。それなのに中古の安い扇風機があれば手に入れようと出掛けた。
稲穂にある古物商に行ってみました。最初に入った店には、新品が3900円で2台ありました。よほど買おうかと思いましたが、もう一軒近くに有りますからそこも見てみようと買わないで出ました。次の店で在庫
を尋ねたら全部売れてしまっていますという。戻って最初の店で買おうかとおもいましたが、出てきたついでだからKS電気も見てみようと車を走らせました。
店について売り場に行ってみました。さすが今年の暑さです。展示の台数が少ない。本来ならヅラット並んでいるはずの棚に一台だけポツンとありました。それを見ると展示品値引き2900円となっています。展示品で同じ型番のものは全部売れて、残った展示品を中古並みに値をつけてあったのです。中古を買うつもりだったのに、新品を中古の値段で買うことになりました。でも展示して使われていたのですから中古品ですよね。きれいに掃除をしてくれました。昨日は二階の窓も開けずに仕事ができました。
 ところが 今日は予報通り朝から雨です、しかも気温が下がっていて、とうとう長袖のシャツにセーターを出して着る一日になりました。明日もそんなに暑くならないみたい。とすると、一日のために扇風機を購入したということになる。何ともみっともない買い方です。笑止!!!
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安倍総理  ご苦労様

2020-08-29 19:23:22 | 政治

 先日病院へ行かれた後のお顔を拝見し、ひどく落ち込んでいると感じた。それだけに昨日の引退表明も驚かなかった。
 私は安倍総理の国際関係の活躍を評価していた。各国首脳の中に在って、堂々と対処している姿にはにじみ出る貫禄があり、頼もしく映っていた。
 中曽根流の生き様のように感じるところがあるけれど、嫌みにならなかった。あまり使っている所を見なかったけれど、英語は話せたと思う。
 これからの総理は英語くらいは堂々と話せる人物でなければならない。 後継者にだれがなるのでしょう。見渡したところ、安倍さんに負けない手腕の方は、まだ
見当たらない。それはそうなのでしょう。いきなりそんな貫禄が身につくものじゃない。でもせめて諸外国の首脳と通訳なしでも馳せる人物がなってほしいものだ。
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遅くて暑い夏

2020-08-27 19:29:48 | 無題

 温暖化が言われてからどのくらいになるのでしょうか。お盆が過ぎて夏が来る。しかも熱い暑い夏が来るようになった。。
 古い記憶はあいまいだけれど、現役のころは夏休みにはキャンプに良く出掛けていた。大抵8月2日に出発して6日か7日に帰ってくる日程だった。
 そのころこの時期は雨もなく夏らしい日が多かった。ただ知床や根室の方へ行くと、夜寒くて携帯コンロで暖を取ったりしたこともあった。
 一般に、お盆過ぎては海に入るなといわれいた。お盆過ぎになると気温が低くなり、海水温も水泳に適しなくなるのが普通だった。
 それが今年は8月に入っても本当の夏というには涼しすぎる日が続いていて、お盆を過ぎてから暑い日が続き始め、20日ころから本格的な夏日が来た。
 この頃は毎日クーラーを入れっぱなしにしている。野球が好きで夜はテレビニかじりついているのだけれど、居間のテレビは家内に占領されるので、二階
に来ますが、二階には冷房がありません。扇風機も古くなって機能しなくなりました。窓を開けても涼しい風は来ません。汗まみれで頑張っています。でも耐えがたくなって
試合の決着を確認しないで終わりにすることが増えています。でもこの暑さも今週いっぱいで終わりそうです。あと秋が長いことを祈ります。
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吟歴46年・・・社会教育功労者賞を札幌市らいただいた

2020-08-24 19:31:48 | 詩吟関係

 一昨年の11月札幌市から社会教育功労者として表紙用を受けた。
 詩吟を始めて46年、その間教室の指導を35年、手稲老人福祉センターの詩吟講師を28年、手稲文化協会事務局長13年務めている。
 老人福祉センターの講座は、市内の60歳以上の方ならだれでも参加できる講座ですが、出席は義務付けられていなく、そんな中で受講者を確保しながら講座を維持するのは結構大変でした。
 講座が開設されたころはまだ詩吟ブームのようなのがあり、時としては30人以上の受講者がいたりした。しかし世代の変わった新しい老人たちは詩吟とのかかわりが薄く参加者がどんどん減少して行きました。
それでもどうにか20名前後の受講者を確保してその指導に当たってきました。この福祉センターの講座はまさに生涯学習の一環で、表彰を受ける大きなフアクターになったようです。もう一つは手稲文化協会を
事務局長になってから立て直し、それまでコミセンで文化祭だけを開催していたけれど、それも手稲区として独立し、区民センターが出来てからは、見学にに来てくれる人もひどく少なくなくなり、文化協会の存在すら
忘れ去られようとしていたのを、会場を区民センターに移し、新しい事業として、伝統芸能祭を立ち上げ、その後伝統芸能祭を発展的に解消してチャリティの舞踊の集い、年忘れ演芸会、カラケフエステバルを立ち上げ、札幌10区の中で文化協会を有するのは手稲区だけと評価されるところまで育てた。そんなことが認められての受賞でした。
 46年いろいろな波風をくぐりながらもつつけてきた私の吟歴の最後を飾る受賞と素直に喜んでいます。
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吟歴46年・・・・14  好きこそものの上手なれ?

2020-08-23 16:34:29 | 詩吟関係

 46年、好きだから続いてきた。でも、好きな詩吟が上手だといわれたこともないし、自分でも認めることができない。
 習い始めたころ、自信を持っていた。しかし始めてみると駄目でした。当時、先生が吟じたのを模範に吟じるのですが、そのまねができない、音感が悪いのか、先生の音が採れないのです。自宅に帰ってさて稽古をと思ったら節を全く忘れていて稽古にならない。ただ詩文を勝手に声を出して読んでいるだけ。だんだん慣れてくるころ、先生から上手な人は「いいね、お祝いの時に吟じてあげてもいいょ」などといわれるのです。。私はつにそんなことを言われること無しに来た。資格審査があるのですが、もう大変な試練でした。特に前の方が女性だともう大変です。その声が耳に残っているととんでもない高い音で出て、時によっては絶句さえしかねないのです。でも、何とか潜り抜けてきました。初めのころはテーブ゜レコーダーもありませんでしたから、自分の声を聞くことができなかったのですけれど、聞けるようになって、録音したのを聞いてみると自分では結構うまく出来たのではと思っても何と聞くに堪えない情けない吟なのです。それでもめげずにつづけることができたのは、好きだからです。漢詩の魅力にも引かれました。そして、続ければもっとうまくなれるはずと思いながら頑張ってきたからです。 札幌に転勤して、やむなく所属した詩吟学院岳風流の先生がコンダクターで伴奏してくれるのに出合ったときはうれしかった。ようやく自分の吟を客観できるようになってきました。更に、ここで詩吟を構造的に理解することができました。そして、自分でもコンダクターを引くことができるようになって、まともな稽古ができるようになってきたのでした。詩吟の教室を持ちましたが、吟力はとても情けないものでした。でも、教えるということは、習うより勉強になります。教室を持った当時、一時はくじけそうになったこともありました。しかしついと来てくれる生徒さんがいる限り頑張るということで乗り切ってきました。吟力はあまりないけれど、教える要領とか、素材の漢詩の知識、詩文の背景等についての理解は負けない気持ちもありました。
 カラオケも好きなのですが、やはり下手です。リズム音痴といいますが、直ぐリズムを外してしまいます。詩吟もカラオケも声を出すことに変わりはありません。詩吟は歌曲のような厳しい譜面がありませんからゆるされる面もあるのでしょうから、何とかやってきていますが、ひょっとすると厳しく批判されているかもしれません。
 ともあれ、46年90歳まで詩吟をつづけておれるのは、好きだからですね。人に褒めてもらうためにやっているのでないからと自分を納得させます。
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吟歴46年・・・13   アラカルトその2

2020-08-22 14:36:57 | 詩吟関係

 発表会でオーバヘットプロジェクーを使ったりプロジェクターを使ったりしたことがあった。先に書いた札幌へ来てから所属した剣風会手稲で、手稲文化祭の発表に。私が提案してオーバーヘットプロジェクターを使って詩文を皆様に見てもらえるようにし、簡単な解説を私が引き受けて何年かやった。解説の評判が良かった。北詩連に入ってころはプロジェクターが普及していたので、手稲文化祭に自分で編集してナレーションに応じた画面を作って発表を何年かしてみた。しかし、大ホールにスクリーンの設備がされていなくて、舞台のはずれに携帯用のスクリーンを張ってやるしかなく全体に見てもらえず、苦労が報いられなかったのでやめました。プロジェクトで成功したのは北詩連に加入して二年目だと思いますが、西支部の研修会に教本に取り上げられている和歌の解説をしてほしいといわれプロジェクターを使い80分ほどの講座をやったときでした。この研修会は北詩連でもあれだけのはずです。

 小学生に詩吟を聞かせ、詩吟予備軍を育てたいと願っていました。一番困ったのが学校との連携です。自分で売り込みにゆく度胸もありません。さらに悪いことに小学校の教員室はどこも二階なのです。肺気腫の私は階段を上るのがとても辛くて、簡単に訪問することもできないのです。そんな中で、たまたま私が手稲コミュニティセンターの運営委員として文化協会から派遣されていた折、運営委員の会長さんに元学校長だった方がお入りになられました。その先生に私の思いを話し、中央小学校で機会を与えてもらいました。張り切って出かけたのでしたが、なんと、その当日急に警察関係の方の話を聞かせることになり、視聴覚室が使えなくなったというのです。そして私の詩吟はプロジェクターのスクーリンを使うことができず、テレビの画面でやることになりました。テレビの画面では、話が十分に理解してもらえません。とても残念な思いが残っています。
 もう一校、これは自宅の町内にある小学校ですが、たまたま立ち上げていた老人クラブの詩吟の会長さんが、この小学校とつながりがあり、お願いしてもらって機会を与えてもらいました。この時は会員の皆様も一緒してもらい成功に近いものになったのですが、私が舞い上がり、十分にある時間を余してしまいました。もっと会員の皆様の吟を聞かせることができたのです。時間を気にしないで、先生家業をしてきた私が何とも情けない授業にしてしまいました。それ以来機会を求めることもなく来ています。北詩連には事業として立ち上げてほしいとお願いしましたが聞き入れてもらえません。残念です。
 つい先日まで私の仕事部屋のドアの内側にもう15年くらい前の写真、伝統芸能祭で20名の会員の合吟のものが張ってあった。前烈に女子10名後ろに男子10名です。先日はがして捨てたのですが、その時こんな時もあったのだと懐かしく思ったものでした。何と男性でまだ元気なのは一人だけ、それも詩吟をやめられた方だけです。私より若い方が多かったように思います。女性ではまだ現役の方がお一人いました。今所属会員を見渡すと創立当時の方で現役は二人だけになっています。そうですよね、退職後30年、90歳に私もなりました.まだ教室を指導している自分によくもと自分で思います。
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吟歴46年・・・・ 12 アラカルト 

2020-08-20 19:34:42 | 詩吟関係

 一休み・・・・思い出のかけらを拾ってみます。
 平成7~8年ころだっただろうか。まだ私の会は会員が増えている頃だった。ある先生との会話の中で、私が、会員の増強は進んでいますかと聞いたら、「いや・・駄目ですね。すっかり高齢化が進んで」という答えが返ってきた。私は、高齢化世代になったといってるのだと思い。むしろ会員増強にはチャンスじゃないかと思っていたのでちょっと驚いた。彼の高齢化は自分の教室の生徒さんの高齢化を嘆いて、教室の高齢化が進むけれど新しい会員が入ってこないから会が盛り上がらないと嘆いていたのでした。数年後に私もそれを実感することになったけれど、丁度世代交代の時期が来て、戦後派の老人は詩吟に縁遠い方たちが多くて老後の楽しみに詩吟を考える方は極めて少なくなったのです。今や一人の会員を見つけることがとても大変な時代になっています。
 こんなこともありました。これもある先生との会話の中で、私が「これからは、もっと詩吟を楽しくやらせなくちゃ・・」といったら「詩吟はそんな甘いものじゃないでしょう」とかみつかれた。かつて吟道精神ということが言われ、趣味=楽しむというなんて言うことは論外だったのです。私は、新しい時代の高齢者が貴重な詩吟の担い手になってゆくと感じていて、新しい高齢者の生涯学習の一環として抑えることの必要を言ったつもりだったのです。ですから、宗家の口伝を伴奏もなしに苦労しながらやらなくても、コンダクターの伴奏をつけてやらせればよい。又、細かい技巧などにあまりこだわりすぎない指導法などを、指導者は考えてゆかなければならないといったつもりでした。私は今もそんな指導を心がけています。
 復詩吟を始めた生徒さんに、発表の機会を多くした上げたい。そんなことから、会を立ち上げるとすぐ地域の文化協会に加盟して発表の機会を作りました。又、手稲神社の秋季例大祭に奉賛芸能がありますので、其れにも参加させてもらい毎年発表してきています。又、詩吟の仲間との交歓会を34年間継続してきました。詩吟を通して交友の輪を広げることは人生を豊かなものにするはずです。
 いろいろ、ありますが一寸思いだすままに書いてみました。・・・・続く
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吟歴46年・・・・11  つわるに耐えず・・・

2020-08-17 19:00:13 | 詩吟関係

 1986年、札幌市西区平和に平和吟友会を立ち上げました。この時は13名の会員でした。まだ私は現役でしたので指導料はもらわず会を運営していました。1991年が私の定年退職の年でした。この退職時に会員から指導料を取ってほしいといわれ、月額1000円をいただき、その中から400円は本部への負担金とし納入してあげる形で進めることにしました。

 この年の6月から手稲老人福祉センターが開所されました。この情報を早くに得ていまして、多分開所されたら講座がもたれるはずなので、その中に詩吟の講座かあれば講師として使ってほしいと、あるつてを頼りに申し出ていました。それが実現できたのです。まだ私は指導者としての資格はあり、教室も持っていましたが、吟力は並み居る諸先生に肩を並べる力はありません。ただ、コンダクターを使えることと、漢詩に対する知識は他の先生に劣ることはない自信がありました。開所当時は30人以上の方が集まり、中にはあわよくば講師の座をと狙っておられる方も多数いました。半年くらいして、館長さんのところへ、講師を半年で交代させられないかと申し出た方もいました。その時、せめて1年は交替したくないと申し上げておきました。その後そんな話が伝わったら、女性会員のリーダー的な方たちが、私を擁護し「村川先生をやめさせないでほしい」と館長に直訴してくれたのだそうです。そこらのことについては別に書くとして、この福祉センターの講師をすることにより自分の教室の会員を増やすことができました。手稲の教室は手稲区民センターの第3会議室を使っていました。この会議室は定員15名でそこへ20名以上の方を無理に収容して教えていましたが、二つに分けることにしました。もう一つの教場は手稲コミニティセンターとしました。分けるにあたって、悩みました。コミニティセンターは区民センターから離れていて、不便なところなのです。更にどのような分け方をすればよいのか、わかりません。でももう一教場では無理なのが歴然としていますので決断しました。ある日、こんな言葉で切り出しました。「教場は今やツワルに堪えがたくなっています。新しい教場を一つ作り会員も二つに分かれてもらいます。希望を取っていては収拾がつかなくなるので私から指名します」といって手稲第一教場に13名、第二教場に9名を指名して決めました。大体の交友関係などは見ていましたし、亦丁度良いリーダーもいましたので何とか二つに分けることができました。あとで、泣かれた方もおられたと聞きましたが大変なことでした。現在は会員数が少なくなり、亦一つにまとまっています。・・・つつ゜く</div>
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吟歴46年・・・・10

2020-08-16 19:06:24 | 詩吟関係

 平成20年ころが一番多忙なときだった。教室は月曜日手稲第一教場、火曜日手稲福祉センター講座詩吟の講師、水曜日は町内会に新しく立ち上げた健幸クラブ(老人クラブ)詩吟、金曜日手稲第二教場、土曜日平和教場と週五日間が詩吟の教室、更に手稲文化協会の事務局長、北詩連札幌西支部の支部役員も務めて、村川さんは死ぬ暇もないねといわれるような忙しさでした。
 OBに中村八重子といわれる方がいて、在籍はそれほど長くなかったのですが、会員や交歓吟詠会にお出でになる岩見沢神宮講の皆様と良い友達になっていて、東京に転居してからも毎年交歓吟詠会においでになり楽しんでくれていました。先日亡くなった岩見沢の葛西先生とこの交歓会がつづく限り死ぬまでかならず出席すると約束されていたのでしたがねお二人とも故人となられてしまいました。
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吟歴46年・・・・9

2020-08-15 19:36:21 | 詩吟関係

 平成17年4月1日付で北詩連札幌西支部に所属することとなりました。そして、5月22日にたまたまこの年が教場創立20年に当たりますので、{創立20周年、並びに「碌峭会」設立記念吟詠会}を「故東聖堂先生に捧ぐ」と銘打ち、岩見沢神宮奉賛吟詠講の方たちと北詩連の先に 象堂流から北詩連に移られ、大活躍をされていた吉岡胤道先生他数名、さらに私の関係する手稲文化協会の代表の方やOBの方を含め70数名で旗揚げしました。この時、ささやかですが会旗を作り、会旗開きもしました。 象堂流では会旗を持っているところはなかったので、これでも結構と思っていましたが、北詩連の大きな会では素晴らしい優勝旗のような素晴らしい会旗をお持ちの会が多いのに驚かされました。次の年からは、北詩連関係の幹部の諸先生、同じ手稲の会は会員も連れて参加くださり、吟詠が終わってからスナックを借り切りの二次会を開催して盛り上がるようになっていました。・・・つづく
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