手稲は最高!

手稲在住30年、手稲って本当にいいなって常々思っています。時に触れ、折に付け思いついた事を、取り留めなく書いてみます。

悔いることは多いけれど・・・ つづき

2020-02-28 19:55:41 | 身辺雑記

 大学卒業のころまでの]無様な生き方をさらけ出したが、私は悪たれにはなり切れないが又優等生みたいな生き方もできなかった。まんざらでないところもあった。永山の2年生になって間もなくのころ、寮の仲間が上級生に殴られた。これは寮の伝統的なもので、それまで押さえつけられていた1級上の方が最高学年になってその権威を下級生に見せしめようというものなのです。しかし、それは戦時中の名残で、民主主義に進もうとするさなかだったのです。その事件が起きて、仲間たちが私のところへ来てどうすると相談を持ちかけてきた。そこで私はこれは上級生の暴力だから先生に訴えようということになり、私が中心になって先生に何とかしてほしいと告げました。結果、上級生は先生に調べられることになった。そして、先生の方からは私に、仲間と相談して、どんな処罰
をしてほしいか決めてきなさい。その結果通りにするとうことだった。それで、みんなに、当時者の上級生には謝ってもらい二度とこんなことを起こさないと誓わせる、という案を提案してみんなの了解を得てその通りことを運んだことがあった。同級生の中ではなんとなく一目置かれるようなところがあったみたいだった。私は文系に興味があり勉強でも国語、歴史などでは結構先生にも気に入られていた。仲間からは詩人と評されていた。国語の自習の課題で俳句を作って提出しなさいといわれ、何人かの俳句も作ってあげたりしたものでした。そんな姿をすっかり変えてくれたのが、その時は予科練上がりだと勝手に決め込んだ年上のH君が同級生として入ってきたことだだった。年上で大人びていて、直ぐ友達になってしまった。ここから、転落が始まり、3年目に汽車通となってますます勉強をよそにして学生生活を楽しむようになってしまった。それでも、前に書いた通りスズラングループというグループの中でそれなりの存在感を示していた。

 待望の旭川師範本科に入学して参ったのは、一年目は一般教養科目で数学とか理科とかの勉強をしなければならない。自分の好きな勉強に集中できるのは2年からなのです。これが私の足を引っ張った。そして2年になったとき新制大学の入試までは旧制の師範本科2年の勉強ができるようになり。私は、それまでほとんど勉強をして事のない英語を集中的にやろうと思って気合を入れかけた時に、大学入学試験があり学芸大学一類文科に合格してしまった。ここで又狂いました。新制大学の2年間は一般教養科目の勉強で又数学や理科の勉強が現れたのです。どんな風にして単位をもらったのかわからないけれど、とにかくほとんど勉強をしないで単位をもらったように思う。そして、一年前本科1年に入学した間もなく私の前に現れたのが、卒業まで遊び続けた金子君でした。麻雀を永山にいるうちに覚えていて、麻雀仲間に入れられて、暇があれば麻雀に明け暮れました。麻雀は強い方で一目置かれるような状況でした。
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