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手稲は最高!

手稲在住30年、手稲って本当にいいなって常々思っています。時に触れ、折に付け思いついた事を、取り留めなく書いてみます。

おしやべり・・・村橋久成の胸像移転

2021-03-18 19:54:13 | 無題

 残響の田中先生と中村晋也先生の出合い、高橋知事の知事就任あいさつをきっかけに鹿児島の中村記念館に収納されていた村橋の胸像の札幌移転期成会が立ち上げられて2005年の9月に移転が完了したのでした。
 残響で村橋を鹿児島の人たちの前に立ち上げたのです。これまでうすうす知っていた親戚の方たちも、行路病者として亡くなったことに、むしろ恥じらいを感じていたようなのです。それが、素晴らしい活躍の姿が明らかにされ、鹿児島と札幌に村橋会が設立され、胸像設除幕式には鹿児島市長を始め多くの鹿児島の方が参加されていました。
 東京に建設予定だったビール工場を札幌に変更させ、ビール醸造士中川清兵衛を技師として雇い、サッポロビール工場を完成させたのですその完成祝賀記念の折、ビール樽を横済みにした樽の底に「麦とほっぷを聖すればビールという酒になる」という文字を書かせ写真に撮ったのです。その写真は今も残されています。/div>
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おしゃべり・・・村橋久成の「残響」

2021-03-15 19:18:52 | 無題

 つづき・・・「残響」の作者、田中和夫先生は国鉄の車掌さんでした。勤務の傍ら国鉄北海道文学で文芸活動に関わっていて、たまたま「北海道史人名事典」で村橋久成の記述に出合ったのだそうです。そこが出発点で残響の中身の調査に入ったようです。尊王攘夷の旗頭のような薩摩が、薩英戦争に負け、その直後、英国に青年17名を留学させていたのです。もちろん国禁を破ってです。その中に村橋も入っていたのです。しかし、村橋は1年で帰国していました。
 田中先生が残響を書き上げた頃、鹿児島大学の中村晋也先生(日本芸術員課員)が鹿児島駅前に「若き薩摩の群像」という彫刻を作り上げたのです。しかし、その中に居る村橋の活躍は知る由もなかったのです。
 田中先生が「残響」を上梓し、鹿児島県知事に贈呈すべく出向かれた時、たまたま中村先生もお出でになりここで田中先生から村橋のことを聞かされ、田中先生が小説で村橋を送りだしたのなら私は胸像で村橋を世に出そうということになり、田中先生が手に入れた一枚の写真をもとに、村氏の胸像を作り上げ、中村先生の美術館に展示してあったのです。
 
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おしやべり・・・・・・村橋久成

2021-03-14 15:43:58 | 無題

 先日、村橋久成について思い出の端くれをかきましたが、たまたまご覧になられた何人かの方がつづを希望されましたので、少しおしゃべりしてみようかと思います。
 村橋は札幌ビール工場を完成してこれからという時に突然辞職し行方不明になり行路病者として見つかったことを書きました。ここをもう少し詳しく言いますと、辞表を出し行方不明になり、10年後に神戸で行脚僧の姿で倒れているのが発見され、神戸新聞に行路病者村橋久成という広告がて、それを昔の仲間が見つけ葬儀を行い送ったのだそうです。のちに残響の作者田中先生は村橋のお墓を探したところ八方手を尽くしたが分からず、最後に当てもなく東京の青山霊園に電話をしたら「正七位村橋久成墓」の存在を確認でき、さらに実のお孫さんが健在であることが分かりお尋ねしたところ、葬儀の香典料人名簿が残されておりそこに名前を連ねていたのは元開拓使長官の黒田清隆を筆頭に明治新政府の要人となっていた方たちがずらり名前を連ねていました。
 村橋久成の胸像が知事公館の西門から入って左側にたられていています。この胸像を鹿児島から移転したのですがそれにまつわる話が、とても感動的な野で次におしゃべりしてみます。
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おしゃべり・・・ 村橋久成

2021-03-08 19:56:19 | 無題

 私の部屋の壁に「北に夢を追ったサムライ」ー村橋久成の残響 というポスターがまだ貼られています。20015年の日にちが入っていますから随分長いこと私を見つめていてくれたのです。
たまたま、渋沢栄一が大河ドラマとして始まったばかりで、主人公渋沢栄一とかかわるのでとりあげてかい書きます。
 手稲在住の田中和夫先生の小説「残響」の主人公で、サッポロビールを誕生させた方なのです。島津藩の藩士で戊辰戦争にも参加し、五稜郭の戦いでは、五稜郭の幕臣を降伏に至らせる働きもしていました。
 新政府が発足し北海道開拓使が設立され、北海道開拓が始まると開拓使の一員として場広い分野で業績を上げたのですが、取りわけ札幌ビールとの関係は深いものがあります。東京にビール工場を立ち上げるという話を聞き、ビールは札幌が立地条件に適うと考え黒田清隆に進言をして苦労の末サッポロビールの製造に成功したのです。北海道にはこれという企業がまだ出来ていない中でサッポロビール工場が誕生したのです。
 ところが、完成後間もなく村橋は姿を消します。その数年後神戸で行路病者としてなくなるのです。北海道に残した村橋の足跡は屯田兵を始め多くの農産物の生産にも重要な役割を果たしていて、高橋知事が就任の時、残響の村は詩に負けないように頑張るといったことで改めて見直されたのでした。札幌ビール工場の歴史に当然乗るべき村橋の名前は名かったのです。村橋が行方不明になって間もなくビール工場は民間へ払い下げられたのです。そのあたりから渋沢がかかわったようなのです。村橋は此のビール会社を北海道発展の起点にしたかったのでしょうが、維新政府による民間払い下げは我慢のできないものがあったのでしよう。頭を剃り出家するくらいのことでは我慢のできない虚しさが行路病者へと村橋を追いやったのでしょう。/div>
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おしゃべり・・・運が良かったのだ

2021-03-07 19:12:13 | 無題

 運がいい、いいめぐりあわせだ、ついていたなんて言葉があります。
 私の人生現在まで、教員歴38年、吟歴47年、でした。今も詩吟の先生をつづけていて、私の人生は詩吟で彩られていたと感じている。
 携わったときの長短だけでない思いがけない幸運に支えられてきたと思う。管理職に推薦されたけれど試験で落ちてしまった。これがラッキーの始まりなのです。挨拶下手の私です、管理職はなりたくなかった。試験は真剣に向き合ったつもりですが落第しました。おかげで詩吟をやりとおすことができたのです。次に札幌への転勤をそれとなく期待して手稲のこの家を建てて二年目に転勤出来たのです。そして、美唄で私の所属した詩吟の会が手稲にないので、剣風会手稲に入会させてもらい、本当の詩吟の先生に詩吟を教えていただき、詩吟を教える自信を持つことができた。(剣風会手稲は5段でやめて、元の流派へも取りました)、勤務校の校務分掌が団体事務局ということで、PTAや後援会の父兄の皆様を相手の仕事となり、その仕事の一つに公開講座があり、それを組織していく中で、詩吟入門講座を開設し、これが私の詩吟の教室の出発となったのです。そして退職をした年に手稲老人福祉センターが発足し、そこの詩吟講座の講師を引き受けたのです。丁度退職の年だったことが幸運でした。ここから詩吟のお弟子さんを沢山作ることが出來、一昨年の12月に重度の肺炎になり、3週間入院して、12月の末に退院しました。そして教室を2月から再開瀟としたらコロナの問題が起きて教室も休むことになりました。この入院の時に福祉センターの詩吟もやめました。ところが、福祉センターの詩吟の講座もコロナの関係で休講となり未だに再開できないでいます。丁度福祉センクターの講座をやめるのと休講になるのが重なったのです。その1年前2018年の11月に札幌市の市民表彰で社会教育功労者として表彰を受けました。この主要なファクターに福祉センターの詩吟講師の経歴がありました。70歳ころ、85歳ころまで詩吟続けられるかと思っていましたが、何と間もなく91歳の誕生日が来るのです。良いめぐりあわせに恵まれたのですね。
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おしゃべり・・・おしゃべり相手

2021-03-05 19:08:02 | 無題

 私は本当に話が下手だ。同じ趣味の方とそのことについて話す分には困らないのだけれど、知らない人に話しかけることは全くダメです。たとえば、昨年からリハビリーに週一度出掛けています。みんなで15名ほど集まるのですが、そのうち男性は5人です。一年経っていますが、まだ一度も話したことのない人がほとんどです。家内も一緒に行っているのですが、家内はほとんどの人の名前とか、どのへんに住んでいるかを知っている。(家内はこのリハビリーには数年前からきている)、そんな前歴があるからといえばそれだけなのだけれど、そのあたりに男と女の違いがある。男同志の場合、その方のプライドを傷つける話になると困る。簡単に本職を聞いたりできない。女性のように料理の話、子供の話などを話題に持ちだすこともできない。みんなで話す場面でもあるのなら少しづつでも気心が分かり暇なときにおしゃべりもできるのでしょうがそれもない。私は本職が教員だったので、先生だったのだからおしゃべりは得意でしょうなどといわれることがありますが、仕事での話はいくらでもできますが、世間話になると全くダメなのです。学校という小さな箱の中で過ごしていましたので、世間知らずでした。生まれ育った地元で先生になったのなら大分違ったと思いますが全く知らない土地で、仲間同士の付き合いだけでは、世間知らずになってしまうのです。私はその部類です。自宅を建てて町内会のお付き合いをするようになってようやく分かってきたことがいろいろとあります。逆に分からないままに失礼をしてしまうこともありました。思い切って、町内会の宴会などには積極的に参加し、二次会に我が家に連れてきて飲んで騒いだりしました。そんなことが町内会副会長の時代にとても役立ち、楽しい活動ができたように思います。
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おしゃべり・・・弁舌

2021-03-04 18:32:43 | 無題

 私の父は話が上手だった。ひとと喧嘩するような話は聞いたことがない。小学校長として、の方たちを前に話す話はとても小学生の私が聞いても上手だと思う話ぶりだった。奉職して聞いた町長さんの話は何ともひどかった。それなら私でもしゃべれると思うほどだった。それが数年たったら結構聞けるようになった。上手になったのです。何でもそうですが、場数を踏めば、それなりに力が付いてくる。しかし、型通りの話を型どおりにできるようになるだけで、話の中にウイットを聞かせたり、笑いを取ることをしてみたりすることは、話し上手、弁舌にたけた人となる。それも考え抜いた原稿でなく、当意即妙に話せる人こそ弁舌にさわやかな人となるのでしよう。そんなことを思いながら自分を振り返る。何とも話し下手の情けなさがこみあげてくる。数えきれないくらい挨拶などはしていますが、上手にやれて良かったという思いでがない。其れよりも、話の途中で横道にそれてまとめるのにとんだ苦労をしたことの方が多い。
 最近は、挨拶をしなければならないような場面もなくなり、その必要が無いだけにますます頭の中が空洞化して、とてもまとまった挨拶もできないだろうと思うようになっている。弁舌はおろか、駄べりすらおぼつかない自分にあきれている。
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おしゃべり・・・おしゃべり上手

2021-03-03 19:15:14 | 無題

 東京五輪組織院長だった森さんが、女性は話したがり屋が多いから、女性の理事が多いと時間がかかるといったようなことを言ったということで、大変な仕事を取り上げられることになった。
男性と女性を比較してみると、絶対に女性の方がおしゃべりだ。男女の感性の違いなのでしようか。友達になるのも早い。一度どこかで知りあって少し話しただけなのに、しばらくたってあったら、昔からの友達みたいに話しを弾ませている。私にはできないことなのでいつも感心させられる。確かに女性には、家族のことも食事のこと、化粧のこと、着物のことなどなど男性にない共通の話題があり、話題の中にその人の特徴が出て印象に残るのかもしれない。
 それはそれとして、おしゃべりも上手にもなれるし、下手にもなる。どうも私は下手になるほうに属するみたいだ。性格に依るのでしょうか、人の中に入っ行って、積極的に話の仲間に入ることなのでしよう。人の話がつまらなければ話の方向を変えてやる位のことをすると変わってくるでしよう。話の輪の中に歯中心になる人がいて、その人を押しのけてまではなかなかできないのでしょうが、自分にも経験があったり、違う意見があったりする時にどこかでそれを発表していくのことができると良い。おしゃべりでも、そこに秘められたものがある。それを感じ取り、自分の話題をを膨らませるようにすればよい。それにしても話相手がいなければどうにもならない。今私は90歳間もなく91歳です。おしゃべりの機会が本当に少なくなっていて、おしゃべりを忘れるのではないかと心配しています。話し上手という人はいます。逆にに話し下手だった人が何年か合わないうちにとても上手になっていて驚かされることもあります。
 普通の駄べりと人前での挨拶があります。人前の挨拶は、上達が早いですね。
 最近とみに話が下手になってきている、書いてみましたが、継続して話をする時に、話の主題から離れると、覚えているはずの話の中身の名前が出てこなくなり話が壊れることが多いのです。おしゃべり下手の見本みたいな一文になりました。
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おしゃべり・・・お笑い

2021-03-01 19:33:53 | 無題

 コロナが始まって家に居ることが多くなり、テレビを見ることが多くなった。中でもお笑い番組が幅をきかせていて、ついつい見てしまうことが多くなっている。困ったことに、これも歳のせいで耳が遠くなっていて、テレビの音声が良く聞取れないのです。でも今まで知らなかった名前を覚えたりしています。昔の漫才師とか講談師、落語だとかはとても良く笑わせられたり、泣かせられたりしたものでしたが、今の若い漫才師の話は私を笑わせるような中身でない。今一番の笑いは笑点です。 昨年だったと思いますが、娘が札幌落語シリーズの入場券を持ってきてくれた、札幌芸術劇場での落語でした。3階の席でした。身振り手振りはもとより声も聞こえない何ともつらい時間でした。落語は小劇場でなきゃだめですね。笑ったといえば、もう何十年か前てすが、当時文化講演会などを町が企画し、小説家とか、作曲家だとか、有名人を招いての講演会が年一度くらい開催されていた。この人たちの話は、いろいろなエピソートを盛り込んだリアリティのある話が多く、涙を流しながら笑って聞いたものでした。今のテレビのお笑いでは笑うこともありません。歌手のホテルでのデイナーショウなども何回かいったことがありますが、お客を前に鍛えてきた方たちです。やっぱりトークが人をひきつけ楽しい会にしてくれます。中央区にいれば機会があるのでしようが、手稲だと一年中目を凝らし新聞の広告を見つめていれば素晴らしい機会にも恵まれるのでしょうが、それも面倒になっています。
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