手稲は最高!

手稲在住30年、手稲って本当にいいなって常々思っています。時に触れ、折に付け思いついた事を、取り留めなく書いてみます。

慟哭は時を越えて2011  劇団一揆の公演を見てきた

2011-09-11 18:22:17 | 随筆「残響」
劇団一揆の「慟哭は時を越えて」を、やまびこ座まで行って観劇してきました。

 帰宅してこのブログを書きながら、久成の胸像移転設立記念公演演劇のポスターにフレーズが似ていると思って、改めて確認してみました。

 「北に夢を追ったサムライ」と「南から来たサムライ、北の大地に立つ」がそっくり、「慟哭は時を越えて」と「時を越えて鳴り止まぬ響き」と全く変わらないのです。それで、脚本誰なのかと確認したら、全く同じ「橋田志乃舞」さんだった。同じで当たり前だったのですね。

 観劇の感想を少し。

 記念講演のときは、いまいちの感がありました。あれは短時間で脚本を書いたとか、時間の制約があったとかいう問題が有ったのかと思う。

 脚本を書いた橋田さんにも、いまいち心残りがあっての、今回の公演だったのではないでしょうか。今回は140分だった。キャストもあの時より増えて13名になっていました。しかし、一人で三役をこなしたりするのは同じ。

 内容もかなり深められていました。プロローグが行路病者として倒れ、亡くなり、新聞広告で黒田清隆首相をはじめ国政を担当していた主要な方達に衝撃が走り、黒田を葬儀委員長として葬儀が青山でなされたことを演じ、続いて、是は残響に書かれていなかったと思うけれど、幼少の頃の、三郎との出会いの場面、そして、イギリス留学、続いて函館戦争での高松凌雲との出会い、五稜郭戦争の終結への努力、と続き、開拓庁に入り、ビール醸造所東京建設の政府案に中川精兵衛の助言を受けて、札幌への建設を推し進めて、ついに実現させるいきさつ、その間屯田兵村に関わる問題などが取り上げられていた。そして最後、醸造所払い下げの問題で、辞職を叩きつけて出奔する所でフイナーレ。

 屯田兵村の開拓挿話の中に三郎の淡い恋などをちりばめたり、兵村の宿舎の窓もなくストーブすらない話などは、一揆ならではの構成だったようにおもった。とにかく、久成の人間像がかなり浮かぶ構成でした。

 村橋久成の残響を劇化することは難しいことなのだと思った。田中先生のお話を聞いた感激を視覚で表現することは至難なのだ。
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「慟哭は時を越えて」 劇団一揆が公演

2011-08-20 18:28:18 | 随筆「残響」
先日第二教場の小林さんから、村橋久成をテーマとした演劇が公演されるという話を聞いていた。

 昨日、その案内ポスターをいただいた。

 先日その話をブログに書きました。それに、久成の胸像移転記念に公演された演劇とのかかわりについての疑問を書いたのでしたが、どうやら、あの時の脚本を劇団の団長である橋田志乃舞さんが脚色、演出で発表することになるようです。今回はしっかりした劇団が公演するのです。

 以前「ちえりあ」で公演されたときは、急ごしらえで、役者も一人二役くらいしなければならない様子で、劇的盛り上がりにやや欠けていたように感じました。

 私は、演劇にあまり興味が無いといえば言えるような立場ですし、それだけに劇団一揆の名前も知りませんでした。しかし、この作品は第30作となるそうです。ぜひ見学に行こうと思っています。

 ただ、久成を劇として作るにはとても難しいところが有ると思います。

 久成が麦酒醸造所は札幌にすべきだと建議し、それを実現した苦労。成し遂げた喜びの中に秘められていた北海道開拓への願い、それを裏切る醸造所の民間への払い下げ。その流れの中に潜む何かが、ただ辞職するだけでは気持ちを収めることも出来ない極限へと村橋を追い詰めたのだと思う。

 空白の10年、行路病者として倒れていく村橋の心をどのように表現するのだろう。

 そのあたりが、「慟哭」につながるし、どのように作り上げられているか楽しみです。

 「残響」で村橋をこの世によみがえらせた田中先生、そして鹿児島での中村先生との出会い、そして胸像「残響」が知事公館に移設されるまでの話。ここにもドラマが有る。

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「残響」村橋久成の胸像  移設されて5年になるのだ

2010-09-15 18:56:03 | 随筆「残響」


 2005年の9月23日、北海道知事公館の前庭に,村橋久成の「残響」と銘された胸像が、鹿児島から移設された。

 その移設の式典・祝賀会に参加させていただいた感激が、23日を前にしてまた新たなっになっている。その当時のことは、このブログのカテゴリーとしてまとめてある。

 手稲在住の田中和夫先生と「いの平」でたまたまお会いし、お話をお聞きした時の感動は忘れることが出来ない。冒頭の写真は、この折「北に夢を追ったサムライー村橋久成の残響」という演劇が公演された其の宣伝ポスターで、私の部屋にまだ貼ってあるものです。たまたま先日新しいデジカメを購入して、其の試し撮りで取ってものですが、この像が知事公館にあるのです。バスで公館前を通るたび、目を凝らしてチラッとでも見ようとするのです。

 今、坂本竜馬伝が薩長同盟に進んでいて、竜馬が薩摩に今週は入ることになるはずだが、その延長上に村橋がいるのです。

 鹿児島と札幌に久成会が出来ていて、23日には毎年この像の清掃をして、サッポロビールで交流会を開催していると聞きます。

 あの時「いの平」の常連が7・8名参加させてもらったのでしたが、もう忘れてしまっている人も多いのでしょう。

 私は例えば五稜郭に新しく奉行所が復元されたという話を聞くと、函館戦争のときの村橋を直ぐ思い出す。

 暑い日が続いているけれど、愈々彼岸です。暑さ寒さも彼岸までが言葉どおりにどうやらなりそうです。来週にも平年を下回る強い寒気が北海道にもやってくるみたいです。
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「残響」 田中先生の講演会 終わりました

2007-09-30 19:50:16 | 随筆「残響」

 予定されていた、コミセン文化祭、田中先生の講演が無事終了した。

 気になるので9時半にコミセンに出かけました。すると、すでに田中先生はおいでになっていて、資料の確認をなさっていた。

 少しお話をして、ホールの方へ出ると、平和教場から小田桐さんご夫婦と福本・福田・加藤の5名が着いてところでした。会場の方を見ると手稲第一教場の高橋さんがいる、少し遅れて第一教場の園部さん、第二教場の高橋さんもいらっしゃる。

 おいでいただけると約束していた琴似の山内さんが、吉村さんとご一緒でお友達の原田さんも連れていらっしゃる。始まる直前には、福祉センターの詩吟乃講座に来ているお二人が来る。

 全体で80人くらいの集まりになりました。後20人くらいいらっしゃってほしかったのですが、講演ということではこれくらいが限度だったかもしれません。

 田中先生の講演、休みなしで90分、とても判りやすくあっという間の90分でもっと話を聞きたいという思いが残りました。

 私の感想では、先生、今日話した以外にまだまだ話すことがあったはずだし、話足りなかったのではと思いました。

 昼食後、田中先生、吉村さん、山内さん、原田さんを「いの平」にお招きして乾杯をしました。ここでの田中先生の話もとても面白く、先生のお勉強の深さには驚かされます。

 それにしても、コミセン運営委員会の面々なんですが、3人くらい顔を見ましたが、この講演だけは何をおいても聴きに来るべきだったと思う。残念です。
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村橋久成の胸像を見守る会  二周年に参加しました

2007-09-23 19:56:18 | 随筆「残響」
 一昨年、9月23日、知事公館に鹿児島から村橋久成乃胸像が移設され、昨年から見守る会が立ち上げられました。

 今年は、昨日(22日)前夜祭ということで、札幌ビール園で祝杯を挙げました。
 
手稲からは、私と中村正紀さんの2名参加させていただきました。吉村事務局長さんが札幌駅まで迎えに来てくださいました。中に田中先生と他に村橋さんのひ孫にぬたる大山さんも同乗していました。

 岩内ビール会の方16名と焼く40名の出席でジンギスカンを食べながら楽しいひと時を送りました。

 たまたま、私の横の席にお座りになられた方は山内香波といわれる方で、ご主人を6年前何亡くされ、現在老人ホームに入居していられ、その施設の客室に大山さんをお泊りいただいているそうでした。田中先生とは、文章教室でお世話になり、自分史もお書きになっているとの事、一冊送っていただく約束をしました。

 宴がお開きになり、帰る段になって、田中先生と、吉村さんに挨拶にゆき、自分の席のところに来たら、中村君が見えないのです。先に外に出たのかと思って私も屋外に出たのですが、見当たりません。トイレに行って戻ったのですが、いません。
 駅まではかなりの距離ですので、歩くことはできません。一人で帰ったのだろうかと思って、私もハイヤーで札幌駅に行きました。しかし、見当たりませんのでそのまま帰宅しました。

 考えてみると、中村さんの事だから、私を探していたのではないかと思います。どうもそそっかしい私は、もっと中を念入りに探してみるべきだったのでしょう。きっと中村さん怒っていたことでしょう。
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「残響」 久成会、 、田中先生の講演会30日に実現する

2007-09-06 20:43:37 | 随筆「残響」

 「残響」村橋久成の胸像移転から今年は3年目になります。胸像移転実行委員会に参加した人たちにとって、移転が実現できたからそれで終わりということにならなくて、昨年は胸像の清掃という名目で、知事公館の胸像の前に9月23日に集まり、(もちろん拭き掃除もした)その後ビール園に移動して交流会を持ったのでした。集まったのは、鹿児島久成会、札幌久成会、琴似屯田兵関係者、岩内札幌ビール会(天然ホップ発見の地)それに残響関係者、移転実行委員会にかかわった人たちなど200名くらいが参加しました。

 今年は、22日に前夜祭ということでビール園に集合、交流をし、23日の午前に胸像の清掃をするという計画となっています。私は、前夜祭だけ参加させていただくことにします。

 昨年は、23日の祝日だったので、手稲からも何人か参加したのでしたが今年は土曜日なので、「いの平」の小野さんが参加できないから、ひょつとすると私一人になるかもしれません。

 今年手稲コミュニティセンター文化祭に、田中先生の講演会を開いていただくことになりました。そのきっかけは、私が館長に田中先生のこと、残響のことを話し、ぜひ一度講演会を開いてほしいとお願いしていたことにあります。

 講演会を組むに当たって、田中先生との橋渡しも私の仕事になりました。また、講演の時、写真をプロジェクターで投影したらどうかと提案したらそれも、館長が受け入れてくれてプロジエクターの手配をつけてくれました。

 実は、今日、ブロジエクターの試写をしたのです。午後、田中先生もいらっしゃって、業者が宣伝をかねて使わせてくださる高性能のブロジェクターのテストをやりました。イギリス留学に行ったときの村橋たちの写真、函館戦争で五稜郭軍に降伏を勧めに行くときの写真とか、琴似屯田兵屋、当時の札幌の姿、麦酒醸造所などど、この写真を見るだけでも楽しい写真が用意されました。これだけの写真を使っての講演会は、素晴らしいものになると思います。ただどれだけ人を集めることができるか、私も頑張らなくちゃなりません。

 こんな形でいつの間にか、田中先生とは結構深いお付き合いをさせていただいているので、久成会には行かなければなりません。また、開拓使ビールを味わう楽しみでもあるのです。
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胸像を見守る会 つづき

2006-09-25 21:30:32 | 随筆「残響」

 胸像を見守る会の知事公館セレモニィが終わってバスでサッポロビール園に向かうことと成りました。
 
 バスは16時45分ころ走り出した。私の横の席にお乗りになられた方、偉い方なのだと思いますが、名前も存じ上げていません。今日の日程表では、懇親会が18時30分となっています。17時にはビール園に着くはずですので、それまでの時間どうなっているのかと思って、隣の方に、「ビール園についてから何か行事があるのでしょうか」と尋ねてみました。すると「宴会は繰り上げて始めるはずだ」と仰る。是はよかった。と思ったら、その方が携帯を取り出し連絡を始めた。すると、ビール園の方では予約で埋まっていて、予定の18時30分より早められないといっているのが判る。その方も困った様子でしたが、結局それまでの時間を埋めるため、サッポロビール博物館の見学を組み込むことになりました。

 是は予定外のことだったのです。私は博物館まだ見ていませんので、嬉しく思いました。

 博物館の一般展示は特別感動することも無かったのですが、今特別展示をしています、希望の方はどうぞといわれた。ここで、とても素晴らしいものを見ることと成りました。

 田中先生は「残響」を出版された後、村橋の墓探しをされたのです。村橋の亡くなった後、どのようになったか田中先生もわからなかったのです。それで墓がどこにあるのか気になり、村橋の亡くなった神戸にでかけお寺を訪ね歩いたけれど、終に判らなく、まったく途方に暮れながら東京であてもなく尋ねたお寺に、墓は見つかったのです。そして、墓の持ち主が、村橋久成のお孫さんだったのです。そのお孫さんを尋ねて行ったところ、初めは打ち解けてもくれなかったのが、次第に田中先生の話を聞くうちに、実はこんなものが残っていますといって出してきてくれたのが、香典帳で、そこには、薩摩出身の明治政府の要人黒田清隆を初めとする方々の名前がならんでいたのです。そ香典帳が、是が縁で、サッポロビール博物館の村橋久成を顕彰する記念品となったのです。それが展示されていたのです。陸奥内務大臣自筆の、香典送付のための手紙もありました。あまりの達筆で判読が容易ではないし、全部は判りませんが、それを見ることが出来たことは大収穫といえます。
 その同じ場所に、2枚の写真がありました。一枚は昨年冊子などで見ている、薩摩藩からイギリスに派遣された留学生のもの、もう一枚は、函館戦争で、五稜郭の榎本軍との講和会議に出かける一行の写真です。この写真は静岡の方がお持ちだったものを、譲り受けたのだそうです。皆で、村橋はこの人だろうと、見当をつけていたが、村橋がこの講和で果たした役割は大きかったし、当然この一行の中にいる、だからこの写真はここに在るのです。是を見たのも大きな収穫です。

 ついでに、古めかしいソフアが一脚ガラスの囲いをして展示されていました。是は、明治天皇が行幸された折坐られたもので、サッポロビールの宝物になっているのです。

 私がこれらを見ている間に、一緒に行っていた「いの平」の仲間は、試飲室でビールをいただいていたのです。
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胸像を見守る会

2006-09-24 19:59:24 | 随筆「残響」

 村橋久成の胸像が知事公館前庭に移設されて23日が丁度一年、「胸像を見守る会」が出来て、賛同した仲間が胸像の前に集った。

 まず胸像の拭き掃除、やはり1年間雨風にさらされてかなり汚れていた。綺麗にして、胸像にワックス、見違えるように綺麗に成った。

 この会に「岩内サッポロビール」という団体が20名ほど参加された。確か去年の除幕式の時には来ていなかったはずです。それが、このように参加されることになったのは、実は北海道で野生のホップが発見されたのが、岩内なのです。北海道でホップが栽培できることが実証され、ビール工場の設立の弾みになっていて、岩内は、そんな意味でサッポロビールとつながるのだそうです。平成6年に「野生ホップ発見の地」という碑文が建てられたという
 
 テレビ局の方たちも来て、写真を撮っている。ふと去年私のブログにコメントバックで吉村さんの写真を送ってくださった方がいらっしゃるかも知れないと、一寸注意してみていたら、それらしい方がいらっしゃつた。

 声を掛けさせていただきました。やっぱりその方でした。金子さんという方で、懇親会にはいらっしゃっていません。今朝、メールを開けたら、ブログに私の顔と吉村さんの姿がチャント入った写真と、コメントがトラックバックで送られていました。去年私のブログを読んでいただいたのでしようが、もう忘れているだろうと思っていましたが、私のブログをまた見つけて、コメントを下さったのだと思います。とても嬉しく思いました。
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村橋久成の胸像を見守る会が出来た

2006-09-17 18:58:45 | 随筆「残響」

 木曜日に「いの平」で、残響の田中先生とお会いしていろいろお話を聞かせていただいた。
 
 私は、うっかりしていたのですが、村橋久成の胸像が鹿児島から、知事公館の前庭に移設され、その除幕式が開催されたのが、去年の9月23日だったのです。

 昨年、村橋久成の話をお聞きして、大変感動を覚え、いろいろブログに書いて、それを、随筆集として一冊にまとめたのでした。それ以来、バスで札幌に出る折、知事公館の前では、わずかに見える胸像を、一瞬眺めながらも、これからどうなるのかと思ったりしていました。

 このたび、田中先生と移設期成会の事務局長でした吉村さんもいらっしゃっていて、9月23日、丁度、1年目のこの日に、「村橋久成の胸像を見守る会」を立ち上げ、その最初の行事として、胸像前に集まり、周りの清掃をし、懇親の会を持つとのことでした。

 嬉しい話です。私も参加させていただくこととしました。当日はコミセンの文化祭なのですが、午前中の行事だけ見学して、午後からはそちらに出かけることとします。
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題を変更。「手稲に文化の灯をともそう!!」残響の田中先生と話す

2006-09-14 23:28:16 | 随筆「残響」

 暑い夏が過ぎたはずなのだが、まだ、朝晩は確かに涼しくなっているけれど、昼間は、いい天気が続き、長袖では暑いのだ。家の中も蒸している。今、2階でPCに向かっている、窓をあけても涼しくない。変な暑さは私のアレルギーを


 そこまで書いた時、電話、「小野です!先生、今、田中先生(残響の作者)いらっしゃったの・・・・・」「すぐ行くから・・・」といって、ブログ途中で「いの平」に行きました。さっき帰ってきて、ブログ途中だったので、酔っ払いながら是を書いています。田中先生と、久しぶりで話、話は尽きなかった。今度手稲の文芸誌を出そうよという話になる。吉村さんが「軽川」という、誌名にしようという「OK、それで行こう」となる。

 手稲の文化活動に、手稲区は期待できない・・・・行政の、行政らしさは、いわば、地域社会の豪腕にしか応えられない、静に、しかし、文化活動を底支えする草の根みたいな小さな活動は、活動として認めないところにあるのだ。是が、札幌なのか・・・・そんな市政を私は認めない。

 それでも、やろうょ・・・、私なんて力になれないかもしれないけれど、「町明かり」の提灯の一つにもならない明かりでも、ろうそくの一本くらいになるかもしれない。こんな、私の呟きみたいなものを、どうぞ無視してください。
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