手稲は最高!

手稲在住30年、手稲って本当にいいなって常々思っています。時に触れ、折に付け思いついた事を、取り留めなく書いてみます。

手稲は最高・・・群馬だより・・な何枚かの写真

2023-11-07 14:09:15 | 無題

       城の内公園

 

 

 

渡良瀬峡谷鉄道  足尾銅山駅

 

   

 

 

     

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手稲は最高・・・群馬だより‥阿波踊り・・凄い!

2023-08-20 15:02:04 | 無題

you tube で阿波踊りを見ました。  凄い!!!

話に聞いてはいたけれど、実際の姿を見たことがなかった。たまたま昨日You  Tubeで本場のパレードを見せていただいた。

驚いた一糸乱れぬ、独特の着付けでの踊りは、そのリズムとともに思わず引き込まれる。

北海道でヨサコイソーラン祭りのパレードが開催されるようになり、その規模とバフォーマンスは今までにない踊りの形で観客を魅了してきていた。しかし、ソーラン節のリズムが

どう生かされているのかあまりわかりにくく、その団体の独自性が問われるようなものになっていた。しかし、阿波踊りは基本のリズムも踊りの形も全部同じだけれど、それなりの各連の

工夫がさりげなくされていて、おなし物を見ている感じにはならないし、日本ならではの一糸乱れぬ踊りは素晴らしいとしか言いようがない。このようなパレードはどこの国にもあるけれど

この阿波踊りのような質の高い踊りは見られないと思う。アメリカとかフランスでもパレードを披露したそうだけれど、あの下駄の音高く、そろいの衣装で高い手ぶりで登場したら唖然として

見ほれると思う。昔は盆踊りのようにばららばら踊っていたのだと思うけれど、今このようにまとめられた姿は世界に誇れるものだと思う。

 

 

 

 

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雨が降ったり雪になったり・・・

2022-03-17 18:57:53 | 無題

 この数日天気がすぐれない。雨になったり雪になったり。御天と様を拝めない。
 でも、雪は積もるより減っていっている。春への橋渡しなのです。このいやらしい天気が過ぎると本格的に春の景色になるのでしょう。
 ウクライナの報道を見ながら、ソ連=プーチンがとても憎らしく思えてます。人としての血を持っているのでしょうか。あれは戦争といわない、侵略無差別侵略攻撃です。今の時代に侵略攻撃を仕掛ける???信じられない。
 ウクライナの人を全員殺して、勝利とさけぶのでしょうか? ここまでの経過を見るだけで、プーチンの威信は地に落ちている。でもまだこの職をソ連の人たちはつづけさせるのでしょうか。もしもそうなるのなら、その時は世界の孤児になってもらわなけばならない。共産党独裁政治の本質見たり!!!という評価はいやおうなしにされると思う。あの民家人の住宅や学校・病院を無別に木っ端みじんにしているあの写真をソ連人に見せてあげたい。
何満人もの人民が国外に避難しているさまを見てもらいたいものです。ウクライナの大統領は自分の命を捧げても、共産主義独裁政治の本質を世界に知らしめようとしているのじゃないでしようか。国民もみんなついてきている。
 そんなソ連です。北方領土の返還など全く考えてくれないのが当たり前なのでしよう。むしろこのウクライナ問題が大きな転換の契機になってくれたらと思ったりしています。 
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時の速さ・・何もしていないから

2021-04-08 19:08:51 | 無題

時の流れの速さをよく嘆く。90近くなってから特にそれを感じるようになった。今日は4月8日だ。もう四月八日なのだ!!!
令和3年ということも念頭から消えてゆく。2年であろうが3年であろうが関係なくなっているのです。
時の流れの速さを、もうそんなにたったの!!! 早いね・・・なんて言葉は聞き飽きるほど聞くし、自分でもそう感じている。
今の自分を見つめてみると、早いはずです。何もしないでいるのですから、時間を意識する必要がほとんどない。
突然今日は何日の何曜日?と聞かれると確信をもって答えることができない。自分の前に立ちふさがる何物もない中に身を置いているのだから。
生きている意味が無くなっている。何かを成し遂げようとすれば、時間との勝負みたいになり、時間がほしいと思い、時間に追われながらの時の早さを嘆くのと違う。
この時間をもう少し生きる楽しさにしたいけれど、肺気腫で体を思い切り使うことができないし、さらにコロナの蔓延は人との交わりを締め付けている。
独りで詩吟を時々するけれど、声が出なくなっている。詩吟は声が勝負みたいなところがあるけれど、今やそんな挑戦はやりたくてもできなくなっている。
何もしないで時の早さを嘆くのは楽だけれど、人生といえない・・空虚な生き物の姿、 しかし、私の人生はまだ完結していないはずなのだ。


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おしやべり・・・村橋久成の胸像移転

2021-03-18 19:54:13 | 無題

 残響の田中先生と中村晋也先生の出合い、高橋知事の知事就任あいさつをきっかけに鹿児島の中村記念館に収納されていた村橋の胸像の札幌移転期成会が立ち上げられて2005年の9月に移転が完了したのでした。
 残響で村橋を鹿児島の人たちの前に立ち上げたのです。これまでうすうす知っていた親戚の方たちも、行路病者として亡くなったことに、むしろ恥じらいを感じていたようなのです。それが、素晴らしい活躍の姿が明らかにされ、鹿児島と札幌に村橋会が設立され、胸像設除幕式には鹿児島市長を始め多くの鹿児島の方が参加されていました。
 東京に建設予定だったビール工場を札幌に変更させ、ビール醸造士中川清兵衛を技師として雇い、サッポロビール工場を完成させたのですその完成祝賀記念の折、ビール樽を横済みにした樽の底に「麦とほっぷを聖すればビールという酒になる」という文字を書かせ写真に撮ったのです。その写真は今も残されています。/div>
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おしゃべり・・・村橋久成の「残響」

2021-03-15 19:18:52 | 無題

 つづき・・・「残響」の作者、田中和夫先生は国鉄の車掌さんでした。勤務の傍ら国鉄北海道文学で文芸活動に関わっていて、たまたま「北海道史人名事典」で村橋久成の記述に出合ったのだそうです。そこが出発点で残響の中身の調査に入ったようです。尊王攘夷の旗頭のような薩摩が、薩英戦争に負け、その直後、英国に青年17名を留学させていたのです。もちろん国禁を破ってです。その中に村橋も入っていたのです。しかし、村橋は1年で帰国していました。
 田中先生が残響を書き上げた頃、鹿児島大学の中村晋也先生(日本芸術員課員)が鹿児島駅前に「若き薩摩の群像」という彫刻を作り上げたのです。しかし、その中に居る村橋の活躍は知る由もなかったのです。
 田中先生が「残響」を上梓し、鹿児島県知事に贈呈すべく出向かれた時、たまたま中村先生もお出でになりここで田中先生から村橋のことを聞かされ、田中先生が小説で村橋を送りだしたのなら私は胸像で村橋を世に出そうということになり、田中先生が手に入れた一枚の写真をもとに、村氏の胸像を作り上げ、中村先生の美術館に展示してあったのです。
 
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おしやべり・・・・・・村橋久成

2021-03-14 15:43:58 | 無題

 先日、村橋久成について思い出の端くれをかきましたが、たまたまご覧になられた何人かの方がつづを希望されましたので、少しおしゃべりしてみようかと思います。
 村橋は札幌ビール工場を完成してこれからという時に突然辞職し行方不明になり行路病者として見つかったことを書きました。ここをもう少し詳しく言いますと、辞表を出し行方不明になり、10年後に神戸で行脚僧の姿で倒れているのが発見され、神戸新聞に行路病者村橋久成という広告がて、それを昔の仲間が見つけ葬儀を行い送ったのだそうです。のちに残響の作者田中先生は村橋のお墓を探したところ八方手を尽くしたが分からず、最後に当てもなく東京の青山霊園に電話をしたら「正七位村橋久成墓」の存在を確認でき、さらに実のお孫さんが健在であることが分かりお尋ねしたところ、葬儀の香典料人名簿が残されておりそこに名前を連ねていたのは元開拓使長官の黒田清隆を筆頭に明治新政府の要人となっていた方たちがずらり名前を連ねていました。
 村橋久成の胸像が知事公館の西門から入って左側にたられていています。この胸像を鹿児島から移転したのですがそれにまつわる話が、とても感動的な野で次におしゃべりしてみます。
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おしゃべり・・・ 村橋久成

2021-03-08 19:56:19 | 無題

 私の部屋の壁に「北に夢を追ったサムライ」ー村橋久成の残響 というポスターがまだ貼られています。20015年の日にちが入っていますから随分長いこと私を見つめていてくれたのです。
たまたま、渋沢栄一が大河ドラマとして始まったばかりで、主人公渋沢栄一とかかわるのでとりあげてかい書きます。
 手稲在住の田中和夫先生の小説「残響」の主人公で、サッポロビールを誕生させた方なのです。島津藩の藩士で戊辰戦争にも参加し、五稜郭の戦いでは、五稜郭の幕臣を降伏に至らせる働きもしていました。
 新政府が発足し北海道開拓使が設立され、北海道開拓が始まると開拓使の一員として場広い分野で業績を上げたのですが、取りわけ札幌ビールとの関係は深いものがあります。東京にビール工場を立ち上げるという話を聞き、ビールは札幌が立地条件に適うと考え黒田清隆に進言をして苦労の末サッポロビールの製造に成功したのです。北海道にはこれという企業がまだ出来ていない中でサッポロビール工場が誕生したのです。
 ところが、完成後間もなく村橋は姿を消します。その数年後神戸で行路病者としてなくなるのです。北海道に残した村橋の足跡は屯田兵を始め多くの農産物の生産にも重要な役割を果たしていて、高橋知事が就任の時、残響の村は詩に負けないように頑張るといったことで改めて見直されたのでした。札幌ビール工場の歴史に当然乗るべき村橋の名前は名かったのです。村橋が行方不明になって間もなくビール工場は民間へ払い下げられたのです。そのあたりから渋沢がかかわったようなのです。村橋は此のビール会社を北海道発展の起点にしたかったのでしょうが、維新政府による民間払い下げは我慢のできないものがあったのでしよう。頭を剃り出家するくらいのことでは我慢のできない虚しさが行路病者へと村橋を追いやったのでしょう。/div>
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おしゃべり・・・運が良かったのだ

2021-03-07 19:12:13 | 無題

 運がいい、いいめぐりあわせだ、ついていたなんて言葉があります。
 私の人生現在まで、教員歴38年、吟歴47年、でした。今も詩吟の先生をつづけていて、私の人生は詩吟で彩られていたと感じている。
 携わったときの長短だけでない思いがけない幸運に支えられてきたと思う。管理職に推薦されたけれど試験で落ちてしまった。これがラッキーの始まりなのです。挨拶下手の私です、管理職はなりたくなかった。試験は真剣に向き合ったつもりですが落第しました。おかげで詩吟をやりとおすことができたのです。次に札幌への転勤をそれとなく期待して手稲のこの家を建てて二年目に転勤出来たのです。そして、美唄で私の所属した詩吟の会が手稲にないので、剣風会手稲に入会させてもらい、本当の詩吟の先生に詩吟を教えていただき、詩吟を教える自信を持つことができた。(剣風会手稲は5段でやめて、元の流派へも取りました)、勤務校の校務分掌が団体事務局ということで、PTAや後援会の父兄の皆様を相手の仕事となり、その仕事の一つに公開講座があり、それを組織していく中で、詩吟入門講座を開設し、これが私の詩吟の教室の出発となったのです。そして退職をした年に手稲老人福祉センターが発足し、そこの詩吟講座の講師を引き受けたのです。丁度退職の年だったことが幸運でした。ここから詩吟のお弟子さんを沢山作ることが出來、一昨年の12月に重度の肺炎になり、3週間入院して、12月の末に退院しました。そして教室を2月から再開瀟としたらコロナの問題が起きて教室も休むことになりました。この入院の時に福祉センターの詩吟もやめました。ところが、福祉センターの詩吟の講座もコロナの関係で休講となり未だに再開できないでいます。丁度福祉センクターの講座をやめるのと休講になるのが重なったのです。その1年前2018年の11月に札幌市の市民表彰で社会教育功労者として表彰を受けました。この主要なファクターに福祉センターの詩吟講師の経歴がありました。70歳ころ、85歳ころまで詩吟続けられるかと思っていましたが、何と間もなく91歳の誕生日が来るのです。良いめぐりあわせに恵まれたのですね。
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おしゃべり・・・おしゃべり相手

2021-03-05 19:08:02 | 無題

 私は本当に話が下手だ。同じ趣味の方とそのことについて話す分には困らないのだけれど、知らない人に話しかけることは全くダメです。たとえば、昨年からリハビリーに週一度出掛けています。みんなで15名ほど集まるのですが、そのうち男性は5人です。一年経っていますが、まだ一度も話したことのない人がほとんどです。家内も一緒に行っているのですが、家内はほとんどの人の名前とか、どのへんに住んでいるかを知っている。(家内はこのリハビリーには数年前からきている)、そんな前歴があるからといえばそれだけなのだけれど、そのあたりに男と女の違いがある。男同志の場合、その方のプライドを傷つける話になると困る。簡単に本職を聞いたりできない。女性のように料理の話、子供の話などを話題に持ちだすこともできない。みんなで話す場面でもあるのなら少しづつでも気心が分かり暇なときにおしゃべりもできるのでしょうがそれもない。私は本職が教員だったので、先生だったのだからおしゃべりは得意でしょうなどといわれることがありますが、仕事での話はいくらでもできますが、世間話になると全くダメなのです。学校という小さな箱の中で過ごしていましたので、世間知らずでした。生まれ育った地元で先生になったのなら大分違ったと思いますが全く知らない土地で、仲間同士の付き合いだけでは、世間知らずになってしまうのです。私はその部類です。自宅を建てて町内会のお付き合いをするようになってようやく分かってきたことがいろいろとあります。逆に分からないままに失礼をしてしまうこともありました。思い切って、町内会の宴会などには積極的に参加し、二次会に我が家に連れてきて飲んで騒いだりしました。そんなことが町内会副会長の時代にとても役立ち、楽しい活動ができたように思います。
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