手稲は最高!

手稲在住30年、手稲って本当にいいなって常々思っています。時に触れ、折に付け思いついた事を、取り留めなく書いてみます。

西郷隆盛(南洲)の詩を吟じながら

2016-04-30 18:56:22 | 詩吟関係
  西郷南洲の自作の詩はちろん彼を歌った漢詩も多い。どれも心にびく。そして、維新の大業は彼がいて成し遂げられたと信じている。

 鳥羽伏見の戦いから江戸攻略に軍を進め、勝海舟との巨頭会談を経て江戸城無血開城、戊辰戦争で幕府軍を完全に打倒して、維新新政府が樹立された。そして新政府の最大の問題、題廃藩置県も西郷の力なしにはできなかったといわれる。

 新政府が誕生しても、新しい政府の政治に同調できない多くの士族の乱がいくつも起きた。その最後の乱が西南戦争だったといえましょう。西郷は自分からこの戦いを望んで起こしたものでないけれど、いわばこれが士族の新政府への抵抗になることを、そして、この戦いが終わって新政府が新政府として機能できることを見越していたと思う。西南戦争は明治維新の総仕上げであったといえる。

 この一連の戦いで大きな力となったのが錦の御旗だった。それと、この維新の戦いで新しい武器を、新しい戦を学んだ。更に列強の侵略戦争を学んだ。
 
 富国強兵の政策が急速に進み、軍国主義国家へと突き進んでいった。当時の軍部の中にはかつて西郷が抱いた征韓論のようなものか根底に流れていて、それが列強の海外進出に同調する形で膨らみ、日清、日露の戦争へと続いたのではないかと思う。

 維新政府が軍事面の強化を図ることは、軍備調達に莫大なお金を使っていて、武器を売る特に欧米に利することは多かったと思う。日露戦争の戦費もほとんど借款に頼ったはずだ。この日露戦争は、ロシヤの極東進出を警戒していた欧米列強にとってはありがたい戦いだったと思う。しかし、この勝利が太平洋戦争へとつながり、敗戦を代償として民主主義へと転換することができ今日の日本がある。

 西南戦争で新しい日本が始まり、太平洋戦争でようやく近代国家の仲間入りができたのだ。これまでに払った損失は大きく、経済的な立ち直りは結構早かったけれど、日本国民としての誇り、民族意識、政治哲学のようなものが未熟のままのように感じる。

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

北詩連定期総会に出席  懇親会後まっすぐ帰宅

2016-04-29 21:03:00 | 詩吟関係
  昨日書いた北詩連の定期総会に出席し、懇親会でワインを一本くらい飲んできました。最近お酒に弱くなっていて、気負付けて飲むことにしている。最近ワインにしています。

 終わってから帰宅どうしようか迷っていた。汽車にするためには駅まで歩かなければならない。一人でハイヤーに乗るのも贅沢です。誰か一緒に乗る人がいればと、丁度Sさんがいたので誘ってみました。結局5人で乗って手稲まで来ることになった。

 手稲駅からハイヤーにしようと思っていたのだけれど、丁度バスがあったのでそれにしました。バスを降りてから大変かと思ったけれど特別のこともなく帰宅できた。

 今日はまだ酒が残っているので書くのをやめようかと思ったけれど、書きました。

 明日は健幸クラブの総会です。ここでは監査報告をしなければなりません。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

北詩連定期総会 明日KKRホテル札幌で開催される

2016-04-28 20:17:28 | 詩吟関係
 例年通り明日北詩連の定期総会が開催される。13時から理事会、そして14時30分から総会となる。終わって懇親会。

 あいにく天気予報では朝から雨となっている。気温もかなり低くなりそうだ。ウインドブレーカーでは寒そうだ。着るはずもないと思っていたダウンコートを着て行こうかと思っている。

 特別のこともないと思うが、恒例の大会立派に終わらせなくてはいけない。

 北詩連に加盟してもう10年も過ぎたけれど、漸く西支部の方たちとはかなり親しくなれたけれど、ほかの方はまだまだお名前すらわからない方が多い。ほとんどの方は北詩連一筋です。私は象堂流から北詩連に移りました。その間転勤したこともあり日本詩吟学院に5段まで在籍した経験もあります。その流派による特色を味わってきています。それだけに他の流派との格差をついつい意識してしまいます。

 それぞれ一長一短があるのです。伝統は尊重すべきですが、それに縛られていては時代の流れに遅れたりします。北詩連でもいろいろと変革への努力をされている。それはそれとして認めなければならない。しかし、今の吟会の状況は決して一過性のものでなく、詩吟という伝統芸能の存亡がかかっているようなものた。その認識をみんなのものにしてゆく行動目標などが示されると嬉しいのだが、むつかしいのでしょう。

 流派を問わない大きな問題が覆いかぶさっている。そんな中で、もし北詩連がリーダーシップを持って新しい行動を起こすことができたら素晴らしいのだが難しいことなのでしょう。私に、じゃ何をすれというのだと逆に問われたら、即答できる何もないのだけれども。でも、二回私がやっている小学生に詩吟を聞かせることは一つのヒントになると思う。もしも、北詩連の行動目標に小学生に詩吟を聞かせる活動が提起され、組織として動いたらすごいことになると思ったりする。

 今の目の前の現実に即応する方策はそんなにあるわけもないけれど、唯手をこまねいては何も生まれないのです。みんなの知恵を、力を一つの方向に動かすトップダウン的な運動が起きないものか。

 結局、たわごとでしかない思いを書いてしまった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

展望を持つ   目標を持つ

2016-04-27 19:16:09 | 身辺雑記
  地域のある団体に所属してそれなりの活動をしてきた。随分大きく組織を変革したと自負している。その中で本来これはトップに立つ人が先に考えるべきことだと思った。

 組織には組織としての規約なり伝統なりで動ていて、特別のことがない限り自然体で動いて行くものです。しかし、時代は組織に変動をいやおうなしに押し付けてくるものです。

 その時代の要求を敏感に受け取らなければならないのは、組織のトップです。又は、組織全体を変動にいち早く反応できる体制に組織強化を図り、それを受け止め実現させるリーダーシップを持つトップでなければならない。

 自分が過去にやったことをひけらかす気持ちはない。しかし、やらざるを得なかった。黙ってみていることができなかった。その中で、これはトップが持たなければならない組織の展望なのにという思いが強かった。

 組織によっては、トップでもないものが、組織運営に口を挟むと嫌がられたり、煙たがられたりする。幸い私は周りによく理解し応援してくれる人もいてやれた。

 今、かつての組織の現状を見ながら、リーダーシップが機能していないことをとても残念に思ってみている。組織が組織として存在する意義を見失っているように見える。

 その人に与えられた仕事は今までやられた通りのことをやればいいということにはならない。少しでも前進させる。とても大変なことだけれど、そんな中でもその人なりの展望を持たなければならない。そしてそれは自ずから現れてくるものだ。

 今の自分には、今をどうするかというくらいのことしかないけれど、今年は交歓吟詠会を思い切って簡素化させた。それが良いことかどうかは判断しにくいところもあるけれど、自分の教室の現状から、無理をさせない道を選んだつもりです。

 教え方も常に幅をひろげながら実践しています。ささやかでもただ教本の指導だけにとどめないで、自分の勉強と連動させている。此の意識が無くなったら生徒さんに見放されると思っている。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

桜も満開だ  春本番なのだけれど

2016-04-26 21:03:34 | 身辺雑記
  今日車を走らせながら、「がるがわ」の桜並木に目をやったら満開の桜並木になっていた。もうどこの桜もいているのでしょう。

 家の前の花畑、この間雪が解けたばかりのような気がしていたが、いろんな花が手入れもしないのに咲いている。水仙も咲いているのだけれど、去年どうかしたののでしょう、毎年にぎやかに咲いていたのに今年はぽつぽつとなっている。

 軒下畑を耕してもらうための申込み、シルバー人材センターに明日お願いしておくことにします。狭い畑だけれど結構楽しめる。今からどこに何を植えるか設計をしなければならない。今年は堆肥を少し多めに購入しておいて、耕すときに鋤き込んでもらうことにしようと思う。

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

写真を2枚 その他

2016-04-25 19:09:59 | 身辺雑記
 先日前田森林公園に行ってみました。まだ春の装いにはなっていません。カナールの水もまだで、両脇のポプラ並木も萌黄に遠い有様でしたが一枚撮ってきました。結構、散策の人は来ていて大手を振ってウオーキングを楽しむ人、ご夫婦でゆっくり散策を楽しんでいる方などを見かけました。私は数年前だったらこのカナールを一回りして帰ることもできましたが今は無理です。でも天気も良くここでの散歩はほんの少しでも楽しかった。

  我が家にも春が来ました。みすぼらしい梅の木があるのです。今日こんな花を咲かせていました。午前中に区役所に行きましたが、西友との境に植えられている桜が咲いていました。札幌の櫻の開花宣言が今日出されたといいます。連休前に花が終わるのではないでしょうか。

 土曜日に娘が私のデジカメのWIHIを使えるようにしてくれたので、その機能を使えるか試してみたらできました。とても有り難い。

 携帯も新しいのに替えたこと書きましたけれど、とても音声が良くて、通話が楽しい。来月の10日から電話料金が新しい体系になるのですが、使いやすいものだからついつい使っている。メールくらい楽勝で書けるようにならなければならないのだけれど、少し練習しなければ駄目みたいだ。歩数計もついているから、外出時にはポケットに入れて置くことにします。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

村橋久成を大河ドラマにする運動が起こされているという

2016-04-24 20:34:17 | 無題
  薩摩藩士で戊辰戦争でも活躍し、維新政府で北海道開拓史の一人として北海道の産業発展に多大な貢献をしながら、最後神戸で行路病者として亡くなった村橋久成の壮絶な話は、話そのものの大きさは言うまでもないけれど、「残響」の作者、田中和夫先生が取り組んだプロセス、鹿児島大学の中村晋也先生との出会い、久成の胸像の知事公館への移転など本筋以外の話も凄く感動的なことがある。

 たまたま、先生と胸像移転活動中にお会いし、そこで聞いた話に感動して、ブログを使って随筆「残響」をまとめました。

 知事公館に鹿児島から胸像が移転されたときの除幕式には私も参加させ頂きました。知事公館の前を通るたびにあの時のことが熱く胸に蘇ります。大河ドラマの計画が実現されることを念じます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

いろいろなことがありました  携帯も新しいものにしました

2016-04-23 19:10:08 | 身辺雑記
朝起きたら昨日から少し痛みの来ていた下の奥歯がいたい。私の歯は、ほとんど入れ歯で、かろうじて下の半分くらいが残っているだけなのです。その残っている歯の一番奥の歯が痛んだのです。この歯はほかの歯よりやや高い感じで一番使うことになる歯でした。その歯が痛むのです。食事になったら悲惨でした、食べ物をまともに噛むことができないのです。すこしづつやっとの思いで食べ、行きつけの歯医者に行くことにしました。土曜日で10時から始まることになっています。ほとんど予約でやっている歯科で、突然行ってどうなるか心配だったけれど出かけました。少し早めに行きましたが既に先客がいました。受付で事情を話したら予約の人の最後になると言われました。時間がどの程度かかるのか訊きましたら1時間以内には終わるといわれ待ちました。ところがいくらも待たないうちに先生が来て、症状を聞いて行き、それからすぐ呼ばれました。レントゲンを取り、この歯はもうだめだということが分かりました。冠をかぶせてありましたが、今金属を切るのは無理だから、今日は応急処置をして次回に切断することになりました。そして上下の歯を削って当たらないようにし、鎮痛剤と化膿止めの薬を処方してくれました。帰宅して直ぐ薬を飲みましたら昼の食事は困ることがありませんでした。

 午後は平和教場の詩吟、終わって帰宅したら娘が来ていて、先日来たとき私の新しいデジカメのWIHIを立ち上げる作業をしてくれて途中までで終わっていたのを完成してくれました。これが使えると助かります。

 そのあと、私の携帯新しいの替えることになりフトバンクに一緒してくれ、初めはスマートホーンを勧めてくれたが、簡単な電話主体のものに決めた。でもどうやら今までよりかなり安く使えるようだ。支払うお金も安くなりしかも使いやすいものになった。

     二階の踊り場に置きっぱなしの君子蘭がこんな花を咲かせました。我が家にも春が来ているということですね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ソ連のあのシベリヤへの日本人強制連行がなぜ問題にならないの

2016-04-22 19:09:20 | 随想
 勝てば官軍負ければ賊軍、あの理不尽な日本への開戦と、捕虜としてシベリヤへ連行し、強制労働をさせ多くの命を奪ったソ連の行為は賊軍だから仕方がないで済まされるようなことでないように思う。 日本軍が戦争の中で犯したいわば戦争犯罪は東京裁判で決着したのだ。そしてあの戦争について世界に頭を下げたのだ。それにもかかわらず中国や韓国が今だに責め立てている。なぜソ連のあの行為が責められないのだろう。そればかりではない、日本固有の領土(北方四島)の返還さへしないようだ。

 日本が戦争を放棄している現状を知っているのに首相が靖国神社参拝したら猛攻撃をしてくる。昔の日本に今すぐにでも戻るようなかみつき方だ。

 日本が再び軍国主義国家になったり、侵略国家になったりしないことは判り切っていることなのだ。日本攻撃を世界に発信して、何も知らない世界中の人に日本をひどい国のように思わせようとしているのでしょう。日本はあのソ連のやったことを非難することはできないのか。北方四島を返還しないことを暴挙として世界に発信することはできないのか。

 中国も韓国も戦後の復興に日本の支援を受けているのだ。平和条約を締結して法的賠償を終えた後も、経済協力を随分しているのだ。その恩義のようなものは知らぬふり。

 沖縄で辺野古移転問題などでごたごたして、反米的な運動になっているのを多分うれしく思ってみているのだと思う。日米安保が無くなれば、尖閣は忽ち中国に乗っ取られるだろう。それだけでなく反米、反政府の沖縄に手を貸して、沖縄も中国領だといってくるかもしれない。

 平和ボケみたいになっているのじゃないだろうか。日本人の誇りはどうなっているのだろう。この小さな国が一枚板になれていない。日本人の良さ、国民性、貫く思想を改めて確認して堂々と世界に発信してほいものだ。憲法9条をもつ日本ができるだけの自衛権を強めて、日米安保より重要視していくことが必要なのだ。そんな世界情勢がある。

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自分に指導力があるとは思わないのだけれど

2016-04-21 19:41:45 | 身辺雑記
 私は自分自身を決して指導力があると思っていない。むしろ足りないところが多すぎ、劣等感さへ覚えている。高等学校の教員として38年間務めあげたけれど、生徒に慕われる先生ではなかったと思うし、恐れられる先生でもなかった。当然だけれど、管理職にもなれなかった。なりたいとも思わなかった・・・その才能がないと自覚していた。

 それでも、何かしらというかいつの間にかリーダー的なところに立っていることが多かった。公務分掌などでも中年なってからはほとんど部長なることが多かった。詩吟の会を作ったときはその会長にされた。

 美唄東に転勤した翌年には、高等学校教職員組合の美唄支部支部長にさせられた。しかし、その当時の組合指導者の属する政党に加盟することをしなかったこともあり、一年で降ろされた。これはやれやれといった感じだった。そのあたりからいわば左右の中間に位置づけられるような存在になっていたように思う。教頭試験が始まったとき最初に推薦されたのが私だった。しかし、自信がなかったから断った。そのあと数年後に又勧められやむなく受けたけれど登用されませんでした。これが私にとってはありがたいことだったと思っている。

 札幌に転勤となって、二年目に団体事務局長にさせられ、学校開放公開講座の開設をやらされ、この活動は全国的にも注目を集めることとなった。そしてPTA活動では北海道高等学校PTA連絡協議会の事務局となりその事務一切を仕切ったりして、全国高等学校PTA連絡協議会から表彰を受けるPTAにした。

 手稲に住まって、間もなく何もわからないのに突然町内会の副会長に指名され、その時は2年で終わったがその数年後又副会長をやることになり、この時は4年ほどやったのだけれど、ほとんど私の発想で動いてくれ、今も語り草になるほど楽しい町内会活動ができた。そのあと会長になってほしいという要請はずいぶんあったけれど断りとおした。

 詩吟の会を作って活動しはじめて、手稲の文化協会に加盟し、数年後事務局長になってから、名前だけの文化協会になっていたのを建て直そうと思い、丁度有珠山の大噴火災害のチャリティ伝統芸能祭を企画し大成功させ、それを契機に、それまでコミュニティセンターでやっていた手稲文化祭を,区民センターでやれるように区長交渉をして実現した。丁度その時、指定管理者制度が出来、やっと文化協会独自で開催することができていた手稲文化祭が、区民センター使用料全額負担ということになり、かなり激しい区との交渉をやり、結果として現在の手稲文化祭に落ち着いたのだけれど、必ずしもいまその時約束した方向には進まず、違う方向に向いている感がある。それ以外にも文化協会独自の活動として、伝統芸能祭を発展的に解消し「舞踊の集い」をたちあげ、「年忘れ演芸大会」「チャリティカラオケフェスティバル」を立ち上げた。

 又、詩吟では 象堂流に所属して40名の会員を集めていた。故あって 象堂流を退会していまの「碌峭会」を立ち上げ、北詩連に加盟した。その中で西支部の総務として5年ほど西支部の運営にかかわった。又会を設立してから毎年「交歓吟詠会」を開催していて、去年30周年記念大会を盛大に開催することができた。

 こんなことを、拾い集めてみると、まんざら指導力がないわけでもなかったのかとおもうのだけれど、たまたまそんな位置に自分が置かれ、その仕事を自分なりの展望を持ってやりとおしただけのことだったといえるのかもしれない。

 今も週5日、詩吟の教室を教えている。これは指導力とは関係ないかもしれない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする