釧路の夕焼けは{日本一}であると、街の人たちは前からよく自慢していますが、
確かにそう思います。
道内のほかのところはほとんど知らないので、とやかく云うのは憚られますが、とにかく釧路の幣舞橋から見る夕焼けには、まったく言葉は要りません。
幣舞橋 ※ この写真は、釧路市のホームページのものです。
ただただわれを忘れて見入ってしまいます。とは云うものの、この幣舞橋からの夕やかけは、これまでにたったの一度きりのことです。
それは所用で南大通りへ行っての帰りのことで、一瞬どうしようかと迷ったのですが、こんな素晴らしい光景に出合えるのはめったに無いことと、直ぐさま橋の袂の駐車場を入れて橋に戻ったのです。
このとき写真を撮って置けば良かったなどと、それは今になって想うことですが、そのころはブログおろかパソコンさえ知らず、またデジカメなんて物もまったく考えられない時代でした。
そしてその後ブログを始めてからは、花の季節が済んだ後夕焼けを追いかけて、出歩くようになりました。
もちろん幣舞橋からや米町公園からの夕焼けが、一番の目当てだったのですが、体力と視力の問題から、主に近場の河畔をぶらついて居るわけです。
川面に映える夕焼けもまんざら捨てたものではなく、それなりに気に入っているわけで、窓から眺める空が茜色に染まり始めると、家にじっとして居られません。
しかし午後からは、あまり身体を動かせなくなりますので、車が停まって居られる場所に限られます。
それで家の近くの堤防とか、もう少し川上の河畔の駐車場に向かうのですが、
道路が混んでいる時には日没に間に合わず、無駄足となりがっかりしてもどることも少なくありません。
ですから、それぞれ年度の違いはあっても、写す場所がだいたい同じですから、似たりよったりの写真になってしまいます。
それにしても夕焼けは、どうしてこんなに人を惹きつけるのでしょうか。
夕焼けのあの茜色には、感動を与えるような不思議な力、言葉では表せない何かが在るのでしょうね。
早めに家を出た時には、そんなことに色々と想いをめぐらしながら、夕焼けが始まるのを、車内でじっと待つこともあるのです。
家の二階の部屋から見た夕焼け
同じく家の居間から
仁々志別川の堤防道路から日本製紙工場上空
新釧路川の左岸鶴見橋の川上から
上と同じく鳥取橋下の左岸から
先日の三日月・金星・木星の天体ショー
確かにそう思います。
道内のほかのところはほとんど知らないので、とやかく云うのは憚られますが、とにかく釧路の幣舞橋から見る夕焼けには、まったく言葉は要りません。
幣舞橋 ※ この写真は、釧路市のホームページのものです。
ただただわれを忘れて見入ってしまいます。とは云うものの、この幣舞橋からの夕やかけは、これまでにたったの一度きりのことです。
それは所用で南大通りへ行っての帰りのことで、一瞬どうしようかと迷ったのですが、こんな素晴らしい光景に出合えるのはめったに無いことと、直ぐさま橋の袂の駐車場を入れて橋に戻ったのです。
このとき写真を撮って置けば良かったなどと、それは今になって想うことですが、そのころはブログおろかパソコンさえ知らず、またデジカメなんて物もまったく考えられない時代でした。
そしてその後ブログを始めてからは、花の季節が済んだ後夕焼けを追いかけて、出歩くようになりました。
もちろん幣舞橋からや米町公園からの夕焼けが、一番の目当てだったのですが、体力と視力の問題から、主に近場の河畔をぶらついて居るわけです。
川面に映える夕焼けもまんざら捨てたものではなく、それなりに気に入っているわけで、窓から眺める空が茜色に染まり始めると、家にじっとして居られません。
しかし午後からは、あまり身体を動かせなくなりますので、車が停まって居られる場所に限られます。
それで家の近くの堤防とか、もう少し川上の河畔の駐車場に向かうのですが、
道路が混んでいる時には日没に間に合わず、無駄足となりがっかりしてもどることも少なくありません。
ですから、それぞれ年度の違いはあっても、写す場所がだいたい同じですから、似たりよったりの写真になってしまいます。
それにしても夕焼けは、どうしてこんなに人を惹きつけるのでしょうか。
夕焼けのあの茜色には、感動を与えるような不思議な力、言葉では表せない何かが在るのでしょうね。
早めに家を出た時には、そんなことに色々と想いをめぐらしながら、夕焼けが始まるのを、車内でじっと待つこともあるのです。
家の二階の部屋から見た夕焼け
同じく家の居間から
仁々志別川の堤防道路から日本製紙工場上空
新釧路川の左岸鶴見橋の川上から
上と同じく鳥取橋下の左岸から
先日の三日月・金星・木星の天体ショー
何故、私達は入り日に惹かれるのでしょうか。この問に答えるのは非常に難しい。朝日は希望を抱かせるが、入り日は来し方を思い起こさせるのだと、昔考えたことがあります。ですから、入り日の良さを理解するにはそれ相応の年齢に達していないと駄目だと思ったことがあります。
私も故郷を思う時に必ず釧路の夕焼けが入っています。
私の場合は、くすり橋から眺める夕焼けでした。
高校、大学と毎日、この橋を通っていましたからね。
こちらに来ても随分と周囲の人に自慢して言ったものですが、やはり実際に見てないが故に共感が、もう一つです。
こうしての画面だと又違うのでしょうがね。
実際を知って、又こうして画面でみると実際が蘇えってくるような脳の構造も不思議だなーと思いました。
という訳で、懐かしい自慢の情景画面に久し振りご対面の感です。
有難うございます。
天体ショーの写真を褒めていただきとても嬉しいです。Poloさんのお言葉だけに、その嬉しさは格別です。
一般的には御来迎に尊ぶようですが、私は夕焼けの何か儚さを秘めた物悲しさに惹かれてしまうのです。
Poloさんの仰るように、それも年相応の感慨なのでしょうね。
これからは、冬の夕焼けのその物凄さが見ものになりますから、それを追い駆けることが多くなりそうです。
おっしゃるとおり、夕焼けには望郷に繋がる何かがありますね。
またこれは私だけのことなのでしょうが・・・すごい夕焼けを見ていると、人類発祥の地だとされているアフリカの沙漠を、折からの夕焼けに染まりながら進む母子の姿を描いてしまいます。
おそらく昔読んだことのある記事、アフリカの砂漠で発見された母と子の足跡のが・・・、今なお印象深くインプットされているからでしょう。
夕方の久寿里橋を通ることは滅多ないのですが、そこからの眺めもきっと良いのでしょうね。
今度は折を見て一度行って見たいと思います。