昭和ひとケタ樺太生まれ

70代の「じゃこしか(麝香鹿)爺さん」が日々の雑感や思い出話をマイペースで綴ります。

元職場の同志、Kの死を悼む

2006-03-02 18:05:33 | 日々の雑記
 Kの訃報を知ったのは、3月1日の朝の8時だった。現役引退後の起床時間は大体8時半過ぎが普通でだったから、8時と云いばまだ完全に床の中での眠りの最中である。
 同じ現役時代の同僚だったNから電話で起こされ、Kの死亡を知らされたのである。K とは現役引退後も何か在れば互いに連絡を取り合って来た仲間である。KともNとも知り合ってから、かれこれ40年ほどにもなる間柄である。
 約40年前のこと、市のモデル事業の一環として企業化された、水産製造業協同組合に中途採用された時、そこの社宅が隣り合わせであった事から、長い付き合いが始まった。彼は1個年上の昭和6年生まれだった。彼が製造で私が事務だったが、同年輩で家が隣り合わせと云うことで良く気が合った。
 
 私の知るKはとにかく頑張屋であった。当時の協同組合はモデル事業として設立されたばかりの頃で、一地方企業が少しでも早く全国区に名を挙げようとしていた。労働基準法などは名目ばかりで、土曜日日曜日の区別などは無く、毎日の早出残業は当り前だった。製造部営業部職員は朝一番の市場出荷のために3時起きは日常がったし、私の場合も事務職員として採用されはしたが、朝の出荷要員として駆り出されて5時には出社していた。
 Kの場合は、製造職員でありながら運転免許を持つ上に、前職が組合員の個人企業時代の住み込み職人で、各組合員の売店事情に明るいことから朝の出荷時には手伝っていた。私も男手は幾ら在っても不足しがちな、朝市(早朝の市場)への配達に駆り出されていたのである。

 こうした労苦が報われて、道内はもとより関東関西方面の量販店などからの引き合いも出始め、曲がりなりにも念願の全国区入りが早々と果たされた。
 当時のKもNも私たちは創業時代の同志だったのである。私たちは一つの目的に向かってのリーダーを自負していた。決して上から言われて動いた訳で無く、ただただお互い意気を感じ合い、ひたすら燃え続けていただけである。だから当然心身ともに酷使の連続だった。その挙句の深酒がKの命取りの主因かもしれなかった。
 Kの直接の死因は「胆管ガン」だったが、それが全身に転移していたと言うことだった。

 共に引退した後は、Kは持ち前の世話好きから町内会の役員や地区の老人クラブの会長として、幅広く活躍して親しまれていた。また彼の家族思い特にその子煩悩ぶりは知らぬ者が居ないほどで、孫が生まれてからの好々爺ぶりもまた有名であった。
 「俺の命が家族に役立つのなら、何時でも投げ出す用意はあるし、命は惜しくも悔いも無い」
と云うのが、彼の日頃からの口癖であった。一男一女のお子さんは立派に成人され、3人のお孫さんに囲まれての楽しい老後は、これからのはずだったのである。それだけに彼の75歳を目前にしての死は余りにも速すぎたと残念でならない。

 その彼が死んだ日の朝方に、私の夢の中に顔を見せてくれた。彼が入院していることなど少しも知らなかった。たまたま買い物途中で彼の家が近い幹線道路を通った時にそれを思い出し、何気なく老妻にそのKの夢のことを話してのだが、彼は一体私に何が言いたかったのか・・・何故元気な内に会って置かなかったのかと悔やまれて仕方が無い。ご苦労さん安らかに永眠下さいと、合掌するばかりです。