このような記事をここに載せたからといって、私は決して好戦家でも無く、また戦争を肯定する者ではありません。むしろ厭戦乃至は反戦主義であり平和主義者を任じております。
なお私が尊敬する人物の中に、インド独立の父マハトマ・ガンジーが居り、翁の非暴力運動とその主義生き様に憧れてもおります。
唯この記事は自分史を纏めるに当って、避けて通れない少年期ことであり、それがどのような時代であったのか、そしてその背景に在るものは如何なるものであったのかを、様々に錯綜する記憶を掘り起こして、自分なりに書き綴ってみただけのことです。
昭和17年から18年の頃は、太平洋戦争の真っ只中で、まだまだ日本軍にも勢いが在った頃だったと思います。当時の少年達は、学業の成績や体格に関係無く、予科練(海軍飛行予科練習生)に憧れていたのです。特に当時の英雄・撃墜王軍神として全国民に崇められていた「加藤隼戦闘隊長」が少年誰しもの目標でした。
今のように戦争の不条理や悲惨さが、直接リアルタイムで視られる時代で無かったから、景気付けだけの大本営発表を信ずる他無く、少年達は皆斉しく」ゼロ戦・隼」などの戦闘機搭乗員を夢見ていたのです。
私もそうした数多くの少年達の一人でした。学業はまずまずでしたが、体格の方は悲しいかな、どう贔屓目で見てもクラスの中ほどでした。その上大きな難点は弱視で、この事では事ある毎に惨めさを味わい続けておりました。
しかし普段の私はそんなことにはお構い無しに、また些かもめげること無しに、クラスの仲間や家の近所の遊び仲間と共に、遊びの中でさえも身体の鍛錬に励んだものです。私はこの時に、誰よりも先に鉄棒(子どもの頃は機械体操と呼んでいた)の「蹴上がり」を覚えました。その上暇さえあれば仲間を集め、戦闘機操縦を模倣し、ゼロ戦とグラマンに区分けして、空中戦ごっこに夢中になっていたのです。
今にして想えば終戦が何かも、あの純粋な少年達の夢さえも一気に粉砕して仕舞ったのです。何処の国の同じでしょうが、少年達はある種のマインドコントロールの中にあるのだと思います。それが解かれた時の空しさと、180度変節する大人たちへの戸惑いと不信感で、まるで痴呆のように日々が続きました。
しかし私の場合は、その当時港湾の守備隊要員だった父が、ソ連軍が侵攻して来た終戦の日に死亡した事もあって、生活環境の激変して生活そのものが大きく変わって仕舞ったのです。
その後のソ連軍統治によるどさくさの下では、軍国少年の華々しい予科練の夢、ゼロ戦や隼の搭乗員の夢などは跡形も無く消え果て、子ども大人の区別無く、戦勝国ソ連軍に負い回される日々が始まったのでした。
次は今でも時折り夢に出て来る「若鷲の歌」の一番の歌詞です。
♪ 若い血潮の 予科練の
七つボタンは 桜にいかり
今日も飛ぶ飛ぶ 霞ヶ浦にや
でかい希望の 雲が湧く