昭和ひとケタ樺太生まれ

70代の「じゃこしか(麝香鹿)爺さん」が日々の雑感や思い出話をマイペースで綴ります。

じゃこしかの徒然なる自分史より

2006-03-19 18:42:51 | じゃこしか爺さんの想い出話
  ・・・初めに・・・
ふとした事で引いた風邪が、本はと云いば自分の油断からのことながら、約1ヶ月を経て漸く元に戻った感じである。この間通院は三度、挙句の果てに点滴まで受けるに至った。良く数えたら通院は四度だった。薬の副作用の所為か、シャックリが一晩寝かせて呉れなかった。初めは
 「シャックリくらいで病院などへは、恥ずかしくて行けるか」
と我を張って居たのだが、余りの切なさに閉院ギリギリに駆け込んでいた。

 ブログ更新は気力の萎えから滞りがちになり、遂には何もかも億劫になり、時折り除くのがやっとの思いだった。ずうっと休んでいたにも関わらず、10日も経った記事に寄せてくれるコメントは唯々有難く読ませて頂いた。

 この不測の病の期間を唯徒に無為に過ごしていた訳でも無く、出歩くことの少ない冬の間に、己の生い立ちを纏めてみたいと思っていたこともあって、この風邪の期間身体が元に戻るまでの間を利用して、見よう見まねの自分なりの自分史を纏めていた次第です。
 その中から余りにも卑近な事は除き、一般的と思われるものの中で、または許される範囲で、もとより取るに足らない平々凡々と過ごして来た70余年の生涯の一端を、今後折を見てブログに載せてゆきたいと思う次第です。

             
           < 少年の日の挫折・旧制中学受験 >

 それは終戦(太平洋戦争)年の三月初めの頃でした。私はちょうど国民学校の初等科六年生で、中等学校(旧制中学校)の受験準備の真っ最中でした。
 その頃私は毎日のように、正規の授業が済んだ後の放課後、クラスの受験希望者と共に補修授業を受けておりました。

 当時の旧制中学とは、今の高校受験のようなものと思われますが、ただ受験者数は極端に少なく、一クラス六十人中一割程度です。しかもその中学校の数も少なく、詳しい事は余り知りませんが、樺太内でもせいぜい5~6箇所しかなかった筈です。ですから若し合格したとしても、学校の在る郡部の拠点都市への通学は無理で、寄宿舎生活は避けられないことでした。

 或る日のこと、その日の補修担当教師が急用で突然抜け、急遽自習時間に切り替えられました。教師がいざ不在となれば今までの張り詰めた静寂さは、ものの一分保たれず、立ち上がって歩き回る者や、仲の良い者同士で声高に話し込んだり、中には内緒で持ち込んだ菓子類を分け合って食べたりする者までが出て来て、蜂の巣を突っついたような騒がしさになってしまいました。
 
 教室内で騒いでいるだけでは物足りず、やがて3~4人が教室を抜け出して運動場へ向かうと、後を追う者たちが続き一気に半分ほどが運動場を走り回り始めたのです。まるで枷の外された放れ馬のような激しさでした。
 当然私もその中の一人で、追いつ追われつの駆けっこに夢中になっていました。樺太の三月は真冬並に気温が下がります。全く運の悪い時は如何仕様も無いもので、掃除後のこぼれた水が凍っていた場所で、足を滑らせて転んでしまったのです。
 右腕に生じた突然の激痛に呻きながら転げまわる私に、初めは呆気にとられていた周りの者たちは、漸くことの重大さに気付いようです。知らせで駆けつけた教師の指示で右腕の袖を捲り上げると、肘から手首の中間で「くの字型」に外側に曲がっていました。

 直ぐに学校下の街の整骨院に連れて行かれましたが、やはり完全に骨折していました。ただ矯正する時の痛さは想像を絶するものです。
 何しろ二人がかりで押さえて二人がかりで引っ張るのですから・・・思わず泣き声を揚げてしまいました。

 しかしその時の私にとっては、骨折の痛さよりももっと大きな痛手は、利き腕の右手の骨折でした。受験の筆記試験には利き腕は欠かすこと出来ません。それに受験日までには二十日ほどしか残っていませんでした。
 直ちに左手での筆記練習始めましたが、そんなに簡単なものでなく随分苦労しました。何とか受験日までに難しい漢字などはともかく、ある程度の文章は平仮名で書けるほどになっていました。

 そして受験日当日勇んで試験会場に臨んだものの、思いもよらない大きな障害が待っていたのです。
 その頃は戦争末期の所為で、戦時色が一段と濃いご時世でした。例え中学受験とは言いながらも、文武両道が一番とされていて、その中でもどちらかと言うと身体が重要視されていた時代で、試験科目中三分二は体育試験でした。

 その時私は右腕を三角巾で吊っていましたから、試験科目中七割を占める体力測定試験は全て回避するしか方法は無く、仮に学科試験が満点だったとしても、その受験の結果は明瞭で、その場で自覚し覚悟を決めたほどです。
 その後十日ほどして学校に齎された受験結果は、誰もが思った通りでした。この時ほど運が悪いと思ったけれども、受験失敗と悔しさと恥ずかしさで、泣きたい思いで一杯でした。ただその時の受験で失敗した他の一人が、忍び泣きをし始めたのを見て、自分だけは泣くまいと必至に耐えていました。しかし下校して母に報告後は堪え切れずに、母に抱き付き思い切り泣いたものです。その時母が言葉は今でもはっきりと覚えております。
 「なぁに失敗は成功の素・・・来年頑張りなさい」
母のその励ましに「来年こそ・・・」はの私の決意は、その年の八月の十五日に、長くて辛かった戦争は終わり、戦後のどさくさでその後の就学も儘成らなくなり、更に引き揚げ後は少しでも家計の足しにと、親戚の家の手伝いや、農家へ奉公に出た後の三菱の炭砿への本格的就職で、母の云ってくれた励ましの来年の受験は永久に来なかったのです。