昭和ひとケタ樺太生まれ

70代の「じゃこしか(麝香鹿)爺さん」が日々の雑感や思い出話をマイペースで綴ります。

予科練・じゃこしかの少年期より

2006-03-25 18:43:02 | じゃこしか爺さんの想い出話
 
 このような記事をここに載せたからといって、私は決して好戦家でも無く、また戦争を肯定する者ではありません。むしろ厭戦乃至は反戦主義であり平和主義者を任じております。
 なお私が尊敬する人物の中に、インド独立の父マハトマ・ガンジーが居り、翁の非暴力運動とその主義生き様に憧れてもおります。

 唯この記事は自分史を纏めるに当って、避けて通れない少年期ことであり、それがどのような時代であったのか、そしてその背景に在るものは如何なるものであったのかを、様々に錯綜する記憶を掘り起こして、自分なりに書き綴ってみただけのことです。

 昭和17年から18年の頃は、太平洋戦争の真っ只中で、まだまだ日本軍にも勢いが在った頃だったと思います。当時の少年達は、学業の成績や体格に関係無く、予科練(海軍飛行予科練習生)に憧れていたのです。特に当時の英雄・撃墜王軍神として全国民に崇められていた「加藤隼戦闘隊長」が少年誰しもの目標でした。

 今のように戦争の不条理や悲惨さが、直接リアルタイムで視られる時代で無かったから、景気付けだけの大本営発表を信ずる他無く、少年達は皆斉しく」ゼロ戦・隼」などの戦闘機搭乗員を夢見ていたのです。
 私もそうした数多くの少年達の一人でした。学業はまずまずでしたが、体格の方は悲しいかな、どう贔屓目で見てもクラスの中ほどでした。その上大きな難点は弱視で、この事では事ある毎に惨めさを味わい続けておりました。
 しかし普段の私はそんなことにはお構い無しに、また些かもめげること無しに、クラスの仲間や家の近所の遊び仲間と共に、遊びの中でさえも身体の鍛錬に励んだものです。私はこの時に、誰よりも先に鉄棒(子どもの頃は機械体操と呼んでいた)の「蹴上がり」を覚えました。その上暇さえあれば仲間を集め、戦闘機操縦を模倣し、ゼロ戦とグラマンに区分けして、空中戦ごっこに夢中になっていたのです。

 今にして想えば終戦が何かも、あの純粋な少年達の夢さえも一気に粉砕して仕舞ったのです。何処の国の同じでしょうが、少年達はある種のマインドコントロールの中にあるのだと思います。それが解かれた時の空しさと、180度変節する大人たちへの戸惑いと不信感で、まるで痴呆のように日々が続きました。   
 しかし私の場合は、その当時港湾の守備隊要員だった父が、ソ連軍が侵攻して来た終戦の日に死亡した事もあって、生活環境の激変して生活そのものが大きく変わって仕舞ったのです。

 その後のソ連軍統治によるどさくさの下では、軍国少年の華々しい予科練の夢、ゼロ戦や隼の搭乗員の夢などは跡形も無く消え果て、子ども大人の区別無く、戦勝国ソ連軍に負い回される日々が始まったのでした。

 次は今でも時折り夢に出て来る「若鷲の歌」の一番の歌詞です。
     
     ♪ 若い血潮の 予科練の
       七つボタンは 桜にいかり
       今日も飛ぶ飛ぶ 霞ヶ浦にや
       でかい希望の 雲が湧く


最新の画像もっと見る

10 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
じゃこしかさん、こんばんは (polo181)
2006-03-25 20:51:03
懐かしいなあ、予科練の歌。今でも歌えますよ。はっきり覚えています。彼等の制服が格好良くて、それに憧れましたね。私は、消し炭で隣のお屋敷の白壁に”陸軍大将○○!”と大書して、父親と担任の先生に叱られたことを覚えています。大まじめに自分の名前を書いて、将来は是が非でも陸軍大将になろうと思っていました。それが、ある日突然、敗戦ですからね。拍子抜けとはあのことです。
返信する
poloさんこんにちは。 (じゃこしか)
2006-03-26 12:25:26
 何時もお早いコメントをお寄せ頂き有難うございます。

 本当は戦争を賛美するようで、掲載を迷っていたのですが、当時を懐かしむと同時にその背景に潜むものを、しっかりと見極める為にも、そして二度と過ちを犯さない為にも、敢えて掲載したのです。
返信する
じゃこしかさん、こんにちは (polo181)
2006-03-26 15:33:00
当時は”一億玉砕””撃ちてし止まん”の精神を教育されたわけだから、それはそれとして、当時の気持ちを正直に表して良いと思います。なにも、それによって”戦争賛美”などと思う人はいないでしょう。思いっきり書いてください。楽しみにしていますよ。
返信する
こんばんわ (ジュンク堂-ジュンコ)
2006-03-26 21:31:31
私の父親は昭和21年・戦後の生まれですが、父親の世代も子供の頃は軍隊に憧れたというのは聞いたことがあります。制服に憧れた、というのも。

戦後しばらくは、軍に対する憧れというのは続いてたんでしょうか。



私の父親の世代でもそうだったんだから、じゃこしかさんの世代なら、そりゃあみんな真剣に憧れてただろうな、と思います。

それが解かれて、大人たちは180度変節、とは凄まじいですね。

思えばじゃこしかさんの世代は、少年期に価値観が180度変わるという、人類史上でも稀に見る経験をした世代なんですね。



続きを楽しみにしてます。

日々の雑感も、楽しく拝見してます。
返信する
エンジンの音、轟々と♪ (雪の字)
2006-03-26 23:11:03
現在の子供達が、将来の夢を聞かれて「スポーツ選手!」「芸能人!」と答えるのと同じ感覚だったのでしょうか。

きっと、少年らしい、純真な憧れの対象だったのでしょうね。



事ある毎に戦争の悲惨さについて語られている現在とて、子供にどれほど戦争の何たるかが理解出来るでしょうか。大人と言われる年齢の私も、本当に理解しているのかと問われたならば、恥ずかしながら怪しい物です。

まして当時がそういう時代であったならば、子供達が軍人に憧れたと言うのは、何ら不思議ではありません。



過去の出来事や思いを語り継いで行く事は、本当に大切な事だと思います。それが現在の価値観と異なっていたとしても、事実を伝える事は戦争賛美にはならないと思います。



じゃこしか様の貴重な体験、これからも期待しております。

長文にて失礼致しました。
返信する
英雄即ち戦犯 (南無)
2006-03-27 14:38:10
こんにちは。

私の父は大正11年生まれですからズバリ軍人でした。それも予科練上がり海軍の飛行機乗りでした。終戦時の階級は海軍少尉だったみたいです。戦争の話は酔ったときによく聞かされました。ラバウルを基地にしてあちこちと飛んでいたみたいです。シドニー爆撃の様子もよく聞かされました。戦後まもなく戦犯として収監された時期があったようですが、それについては決して口を開くことはありませんでした。余程辛い思いをしたのだと今の私であれば分かります。何しろ英雄が戦犯でしかないのですからね。戦後、隊で生き残った者が3人いて時々会いに行っていたり、仲間の軍人恩給等の証明に飛び回っていたりした父の姿が記憶にあります。父が亡くなってから40年になります。
返信する
poloさんこんにちは (じゃこしか)
2006-03-27 16:23:14
 重ねてのコメント感謝です。

Poloさんの励ましのお言葉を力強く思い、出来るだけ続けてゆきたい思いが一杯です。

 宜しくお願い致します。

返信する
大人たちの変節 (じゃこしか)
2006-03-27 16:54:48
 ジュンク堂-ジュンコさまこんにちは。



 何時の時代でもまた古今東西を問わず、とかく子どもは少なからず時代の英雄に憧れるものなのでしょう。ことの善悪など分からぬままにです。



 戦後の大人たちに良く見られた変節とは、鬼畜米英が一夜にして有り難い民主主義の使者となることで、そのご都合主義と云うか日和見主義には、子供心にも戸惑ったものです。



 大分前のことですが、深夜のラジオで聴いた漫才のやりとりの言葉

「日本が民主主義の国だって?そんな事は無い、日本は事勿れ主義の国だよ!」

を、今改めて思い出しております。



 このブログを初めてもう直ぐ三年目に入ります。暖かく成って外歩きが出来る時候になりましたら、季節毎の雑感を混ぜ乍ら、細々ながらも今しばらく続けたいと思っております。

返信する
雪の字今晩は (じゃこしか)
2006-03-27 20:41:43
 あの当時の時代背景を考えれば、無垢な子どもたちにとって、国の礎としての英雄に、ひたむきに憧れるのは至極当然の事だったのでしょう。そう云う点でのマインドコントートロール本当に怖いものだと思います。



 当時の戦争体験と云っても、私の場合はまだ十二~三歳の子どもでしたから、表面的なこととか或いは他人からの又聞きが多いので、本当のことであったのか如何か確信出来ませんが、出来るだけ自分が直接体験したことを主に伝えてゆきたいと思います。



 若しあの戦争が無かったら、両親は40歳や50歳の若さで、また次兄三兄が20歳前半で他界する事は無かったでしょう。今や全て老いの繰り言ですね。

返信する
南無さん今晩は (じゃこしか)
2006-03-27 21:00:08
 南無さんからのコメントを頂けるなんて、まさに光栄そのものです。本当に有難うございます。

 お父上が尉官だったとは凄いことだと思います。上等兵や伍長さえも身内にはおろか、当時の町内でも見掛けませんでした。



 私の兄は志願で応召して直ぐにシベリアのナオトカに抑留されました。生前にはやはり抑留時代のことは話して呉れませんでした。収監や抑留のことなどは、口に出来ないほど忌まわしくて屈辱的なことだったのでしょう。

返信する

コメントを投稿