昭和ひとケタ樺太生まれ

70代の「じゃこしか(麝香鹿)爺さん」が日々の雑感や思い出話をマイペースで綴ります。

兄弟会

2006-06-13 20:58:45 | 日々の雑記
 この度週末を利用して兄弟の旅行会を行った。道内に住むきょうだい四人と、男兄弟の夫々の連合いを合わせて六人である。
 これまでにも両親や兄たちの回忌法要の都度、きょうだいで近場の温泉地へ出掛けていたが、今回のように「兄弟会」と正式に名付けて、集まったのは今回が初めてのことである。

 共に七十歳を過ぎた現在、元気な内に年に一度は、夫々の地で会うことにしようとの話がもとで、とんとんと話が煮詰まり今回の運びとなった。そして初回のきょうだい会は、札幌の弟が幹事で羊蹄山の麓に在る「名水亭」で二泊することになった。
 先ず札幌駅に集まり、ホテルの専用バスで出掛けた。せっかくの初会のきょうだい会だったが、天候が悪く途中はずうっと雨で、展望を期待していた中山峠は霧に閉ざされ、更に所々の日陰には未だに雪が残っていた。

 札幌から近いうえにホテルのバスが利用できる温泉だけに、とかく混雑が心配されたが、折からの「よさこいソウラン祭り」が幸いして空いていた。食事も入浴ものんびりと楽しむ事が出来た。
評判の「三大蟹の食べ放題」を連夜堪能し、更に近くに建つ別館巡りと岩盤風呂を初 体験して来た。
 久々のきょうだいが集まり、食事にカラオケにと心ゆくまで楽しみ、誠に有意義であった。なお来年は私が幹事役となり釧路で行うことに決った。

中山峠の展望も生憎の霧で覆われていた。

もう既に6月も半ばと言うのに雪があちこちに残っていた。

鄙びて趣きのある別館(ほろほろ山荘)

山荘には自慢の岩盤風呂も在るが、これもその一つの岩風呂

第二別館の敷地ある建つ教会

折り良く一組の結婚式があって、清楚な花嫁さんが見られた。




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6 コメント

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じゃこしかさん、こんばんは (polo181)
2006-06-13 21:19:59
お帰りなさい!良かったですね。素敵なホテルに2泊もできて、それもカニも食べ放題?これまたたまげるわ。4人のきょうだいが仲良く集い会食や談笑をして、アッという間のことでしたでしょう。来年の幹事はじゃこしかさん。皆さんに喜んで貰うために、一肌脱がないといけませんね。私はきょうだい3人ですが、妹はカナダだから、合うことができません。兄とは法事などで会いますが。
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poloさんこんにちは (じゃこしか)
2006-06-15 15:19:24
 道内の兄弟たちと会うのは約3年ぶりでした。それだけに盛り上がり寝不足でした。



 水産都市の釧路市に住みながら、カニ類は高価でなかなか食べられません。卑しいようでしたが、何年分も合わせて食い溜めをして来ました。



 来年は本州の妹も参加するでしょうから、今から楽しみです。
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樺太で検索したら・・・はじめまして (北の大地の かあちゃん)
2006-06-17 02:01:05
初めまして北海道道東からのコメントです。父や父の兄妹、祖父全員樺太出身です。

が・・先週父が天国へ急に逝ってしまいました。

父は6人兄妹の3番目で70才でしたが

ずでに両親、兄妹とも亡くなってまして

唯一父が残っていました。数年前に

心臓のバイパス手術を受けましたが退院後

仕事が出来るまで元気になり、楽しく人生

送っておりましたが・・・1日会いに行ったのが

まさか、最後になるなんて思いもよりませんでした。すごく元気で9日も会う約束をしてたのに

警察からの電話で一人暮らししてた父の死を

知らされて、とてもショックを受けました。

父達一家は樺太の北部敷香で暮らしてました。

父を懐かしく思うあまりに、こちらへ

お邪魔してしまいました。樺太時代の話を

もっと聞いておくべきだったと後悔してます。
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初めまして (じゃこしか)
2006-06-17 14:27:26
 北の大地のかあちゃん様初めまして、コメント有難うございます。



 ご尊父様方が樺太のご出身だそうで、とても懐かしく思います。

敷香は東側ですね、私の生まれ育ったのは、ちょうど正反対側の西海岸にあります。

 樺太時代の事は色々と懐かしくて、過去のブログにも載せております。



 また74歳を過ぎた老人ですが、今後とも宜しくお願い致します。
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父より年上の方だったのですね (北のかあちゃん)
2006-06-18 22:16:54
すごいですね~70代でパソコンを使いこなし

写真も、とても上手ですね~

(私は、写真関係の仕事してます)

そうですか~父の暮らしていた場所の正反対

なんですね、手元に樺太の地図がありますので

私の祖母がロシア人だったために、一家全員

終戦2ヶ月前に突然日本軍よって上喜多内の

収容所送りになりました。外国人専用の

収容所です。生きて日本に帰れないと

父は思ったと、昨年初めてこの話を

聞きました。祖母がロシア人だったのは、名前も

違いますし、私を育ててくれたので

感謝してますよ~今でも、父も亡くなったので

今は、家族と父全員の位牌を守る事になりました。



さっそく仏壇を買い直し2日がかりで

綺麗に祖父母、叔父のお引っ越しが終わりまして

一段落つきました。まだ亡くなったという気が

ぜず、旅行にでも行ってる、ような気分です。

49日が終わるまで、自由に飛び歩いてるでしょう

そうだ~ベリノコフさんのパン屋さん知ってますか?

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北のかあちゃん様こんにちは (じゃこしか)
2006-06-19 12:24:24
 再度のコメント有難うございます。

 パソコンは70歳の手習いで始めた、まだまだ駆け出しの未熟者です。



 私が住んで居た塔路町(炭鉱町)は、北緯47度以北の国境に近い所でした。

 忘れもしません、終戦時に港湾守備に就いていた民間人の父が行く不明、その後の暮らしがまさに180度転換しました。



 現在私なりに「自分史」を纏めつつあります。当時の苦しかった事など思い返しております。今はただただ懐かしいだけです。

 貴女様のお父上様も色々とご苦労なされたようですね。それにそのお父様がご急逝されたばかりとのこと、ご悲嘆の程を拝察しご冥福をお祈り致します。



 「ベリノコフのパン屋」さんは、分かりませんが、釧路市内のパン屋さんなのでしょうか。



 なお勝手な事ながら、17年の私のブログ記事「第60回の終戦記念日」を読んで戴ければ幸いです。貴女さまの想い出の足しにでも成ればと思います。
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