やはり買い物帰りのことでした。珍しく海霧が晴れて雲間に明るい青空さえ現れていましたから、久しぶりに花撮り歩きでも仕様かと、いつもの帰り道を迂回して、店の真向かいにある児童公園に向かいました。
しかしその公園の中の花壇にはこれと言った花はありませんでした。がっかりして帰りかけたときに眼に飛び込んで来たのが、反対側の住宅街の方向に咲くコスモスの花でした。
さっそく車で向かったところ、そこは垣根沿えに造られた花壇でした。おそらく近くの住民たちの手で造られた花壇なのでしょうが、そこの住民とおぼしき老人が傍に居て、カメラを手にした私に話しかけて来ました。
フレップというの知ってますか?
私は樺太生まれだから知ってますよ
そうかい・・・じゃ家の庭に今実が生ってるから・・・見るかい?
その家の塀の中へ案内されました。其処には懐かしいフレップの実が真っ赤に熟れて生っていました。
米さえろくに手に入らない戦後の私たち子供たちにとっては、貴重なお八つの一つでした。
おおげさながら本当に懐かしくて目頭が滲んで、暫くは撮影のことなど忘れ、呆然とその赤さに見入っていたほどです。
立場や環境が違っても同年輩同士のこと、暫くは戦後の貧しい生活話がもろ上がったのは、言うまでもありませんでした。
以下は、フレップについてパソコンで調べた一章です。
樺太の名物としてフレップがあります。フレップはアイヌ語で「赤いもの」を意味し内地ではコケモモに該当する赤い実です。
樺太の代名詞にも使われるほど樺太には沢山自生し秋の野は赤く染まったようです。
実は甘酸っぱく、お土産品としてフレップワイン・ジャム・ソーダ・羊羹などがあったそうです。
フレップの実
同 上
花壇の花
道内に住んでおります。
ハスカップは、知っていましたが
フレップ、苔桃を見たことがありません。
今月の俳句の課題がフレップ、苔桃で
ネット検索してお邪魔しました。
フレップは、アイヌ語だそうですね。
良い俳句が出来れば良いのですが・・
また、お邪魔します。
有り難うございました。
フレップは、私の樺太での体験からですが、二種類有りました。
もう70年ほど昔のことですから、記憶も定かではありませんが、
黒フレップと赤フレップで、それぞれ収穫の時期にも違っており、
黒いのは50センチから1メートル程の潅木で確か夏の初め頃で、
小さ目の黒ブドウに似ておりました。
それに食べると口が黒くなりました。
赤い方は20センチから30センチほどで、収穫期は秋でした。
保存も可能でフレップ酒も作れるとのことでした。
以上が今の私に残された記憶です。
私も俳句が好きで、これまでにも折々につれてそれなりに作って来ました。
是非拝見したいものです。どうぞ今後とも宜しくお願いいたします。
フレップの俳句五句ほど出来ました。
出来は、良くないのですが・・
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彩時記が私のブログです。
お暇なときにどうぞ。。
直ぐに拝見致したく思います。
恥じかしながら、私の愚作です。
*リストラの 身の上話や 落ち葉道
*排ガスの 地を這い流れ 冬に入る
ネット俳壇の横書きは、許容の状態だそうです。
強い芸術的主張がある場合、
敢えて分かち書きしたり、多行書きしたりもしますが、
俳句の修行の第一歩は、正しい表記から
・・・という事だそうです。受け売りですが
すみません。
*リストラの身の上話や落ち葉道
*排ガスの地を這い流れ冬に入る
本日は、小春日です。
私の俳句、短歌もそうですが、
それにパソコンも全て独学で覚えたものです。
とても良い勉強になりました。
なお昨夜りまど様のブログにお邪魔しましたが、最後の締めが分からず駄目でした。
勉強をし直して又窺います。
偶然ブログを発見し、樺太の記事懐かしく拝誦しました。
当方 終戦時国民学校一年生。 豊原に住んでいました。
生まれたところは大泊です。
フレップ懐かしいですね。 酸味の強い赤い実を口の周りを
真っ赤にして食べていた記憶がします。
フレップは故郷の懐かしい味覚です。
食べるのに夢中で、口や手先ばかりか服まで
汚して叱られた記憶が有ります。
大泊には行った事はありませんが、戦後学生
徴用で、真岡の在の鰊場へ徴用された折の帰りに
豊原まで足を延ばしたことがことがあります。
いずれもみんな懐かしい想い出です。
今後ともどうぞ宜しくお願い致します。
毎年夏には、ここから北海道、サハリンのクルーズ船が
出ます。 サハリンも近くなりました。 1992年にサハリン墓参団に交じって大泊、豊原を訪れ、昔の住まい跡を
訪れましたがさら地になっていました。 父は豊原師範
学校で英語を教えていました。 私達一家(父は残留)は
終戦の翌々日に大泊を離れ無事帰国できました。
じゃこしかさん一家は、22年まで樺太に残られたんですね。
本当にご苦労様でした。
良い所にお住まいですね。
樺太では塔路の炭鉱町で育ちました。
終戦時父は民間人ながら、徴用で港の守備に就き
そのまま帰って来ません。
ですから遺骨は有りません。長兄はシベリアに抑留、母は引き揚げなどの苦労の末に42歳で他界しました。
我が家の離散の不幸は、ソ連の不法な侵攻に始まりました。
未だにロシアは信用できません。
つまらぬ事を長々と・・・ご容赦下さい。