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マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

小長尾のタワミネさんの岳のぼり

2018年03月21日 09時11分45秒 | 曽爾村へ
昔は山仕事に忙しかった。

この日に集まると聞いていた場所はどこにあるのだろう。

曽爾村の大字小長尾(こながお)にやってきたもののすっかり記憶が薄れてしまって目的地に着かない。

前回に訪れたのはいつだったろうか。

翻ってみれば9年も前だった。

平成20年の4月20日は第三日曜日。

この日に集まった人は150人にも膨れ上がっていた。

場所は多輪峯(たわみね)の森。

この日より2週間前の7日は村の春祭り行事の集まりがあった。

川原、西出下、西出上、東出下、東出中、東出上の6木場(こば)組頭に村総代らが集まって多輪峯さんに参って神事をしていた。

神事に多輪峯講も参列する神社は多輪峯神社である。

うって変わったこの日は村人が春の季節を山に登って愉しむタワミネさんの岳のぼりである。

集まる会場は小長尾の人たちが憩いの場として利用できるよう開拓した地。

平成10年~12年にかけて県東部農林振興事務所林業振興課が整備した「多輪峰の森」の東側になるテレビ中継所の辺りに桜を植樹した場である。

会場は炎天下の広場。

今年の寒気は3月末まで居座った。

翌月の4月は温くなった日も何日かあったが、雨続きの日や曇天も。

すっきりしない日に4月に入っても金剛山に雪が積もったと伝えるニュースも届く。

室生や都祁辺りも雪が舞ったとFBの知人たちも報告していた。

昼間は20度前後にも上昇するが、朝の冷え込みが厳しい。

4月1日から連続6日間も一桁台の気温。

2日、3日はマイナスに近く気温は2度にもなったことがある。

気温が上昇した8日。

そのまま行くか、と思いきや、10日からは連続3日間も冬に逆戻り。

13日の朝は気温が4度。

何時まで経っても朝霜に悩まされる農家の人たち。

こういう年は何年かに一度のタイミングでやってくる。

そのような年は桜も含めて花の咲き具合がとても遅い。

地域によっては一週間どころか十日間の遅れもある。

9年前に訪れたときはほぼ満開だったが、この日に咲く桜の木は僅か。



かろうじて1本の桜の木の枝にへばりつくように咲いていたのが愛おしい。

岳のぼりに来る人たちは村の人たちだけでなく、この近くにある「クラインガルテン」の人たちもやってくる。

「クラインガルテン」は平成15年春に開園した滞在型市民農園は人気の場。

数年間の短期間しか利用できない入れ替わり制。

抽選で当たった人たちが町からやってきて農園作りに勤しんでいる。

その人たちは町の人。

広場からすぐ近くに鎮座する多輪峰神社に参ることはない。

参るのは39戸の小長尾住民。

かつては別の地にあったが、昭和9年に災難があったからここへ遷座した。

多輪峰講が信奉する神社。

山仕事をしている人たちが7日に参っていた。

山の仕事に山の安全を祈っていた。

7日は全国どこへ行っても山の神の祭りをしている。

7日は農休みというか、山の仕事を休む日であるという人たち。

かつて雪が降った年もあった。

多輪峰神社の前で相撲をとったこともある。

それは子どもころだと話す75歳の高齢者。

この下に土俵があったという。

その日は曽爾の力士がやってきた。

その時代にあった太い幹の山桜。

推奨された杉生産が盛んになって伐採した。

そのような古木はたくさんあった50年前のころであれば昭和40年代。

経済的にも価値のあった杉生産が盛んで潤った時代だったと回顧される。

4月7日は寒いから昼食と切り離して日曜日に移したのが、この日の岳のぼり。

「クラインガルテン」の人たちも参加できる地域のコミュニケーションの日に切り換えた。



神社に登る道に木で作った鳥居がある。

その前に立てた奉納幟は昭和9年4月7日に多輪峰講が寄進したもの。

10人の講中は夜にヤドとなる家に集まって般若心経を七巻申すお勤めをしていた。

今年は3人になったという講の集まりは総参りの会式である。

農繁期前の慰労はかつて4月3日の神武さんもあったという。

木で作った神社参りの階段を登る。



家族連れで参る人たちと遭遇する。

旦那さんは顔見知り。

お願いして家族で参る姿を撮らせてもらう。

多輪峰神社は小社。



榊を立ててイロバナも添えていた。

社に立てかけた竹に幣を挟んでいる。

これは4月7日の村の春祭り参った際に立てたもの。



次から次へと階段を登ってくる村の人がいる。

娘さんとともに手を合わす人もおれば、総代時代にずいぶんとお世話になったOさんも参拝される。



この日の岳のぼりに供えていたのは、前日にトーヤが作った「オゴク」。



充てる漢字は御御供であろう。

「オゴク」は粳米に糯米を挽いた米粉で作る。

その割合は作るトーヤ家によって異なっていたそうだ。

かつてはめいめいの家で作っていたが、今は村行事になったこともあって、材料の米粉は村費用で購入する。

買った米粉は湯で煮えさせて茹でる。

それを蒸す。

玄米餅も米粉にして混ぜたという人もいる。

できたオゴクは顎にへばりつくほどの柔らかさがある。

冷ましておいたら固くなる。

それを細く伸ばして包丁で切る。

切る時間帯は夜になる。

今年もまた、その年のトーヤ6組で作ったそうだ。

6組ということは木場(コバ)単位に選ばれた人たちであろう。

かつてゴクツキ(御供搗き)をしていたときの様相を話される。

お酒も入って「オゴク」を作る日は賑やかだった。

飲む量も増えて勢いが増す。

オーコで担いで運んでいた「オゴク」。

フゴに盛った「オゴク」を運ぶ。

その場に酔うた人がおった。

その人はフゴの中に入ってしもうた。

「おかあなれょー」とか言ったらしいが、聞き取ったメモが読み取り不能で誤っている可能性はあるが、記載することにした。

後々に考えてみれば「おかあなれょー」は「おっかねぇなー」のように思えた。

供えた「オゴク」の食べ方である。

一般的な食べ方は、ぜんざいに入れるか、焼いて砂糖醤油につけて食べるか、になるそうだ。

略式参拝されたら花見の会場に移動する。

すぐ近くにある広場が会場である。



前回もそうだったが、ここは鹿の生息地。

広場を見下ろす位置にあがれば、数日前に落とした鹿の糞が見つかる。

ブルーシートを広げたところに座る家族。

ざっと数えたら80人ほどにもなった。

半分のシートに空きがある。

前回に訪問した平成20年の4月20日の様相はほぼ満席だった。

びっしり埋まっていたが、今年は半数。



寒さ続きだったことも一因のようだが、この日は青空が広がり、心も晴れる快晴日。

実は、ここ5年間は雨天の関係で公民館に場を移して催していたそうだ。

こんな快晴になったら、実に気持ちが良い。

久しぶりに満喫する村の春祭り。

植樹した桜の花が満開だったらもっと良いのだが、快晴になっただけでも嬉しい憩いの場に会話が盛り上がる。



家族ごとに食べる手造り料理が美味しく見える。

会場に寛ぐ村の人たちと同じように花見の昼食をいただこうと思って、当地に来る際に立ち寄ったラ・ムー桜井店で売っていたおにぎりを買ってもってきた。

そうしたら、現総代のKさんが村の臨時販売店で売っていた手造りコンニャクをサービスしてくれた。

これがとても美味いのである。



美味い味噌は手造り味噌にある。

そのコンニャクを肴にスーパーラ・ムー桜井店で買ってきたおにぎりをいただく。



一つは丸い形の味飯煮玉子マヨ。

ネーミング通りの味付けご飯に煮玉子を正面に埋め込んでいる。

細めに切った海苔を巻いたおにぎりはマヨネーズも混ぜている。

一口、ほうばる。

おっ、これは美味いやんか、である。

意外性があったのか、とても驚きの旨み味。

郷土料理のイロゴハンまではいかないが、マヨネーズの味が効いて美味いのである。

もう一つは有明産海苔で包んだ味付牛肉おにぎり。

これ1個でナトリウムが394mg。

味飯煮玉子マヨの成分は控えなかったのでわからないが、味付牛肉の塩分含油量はおよそ1g。

三つ食べたら3g。

それがぎりぎりの線であるが、この日はコンニャクもあったので満腹状態。

翌朝の食事に食べたが、まったく美味くない。

一日経ったら賞味期限が切れたかのように思えた味であった。

会場で売っていた自家製味噌は「たわわ」の会こと、小長尾ゆず生産組合の人たちが作ったもの。

曽爾村産の自家製ゆずの皮を粉末状態に製品化したゆずパウダーを使用して作った手造り味噌。

これもまた製品化。



パック詰めして販売する「ゆず麹味噌」である。

他にも「ゆず胡椒入り味噌」もある。

いずれも串をさして作った田楽コンニャクの形で臨時販売していた。



一口食べて、これは美味い。

コンニャクの味も美味しいがそれ以上にコクを感じるゆず味噌。

香りが口いっぱいに広がった。

ちなみに「たわわ」の会の「たわわ」は柚子の実が、たわわに稔り、多くの人の輪を繋げ、みんなの笑顔を広げる・・ということのようだ。

この日の製品は未だ販売されていない。

いわば試験的製品を会場のみなさんに、先に味わっていただこうということのようだ。

来春、つまりは平成30年の春には販売されると思うので、是非、お試しくだされ。

岳のぼりの愉しみはもう一つある。

村の費用で賄う大抽選会である。

抽選会は食事を終えてゆっくり寛いだ時間帯に行われる。

空くじなしの大抽選会は予め番号札を入れた箱から取り出すことによって始まる。

外れクジの商品はテイッシュボックス。

我が家にとってはありがたい日用品である。

特等の商品は1本。

ティフアールハッピーセットを目指して発表されるクジ番号に耳を澄ませる。



1等は、トイレットペーパーが1ケースもある
2等が、調味料セットか、バスマットか。
3等は、カビキラー電動スプレーセットか、コロコロか。
4等は、キッチンペーパーか、トイレットペーパーか。それともバケツか、ファブリーズセットにするのか。
5等は、クイックルハンディか、食器洗剤か。それとも韓国のりか、お菓子セットか。
6等は、サランラップか、キッチンハイターか。それともフリーザー袋か、軍手か。

お楽しみ抽選会は、番号を告げられるたびにあちらこちらに歓声が上がる。



賞品貰いは小さな子どもたちから大人まで。

家族ほぼ全員が当選したという組もある。

喜んで駆け付ける賞品は2等のようだ。



拍手で迎える村の人たちにゲットしたぜ、と雄叫びも。

和気あいあいの大抽選会は長丁場。

50分もかかった抽選会に投入された籤すべてを開封された。

大きな賞品を担いで先に帰る家族連れもあるが、この後に続くイベントはゴクマキ(御供撒き)。



大量に搗いた「オゴク」もお菓子も四方から撒かれる。

どの位置につくのか選り好みしようが、背中から飛んでくるものも。



転げた「オゴク」を追いかける一幕もある。



こうしてひと時の農休みを終えた明日からは日常に戻っていった。

(H29. 4.16 SB932SH撮影)
(H29. 4.16 EOS40D撮影)

七条西町に観たシジュウカラの花散らし

2018年03月20日 10時15分34秒 | 自然観察会(番外編)
FBで「シリーズあのこの町」にタイトル“-シジュウカラの花散らし-”記事を揚げた。

目撃したのは“風”のコイノボリを拝見した同じ町。

奈良市の七条西町の住宅地内である。

今日も気持ちの良い風が流れている。

気温は上昇してこの日も最高温度が23度。

午前中は俄に曇って横風の雨が降る。

午後はうってかわって快晴の空を下に歩くリハビリ兼用の散歩道。

満開になった桜は風が吹けば桶屋が儲かるではなく千切れた花弁が天から降ってくる。

ヒラヒラ落ちてくる花弁に混じって5枚花弁ごとの桜の花が落ちてくる。

まるでその姿はきりきり舞いのパラシュート。

おっかさんでなく落下傘のように見える。



またひとつ、またひとつ、目の前に落ちてくる。

何羽かの野鳥が鳴いている。

声は樹上にいる何羽かの野鳥。

見上げた桜にピチュピチュ。



目を凝らしてみたらニュウナイスズメではなくシジュウカラだった。

その多くは蜜を吸うニュウナイスズメのラッパ落しであるがシジュウカラを見るのは初めてだが、ケータイ画像では撮りたくても撮れない。

(H29. 4.15 SB932SH撮影)

榛原萩原・玉立の水口マツリ

2018年03月19日 09時49分22秒 | 宇陀市(旧榛原町)へ
榛原萩原(はぎはら)の小鹿野(おがの)のごーさん札を見届けて県道に戻る。

次の信号待ちの玉立(とおだち)橋から下を見れば苗代場が2カ所もあることに気づく。

橋の真下であれば見つからなかった位置外れの場である。

遠目だったがお札を立てているように見えた。

これはもしやと思って信号を右回り。

すぐさま右に入る下り道に沿って車を寄せてみる。

膨らみのある道の端に車を停めて歩く。

下っていって近づいてみればアタリ!だった。



その地は榛原萩原(はぎはら)にある玉立(とおだち)地区。

小鹿野の北隣にある村であった。

苗代の水口に立ててあったお札はこれまで見たことのないような文字。

しかもその文字数がとても多いように思えた。

その近くに、畑作業をしていたご婦人に声をかけたら、うち畑だという。

畑の一角に苗代を作って立てたお札は・・。

1月3日、村にある日蓮法華宗青龍寺で行われたウルシ棒たたきのランジョー作法である。

その行事名は「難除」。

「なんじょ」と発音する。

村の初祈祷に奉ったお札を持ち帰って保管する。

そして、そのお札は4月半ばに作った苗代場の際に立てる。

そう話してくれた婦人だった。

ランジョー叩きに用いられる木の棒は漆(ウルシ)の木。

ウルシの木であれば被れる人もいる。

婦人もそうであるように、わざわざ採ってきたフジの木の皮を剥いで立てたそうだ。

時間的に余裕もあればイロバナもするのだが、介護の仕事に就いているので、戻ってくる時間も遅くなり、なかなか時間の確保が難しくて・・、と話してくれた。

そういう婦人が立てた日は前週の4月9日の日曜日だったそうだ。

お仕事が休みの日にしかできない畑仕事である。

他にもしている家がありそうだ、と思って散策がてらに付近を探してみたら、2カ所の苗代田に見つかった。

すべてではないが、奈良県内で行われている農耕の豊作願いをしている地域がある。

豊作願いの在り方は苗代を作ったときに立てるお札などだ。

何年にも亘って県内各地の調査をしてきた。

ある所にはあるが、無い所(していない)方が圧倒的に多い。

お札もあればナエノマツもある。

場合によってはイロバナだけの場合もある。

苗代があればその場を覗いてはモノがあるのか、ないのか探してみる。

有ればそのお札とかナエノマツとかを奉る、祈祷する上流工程を探す。

上流工程は寺や神社の年中行事である。



その一つが見つかった。

場所は宇陀市榛原萩原の玉立(とうだち)地区である。

なにげに玉立橋から見下ろした田んぼに白いモノがあった。

それを確かめたくて降り立った。

お札は枯れた竹に挟んで立てていた。

田主を探した。

少し歩いた所におられた婦人に尋ねた。

それは私が立てたという。

村の寺行事に「難除」と呼ぶ正月の初祈祷がある。

その行事で祈祷されたお札はこうして苗代を作った際に立てて豊作を願っていた。

玉立橋から見下ろした苗代田以外にもう一カ所が見つかった。

先ほど拝見したのは橋の西側。

今度は東側であるが、距離が離れているせいか、白い小さな点にすぎない。

下って、その場所がどこであるのか歩いて探してみたら見つかった。

時間帯は午後6時であるが、明るめに撮っておいた。



スズメ除けのバルーンが風に揺られてひゅん、ひゅん。

ここはネスカフエの空きビン利用にイロバナを添えていたが、花の種類はわからない。

竹を割いてお札を挿していた。

判読できる文字は「南無」に「大日」、「二聖」、「雨」などである。

文字がやたらと多い願文はこれまで拝見した県内事例の中には見られないケースだ。

始めに拝見した苗代田におられた婦人が云った。

お札は村寺の日蓮法華宗青龍寺で行われた「難除(なんじょ)」で祈祷されたお札。

いずれは寺行事も取材しておきたいと在地を探してみる。

それほど遠くない地に寺があった。

道を隔てた向こう側にも苗代があった。



白い幌を被せているからすぐにわかった。

その水口に立ててあったお札。

先に拝見した2例とはまったく異なる在り方である。

水苗代に藁束を横たえる。



その藁束に挿した棒は4本。

お札を挟んでいるのは竹だが、その両脇はウルシ棒であろうか。

後日に伺った田主の話しによれば、かつてはウルシ棒であったが、被れることからフジの木に替えたという。

その横の1本の竹は固定するためにある。

特に決まりはない在り方だという。

イロバナは竹筒。

そういえば始めに拝見した処で婦人が云った。

忙しくてイロバナをする間もなかった・・・。

なお、庚申講についても教えてくださった。

ただ、参列されていないので詳細はわからないという。

講中は玉立に2組あるという。

上(かみ)は6軒の講中で下(しも)は3軒。

閏年の庚申講は、まず始めに講中のヤド家に集まって営みの餅搗きする。



塔婆を準備して日蓮法華宗青龍寺に場を替える。

そして、僧侶に塔婆の願文を書いてもらう。

いわゆる塔婆ツキである。

それから再び講中のヤド家に集まって営みをしていると聞いて、是非訪れたいと思った玉立・日蓮法華宗青龍寺の行事である。

(H29. 4.14 EOS40D撮影)

榛原萩原・小鹿野の閏庚申のことなど

2018年03月18日 09時31分48秒 | 宇陀市(旧榛原町)へ
宇陀市榛原萩原(はぎはら)の小鹿野(おがの)の閏庚申の場を探していた。

隣家におられた人はたまたまの区長さんだった。

区長家は前年の平成28年10月20日に探し当てていた。

小鹿野に建つ地蔵寺を探していたときだ。

その建物は締め切っているから内部の状況は伺えない。

ただ、そこは会所のような建物である。

北に鎮座していたのは弁財天社。

南に庚申石仏を祭る祠があることは認識していた。

その祠内に朽ちたハナタテ(花立)とゴクダイ(御供台)があった。

その祭具があれば旧暦閏年に行われる閏庚申があるのでは、と思ってやってきた。

区長さんがおれば実施状況が聞ける。

そう思って表に廻れば男性が居た。

「区長さんですか」と声をかけたらそうであった。

以前、隣家の人とか村の人に聞いていた区長さんは滅多に家に居ることはないと云っていた。

なんという奇遇であろうか。会いたかった区長さんにやっとこさお会いできてとても嬉しかった。

小鹿野には3組の講中があるという。

うち一つが区長も属する組である。

行事の名称は旧暦閏年に行っている閏庚申の「トアゲ」である。

今年の6月が「大」の月になる。

時期的には6月初めぐらいになるだろうという。

日程が確定すれば電話をお願いしたいと離れた小鹿野。

前年の春に撮っていたオコナイの祈祷札立ての苗代場は水を張って苗床をつくり終えた状態だった。

曜日の関係から推定して16日の日曜日に苗代作業をする可能性がある。

(H29. 4.14 EOS40D撮影)

榛原笠間・K家ハウス苗代の水口マツリ

2018年03月17日 09時38分50秒 | 宇陀市(旧榛原町)へ
つい先月である。

宇陀市榛原の大字笠間で拝見した桜実神社の御田植祭に奉られた杉の実を束ねた御田苗は苗代を作ったハウスに供えると聞いた。

話してくださったのは宮総代のKさんと同じ東垣内に住むほうれん草生産者のSさんだった。

例年は4月10日辺りに苗代を作って立てると云っていた。

状態が変化しそうなので3日に電話を架けた。

今年はなかなか気温が上昇せず、この日も霜が降りてしまうぐらいの寒さになったという。

宮総代は12日、13日辺りにしようかと思案されていた。

9日に電話を架けたSさんは栽培、出荷の仕事に追われていてそれどころではなくなった。

10日どころか、もっと遅れる可能性が高くなったという。

天候はもうひとつの状態。

昼間は温かくなっても朝霜に心配されない日が続いたら・・・ということで、また電話を、ということだった。

10日翌日の11日も冷たい雨。

なかなか温くならんから農家の人、みなが困っているのではないだろうか。

宮総代は天候を見て判断すると電話口で話していた。

明日は天気になる予報であったが、気温は依然として上がってこない。

13日辺りになるかと予想はしてみたが、何度も電話をすればいい加減叱られるのではないかと思うようになった。

焦りが徐々に増す日々を待っていても仕方がない。

そう思って腰を上げた。

桜井の吉隠から榛原へであった。

二人の話しでは、立てるのは午後になるような感じで受け取っていた。

苗代作りが午前中とすれば午後に祭りごと、というわけだ。

こちらのイライラ感を見透かしたと思う宮総代は「立てるとこ見やんでも、いつでもあるからおいで・・」と、云っていた。

吉隠で興味あるものを拝見して心はウキウキ気分。

車は気持ちよく走る。

榛原の大字笠間に到着した時間は午後4時。

宮総代のお家を訪ねたら、本日にし終えたというではないか。なんということか。

「あんたが見たいものを見せてあげる」と、云ってハウスを案内してくださる。

風除け扉を上げてくださったハウス内は苗床がいっぱいに広がっていた。

まだ遅霜があるのだが、ハウスの場合は大丈夫といって育ち具合を見せてくださる。

品種はコシヒカリにツヤヒメ。

モミオトシをした苗は育苗機で育てた。

その数、400枚の苗箱がハウス二つにするから倍数の苗箱になる。

育苗機から苗箱ごと運んでハウスに並べた。

そしてハウスの端っこにミナクチマツリをした。



ハウスをしていなかった時代は田んぼを起こした苗代田に立てていた。

太い藁束は二つ。

並べたところに御田植祭に奉った杉の実で作った模擬苗を立てた。

イロバナを添えて、奥さんが手を合わせて拝んでいた、という。

宮総代は桜井市の大神神社の豊年講顧問。

豊作を願って、神社より拝受したお札を立てている。

宮総代は足を傷めたそうだ。

この日はなんとか苗箱を並べたが、残りの400枚は息子の応援を借りて翌々日の16日にすると話していた。

出会いがあってからミナクチマツリ(水口まつり)に至るまでの長い道のりであった。

出会いの始まりは宇陀市大宇陀平尾で遭遇した笠間在住の蜂退治の男性が話した御田植祭に奉る杉の実のお供えにある。

男性はほうれん草生産者のSさん。

笠間の御田植祭で伺った宮総代も苗代のミナクチマツリをしているとわかってようやく実った豊作を願う形の記録・取材である。

桜実神社の春の祭りに祈年祭の御田植祭がある。

神社に供えた杉の実をつけた束は何本もある。

本来なら実付きであるが供えた宮総代は杉花粉アレルギー。

仕方なく実無しの杉の葉だけされた。

供えた杉の実の束は稲穂に見立てた模擬苗。

実があるほど稲の実成が良いとされてきたがアレルギー性鼻炎には勝てない。

かつて榛原笠間も県内各地と同じように水苗代だった。

冷え込むことも多い笠間では苗の育ち方が難しい。

そう判断されてハウスで育苗する。

ハウスの入口を田んぼの水口と想定するが、出入りに難儀するので端っこに寄せて祭る。

杉の実の御田苗を立てるのは二束の藁。

そこにイロバナも立てた場所は「ミズドメ」。

水の勢いを分散するためにある。

昔していた名残はハウスに転じたが、今でもこうしている。

昔なら米ができる横に「ヤッコメ」を蒔いた。

「ヤッコメ」は「焼き米」。

これを「ホシ」と呼んでいた。

「ヤッコメ」はいつしか「キリコ」になった。

「キリコ」は小さく切った小さなモチ。

いわゆるキリコモチ。

これを油で揚げたのが「キリコ」であるが、今は市販のアラレを供えている。

苗が育って田植えをする。

植え初め(ウエゾメ)に栗の木の枝を立てる。

ヒラヒラの幣を結わえた栗の木を立てていたという。

(H29. 4.14 EOS40D撮影)

吉隠・結鎮祭の弓矢とごーさん

2018年03月16日 08時54分50秒 | 桜井市へ
桜井市吉隠(よなばり)の閏庚申は行われているのか、それとも・・。

されておれば以前に拝見したときと違っているはずだ。

以前という日は平成26年の2月7日に訪れた日である。

数軒の集落が建つ所から細い道を下っていけば薬師如来を祭る極楽寺に着く。

極楽寺はかつて長谷寺の真言宗末寺である。

記憶ではその極楽寺左側に庚申さんがあるはず。

あるにはあったが、平成26年2月と同じ状態の竹製のゴクダイ(御供台)とハナタテ(花立)の残欠だった。

違が見られたのは地蔵石仏と思われるところにローソクがあるのと、シキビに供えた花が枯れたものだった。

旧暦閏年の行事をしているなら、今年である。

時期はまだ早かったのかもしれない。

そう思っていたが、数か月後の7月2日もまったく変化がなかった。

その後の9月1日も同じ状態であったことから中断されたように思えた。

極楽寺を離れて数軒の家がならぶ地に戻る。

車を動かしてからすぐ。

車窓から見えた弓矢である。

玄関軒に掲げていた弓矢があるということは行事がある、ということだ。

そのまま見過ごしてしまいたくはない。

話しは伺ってみないと気が済まない。

そう思って尋ねたお家はH家。

玄関からお声をかけたら奥から婦人が出てきてくださった。



施餓鬼の札もあれば、実いっぱいつけた稲穂も垂らしているお家に飾っていた弓矢は、この年の正月三ガ日過ぎの1月第一日曜日にしていた春日神社行事でたばってきた、という。

本来は1月3日であったが、集まりやすい第一日曜日に替えた。

春日神社を祀る家はこのお家以外に4軒ある。

他の垣内と区別している(西谷の奥に建つ)特定家5軒の営みでしているそうだ。

その正月行事は昭和36年に発刊された『桜井市文化厳書』に書いてあった「宮座の結鎮祭」のようである。

平成26年の2月11日

同市の大字和田の祭礼に出仕されていた桑山俊英宮司はここ吉隠も兼務社である。

先代は馬に跨ってここまでやってきたと聞いている。

厳書および宮司から聞いている話しでは、朝早くに集まった5軒が神饌などを調製するらしい。

その一つがこの日拝見した弓矢である。

その他にも松苗や春日神社のごーさん札もあるという。

神饌調整が終われば神事を始める。

ススンボの矢を梅の木の弓で射るケイチン所作がある。

その次がオンダ祭。

籾撒きに松苗植えをする。

これらの所作すべてを桑山宮司がなされる。

神事を終えたら座のヨバレになるらしい。

この年に当家がトウヤを務めたことからたばった弓矢をこうして飾っているという。



たばったものはもうひとつあると室内から持ち出してくれた。

それこそ春日神社のごーさん札を挟んだ藁束であった。

これには打った矢に松苗も括りつけていた。

ご厚意で撮らせてもらった吉隠の祭具である。

この祭具は、生前におばあさんが苗代に立てていたそうだ。

時代は移り変わって苗代はすることもない。

今ではJAの苗を購入しているから苗代は作らなくなった。

そういうことで今は、屋内で保管していたと話してくださった。

大字吉隠には二つの神社がある。

一つはこの日に参拝した龍ガ尻に鎮座する春日神社

『桜井市文化厳書』によれば祭神は天児屋根命、天太玉命、武甕槌命、比賣大神。

例祭は10月9日で、新嘗祭は11月26日。

祈年祭が2月11日で、ここに春日石と呼ばれる岩があるそうだ。

もう一つの神社は東谷垣内に鎮座する天満神社で菅原道真公を祭る。

例祭、新嘗祭、祈年祭とも同一日である。

ありがたく写真を撮らせてもらったご婦人。

施餓鬼の話しついでに教えてくださった出里の様相である。

その地は曽爾村の山粕。

お寺行事の施餓鬼に祈祷札があって、それは白菜の種蒔のときに立てていたという。

施餓鬼のお札は苗代ではなく白菜の種撒きに立てると知ったのは初めてだ。

土地によってこういうこともあるのだと思った豊作の願いは一度拝見したいものだが、今でもしているのかどうか・・。

ちなみに山粕には二つの寺がある。

一つは融通念仏宗の念仏寺で、もう一つは真宗大谷派の専光寺である。

ところで施餓鬼の旗をお盆のときに畑に立てると聞いたことがある。

接骨鍼灸院の仕事に通院する患者さんを送迎していたときに聞いた話である。

山梨県の甲府で生まれ育った当時80歳いくつかの高齢者が話したお盆の在り方である。

「甲府では施餓鬼の幡を地蔵盆で参った人がダイコンの葉が虫にくわれんようにと畑に立てる。甲府といっても静岡寄りやから幡を立てているのでは・・」と話していたことを思い出した。

さて、春日神社はどこに鎮座しているのだろうか。

あそこの辻を右手奥にずっと行けばわかると教えられて軽バンで登っていった。

林道は狭い。

今にも落ちそうな崖際々を登っていく。



駐車場どころか回転する場もないぐらいの所にあった。

鳥居を潜って参拝する。



辺りを見渡せば屋根の下に保護された石仏があった。

紛れもない庚申さんであるが、旧暦閏年を示す祭具はなかった。

ここが春日神社。

宮座の結鎮祭の日程は替わることも考えられる。

今年の師走月には決まっているだろうと、車を走らせた晦日の吉隠。

再訪した婦人が云った言葉に、絶句した。

(H29. 4.14 EOS40D撮影)

七条西町に揚がる“風”のコイノボリ

2018年03月15日 09時07分08秒 | 奈良市へ
リハビリ兼用の散歩道にコイノボリが揚がった。

揚がったのはこの日ではなく4月2日の日曜日だった。

それからの毎日に揚げるわけでもない。

雨の日、曇りの日、強風の日は避けて揚げない。

どこともそうであるコイノボリ。

この日はさやさやと風が流れていた。

気持ちよさそうに青空を泳ぐコイノボリ。

同家に子供さんの名前は□風に風〇。

二人とも「風」があるお名前だった。

(H29. 4.14 SB932SH撮影)

勾田町・当屋座の八王子回礼

2018年03月14日 09時03分51秒 | 天理市へ
雲の隙間に晴れ間は出ないが雨の降りようはやや小ぶりになる。

これ以上、遅らせることはできないと判断されて、先に傘を伴う八王子回礼に向かった。

これより始まるのは天理市勾田町の当屋座・十人衆が務める八王子さんの回礼である。

八王子回礼は春日神社境内を入れて5場所もある。

一カ所に複数の八王子を祭る地もある。

最初に向かった地は会社従業員らが利用する駐車場の西側。

やや小高い丘に植わる大木が目印だ。

樹齢は何年であろうか。そうとうな年数におよぶと思われる樹木の幹回りが太い。

自生する樫の木の大樹の前に建つ小社造りは高台に乗せた様式である。

ここの八王子社に「八王子」と表記した石標がある。



その前に御幣を挟んだ竹を挿す。

土に埋め込むように先を尖らせた竹の内部に洗米御供を納めている。

この場は合計で4本立て。



それぞれに小餅を挿して参拝する。

雨のときの参拝に傘もいる。



手を合わせにくいこの日の天候に背中はびしょびしょになっていた。



この地より下って南下すれば児童公園に着く。

その公園の一角に八王子を祭っているが、小社ではなく大石であった。

大石に刻印が見られないから石標がなければ、何の大石であるのかわからないだろう。



傘を背中にのせて幣を立てる。



そして一同揃って手を合わせる。

次は公園を出てアスファルト舗装の向こう側にある地蔵さんにある八王子。

ここもまた大石なので石標がなければ存在がわかり難い。



同じように幣を立てて参拝する。



公園、地蔵さんにある八王子にはそれぞれ2本ずつ立てた。

ここからは農道を行く。

東に向かう川筋の土手伝いに歩く。



右手の向こうに見えてきた堤防は勾田新池。

そこより少し外れて北に向かう。

ほぼ春日神社に向かう道もまだ農道である。

その途中にあった大石が八王子。

ここも石標があるからわかりやすい。



ここも2本の幣を立てて参拝する。



遠くから見たら、「あの人たち礼服着てはるけど、畑にぽつんと立って何してんのやろな」って思う場である。



一回り、参拝したら春日神社に戻ってきた。

まずは春日神社本殿とは別に区分けした一言主大神社境内である。



幣を立てるのは八王子の大石である。

この場も2本の幣を立てて拝んだ。

最後になった八王子参拝は春日神社左横にある境内社である。



ここには幣を4本立てる。

ということであれば八王子は2社あると思えるのだが・・。

すべての巡拝を終えて話してくださる八王子の地は八カ所。

幣を立てた数は16本であるから八カ所はここ本郷を中心とする境界であった。

今年の初午行事の際に拝見した幣の在り方がようやくわかった。

八王子の幣を立てる竹を調達協力してくださるMさんが云うには、今では十人衆全員の参拝になったが、かつては一老だけで参っていたそうだ。

午前中の祭り道具の調製に雨は降らず。

作業は捗ったが、この日の天気予報に「晴れ」はない。

結局、晴れ間は見ることもなかった春の祭典であるが、無事に八王子回礼を済ませた十人衆はほっとされたことだろう。

帰りにもう一度拝見したくなった御供がある。

回礼を終えた時間は午後3時半。

社務所に戻って木皿を拝見したり、ごーさん配りの取材をして退席してからの再訪時間は午後5時。

終えてから1時間半も経てば御供はどうなっているか、である。

何人かが話していた猫である。

餅を食べる猫がいるということだった。

そうであれば餅はないのか、あるのか。



一時間半後の状況を見たくなって拝見した樫の木の下の八王子は、無残な状況になっていた。

御供の餅は一つもない。すっかり消えていた上に、左右1本ずつが倒れていた。

ここがそうであればと思って児童公園の八王子を拝見する。



そこはなんの変化もなく御供はそのままの状態を保持していた。

では、向かい側にある地蔵さんの場の八王子は・・・。

正面から見たら幣そのものが見えない。



そこで覗き込んだら樫の大樹の八王子と同様に1本の幣は倒されて餅は2個とも消えていた。

これらはやはり猫の仕業なのだろうか。

犯行現場は見ていないが、カラスの仕業とも考えられる。

(H29. 4. 8 EOS40D撮影)

勾田町・春日神社の当屋座の春の祭典

2018年03月13日 08時45分55秒 | 天理市へ
天理市勾田町はかつて36軒の集落だった。

いつしか戸数が減って26軒。

旧村26軒の氏子長男による当屋座が務め、営んできた。

当屋の廻りは年齢順。

この年の当屋座十人衆の年齢は、最長老の一老でさえ53歳。

一番下でも42歳からなる若手壮年の年齢層である。

春日神社の当屋座の春の祭典は後に数回の改訂があった平成12年に定められた『当屋座行事』帳に沿って行われる。

春日神社の鳥居に年号などの刻印があった。

「弘化五年(1848)九月吉日建之 世話人 氏子中 本郷出郷氏子中」とあった。

寄進者5人の名を刻んだ井戸は「あかの井何某」とある。

面白いことに弘化五年は2月27日までだった。

その翌日から年号が替わった嘉永元年。

西暦でいうなら1848年の2月28日より嘉永時代になった。

ということは、鳥居に刻印のある9月であれば、嘉永元年の9月になるはずである。

なぜに弘化時代であるのか。

それは前以って鳥居製作を依頼していたからに違いないと思うのである。

拝殿前にある狛犬に刻印がある。

「文政九年丙戌(1826)九月吉日 本郷出郷氏子中」とある。

左右それぞれに「同施人 上田楢吉」、「同企人 中西家座中」である。

聞くところの話しでは、かつて勾田町のマツリを支え儀式をしていたのは中西家の三家だったという。

いわゆるご一統さんの筋目家である。

ちなみに「本郷」は春日神社周辺の集落にあり、以外が出郷だと話す。

もう少し正確にいえば、勾田町は大きく分けて東側が上勾田で、西が下勾田になるそうだが、ごーさん配りにお会いしたお家の方は上垣内、中垣内、下垣内の括りだった。

その下勾田の方の国道169号線よりも西になる地区が出郷になるというから、本郷から見て出郷は出垣内のように思えた。

勾田町はかつて38軒だった。

旧村座中が26軒。

氏子長男が務める当屋は年齢順に就く。

最年長の一老は11月下旬から12月上旬にかけて行われる引継ぎの儀式において、次の一老に座中持ち回りの道具類などを引き継ぐ。

継いだ一老が初めて主催する行事が12月30日の門松設営である。

本殿の注連縄掛けなどをするし、2月は小豆粥だったという。

中世の時代の勾田町は興福寺所領の荘園だったそうだ。

勾田町の春日神社は春日大社から勧請した神さん。

建物も移築したようである。

また、春日神社本殿とは別分けした左側に建つ社は一言主大神社。

葛城の一言主神社から勧請したと伝わる。

春日神社が鎮座する地は柿添垣内。

その後方が宮ノ後垣内になるが、寺の存在を示すような垣内名は見当たらない。

さて、春の祭典である。

昼の慰労会食を済ませた区長、十人衆は正装の礼服姿に着替えて席につく。

会所でもある春日神社社務所は、この日だけが当屋座(頭屋座)一老家に成り代わる。

平成18年までは、当屋座一老家が座をもてなす場であった。

負担などを考慮されて当屋家は神社社務所に移されたのである。



その証に社務所玄関に設えた木桶がある。

平成16年までは当屋家のお風呂をいただいて潔斎をしていた。

お風呂に一個の石を入れて入浴した。

入浴が潔斎であるから石は禊ぎ石である。

入浴を辞めた禊ぎ石は木桶に沈めるように改正された。

社務所に座る位置は決まっている。

上座中央は石上神宮の神職が座る。

右横に区長、左横に当屋座一老である。

以降、右側に座る順は上座より二老、三老、四老、五老。

左側は六老、七老、八老、九老、十老となる。

実はついさきほど終えた当屋座十人衆を慰労する席とは異なる。

上座中央に座るのは区長。

右横に二老で左横が三老になる。

右列は上座から順に四老、五老、六老、七老。

左は八老、九老、十老。

その末席が一老であった。



座の儀式が始まる直前に支度する黄な粉盛りがある。

お酒の猪口いっぱいに盛る黄な粉。



平らに擦りきりしたら、蓋を被せるように小皿をあてる。

ひっくり返せば綺麗な黄な粉盛りができあがる。

作業し終えても黄な粉の香りが残る。

社務所全体に香りが拡がったようだ。



その黄な粉盛りは二段重ねの座餅の横に配置する。

これは座中膳である。

神事を司る神職、区長も同じ膳が用意される。

平成22年までは十人衆が餅を搗いていた。

平成17年に取材したときは四老以下十老までが杵で餅を搗いていたことを思い出す。

また、直会のときに食するちぎり餅も調えていた。

一同が席についたら立ち上がった四老が下座に座る。



その場より、「こらから式を始めさせていただきます」とひと言挨拶をされる。

続いて上座よりお酒を注いで回る。

酒注ぎの順は神職、区長、一老、二老・・・十老の順である。

酒を注ぐ際にはまず頭を下げる。

塗りの酒盃を置いた三方を差し出して盃をもっていただく。

湯とうを傾けて酒盃に酒を注がれたら、ぐいと一杯飲み干す。

飲んだ酒盃は三方に戻す。

そして次の席に移って同じように酒盃の作法をする。



酒盃は一盃であるから、いわゆる酒の回し飲みである。

また、酒の注ぎ方に特徴がある。

湯とうを傾けるときである。

傾けては少し戻して、またもや傾けて戻す。

3度目の際に酒を注ぐことから三献の酒注ぎである。

これは儀式の作法。

いわゆる三々九度が原型の三献の儀である。

三々九度は固めの盃。契りを結ぶ作法は座の場合にされることが多い。

かつて勾田町の座の三献の儀は和服姿になられた一老婦人が酒を注いでいた

平成17年に拝見したときはそうであったが、これも負担になるということで座中が行うことに替えた。

三献の儀が一巡すれば2杯目に移る。

その際の順序は十老より始まる。

十老、九老・・・一老、区長、神職と戻りの酒の回し飲みであるが、ずっと四老が注いでいるわけでなく、四老の席にも注がれる。

ただ、そのときは五老が入れ替わって四老に注がれるのである。

二巡する酒の回し飲みを終えたら、再び四老は下座について、「これで式を終わらせていただきます」と挨拶されて下がる。

座の儀式は三献の儀でおわることなく、次は熱燗の接待に移る。

その際に出される酒の肴がある。



塗り椀に盛った肴は三品。

平成17年に取材したときの記事は「座中和やかに塩で煮た泥芋、牛蒡やアラメを食します」と書いていた。

今も変わらぬ三品の肴はヒジキの仲間のアラメにゴボウと皮を剥いた真っ白なサトイモであった。

味付けは薄い塩茹で。かつて一老家でしていた時代の接待は家で調理していたが、今は仕出し屋さんにお願いしているそうだ。

これら肴はそれぞれ二椀ずつ。

上座、下座の席の前に置く。



それを箸で摘まんで黄な粉盛りの小皿に移す。

めいめいがそうするが取り出す個数に決まりがあるのかどうか聞きそびれた。



三献の際はみな正座であるが、熱燗接待の場合は足を崩した胡坐でも構わない。

無礼講やからと区長はそういう。

三品は海のものに山のもの。

それに里のもの。

黄な粉につけたら尚美味しいという。

座の儀式が一区切りとなれば座中のお渡りに移る。

床の間に立てていた大幣は一老が抱えて歩く。

先頭を行くのは露払い。

大榊6本をもって歩く九老は一足先に着いて務めを済ませる。



まずは大榊を当屋家に見立てた社務所玄関左右に立てる。

このときはまだ雨は降っていないから助かった。

支度を済ませた神職並びに区長、当屋座一行は仮当屋となった一老家に見立てた社務所を出発したら、一旦は西に出る。

稲荷社がある裏道を出たところを十数メートルも行けば集落辻に出る。

そこより南下して次の辻に出る。



そこからは東に向けて神社を目指す。

その距離はほんの少し。

平成17年に拝見したときは国道169号線を越えて東へ東へと高台にある神社に向かって渡っていたことを思い出す。



大急ぎの駆け足で階段を上がっていく九老。



まずは鳥居下に榊幣を立てる。

次は拝殿前に立てていた。



座中一行が到着する前にしなければならない務めであった。

後方についていた十老は朱塗りの椀を載せた三方を抱える。



また三献の儀で用いられた湯とうももつ。

この写真ではわかり難いが、ちぎり餅を盛っている。

座の儀式前に整えていたちぎり餅酒盃を撮っていたので参照されたい。

区長、当屋座は平成23年の8月4日に新築した拝殿中央に立つ。

そして始まった春の祭典神事。



祓の儀、神職拝礼、開扉、献饌。



米御供二杯は薬師堂と観音堂に供える。



祝詞奏上に続いて一老が抱えてきた大御幣を振る奉幣振り神事がなされる。



そして玉串奉奠に移る。



勾田町の玉串奉奠は区長から始まって一老、二老・・・・十老まで一人ずつ奉られる。

玉串奉奠を終えたら撤饌、閉扉、神職一拝で終えた。



これより始まる作法は直会である。

酒注ぎは十老。

ちぎり餅の盃も差し出す。



献は一人ずつされる。

お神酒をいただいてちぎり餅を食べる作法である。



その順は神職、区長、一老、二老・・・十老。

十老がいただくときは九老に代わってもらう。

一巡したら逆に戻る。

これは座の三献の儀と同じである。

ちぎりの餅は契りの餅ではないだろうか。

そう思える直会は厳粛な儀式であった。

すべての人たちが献をいただいたら祭典を終える。

一同は参進したときとは逆に戻っていく。

鳥居を潜って階段を潜る。

集落辻をぐるりと回って帰還した。

小雨になっていた還幸渡御。

神社に植わっている桜樹が迎えてくれた。

社務所に戻ればざっくばらんにお茶とお菓子で一服する。

午後ともなれば雲が湧いてきたが、雨は降らずになんとか無事に神事を終えることができた。

春の祭典は農耕を豊作する祈願祭でもある。

お米は大切にせなあかんと区長は話す。

社務所で一服していたときだ。

俄に黒い雲が広がった。

西、南から押し寄せる黒い雲はあっという間に雨を降らせる。

午後3時には直会をお開きにして5カ所に参る八王子回礼をしたい。

直会中に雲の動きをキャッチしていたスマホ。

アプリ道具は10年くらい前にはなかったと思う私は未だにガラケーである。

当時は携帯電話があっても雲の動きを察知するアプリはなかった。

今では農作業にも活かしているスマホアプリの能力は大きい。

雲の隙間に晴れ間は出ないが雨の降りようは小ぶりになる。

これ以上、遅らせることはできないと判断されて、先に傘を伴う八王子回礼を決断されて出発した。

八王子回礼から戻って雨の状態を見計らってごーさん配りをすることになった。

雨降りの日は降りようによって、時間帯を替えるなど、臨機応変に対応する。

ごーさん札を挟むカワヤナギは芽吹くようにという願いである。

今でも苗代を作る農家が必要とするヤナギのごーさん。

時期がくれば苗代に立てた。

畑もなくして花壇にする家が多くなった。

神棚もない家ではごーさも必要としない。

そんな家が増えているが一部の家では苗代に立てているようだ。

苗代を作ったその場の端に立てる。

手を合わせて今年も豊作をお願いしますと手を合わせる。

ごーさんは田植えをするときには抜いて、苗取りさんのときに捨てたというのはずいぶん前のようだ。

このごーさん札を配るお家は予め確認されていた。

名簿に印のあるお家が必要とする家。

勾田町集落は旧村で26軒。

何人かは配る区域ごとの本数を抱えて走っていった。

うち、三老はここら辺りの何軒かに配ると云うので連れてってもらった。

呼び鈴を押した1軒は奥からM家婦人が出てこられた。

三老から受け取る農家に必要なごーさん札。

お話しを伺えば苗代作りをしているから、要るのですということだ。

だいたいが4月30日辺りにしていると云われたので、取材許可をお願いしたのはいうまでもない。

M家はお家で座の儀式をしていた最後の当屋座一老。

それはそれでたいへんだったと話される。



次の1軒も呼び鈴を押す。

押しては見たもののベルが鳴ったのか。

庭に車がないから不在中のようだ。

諦めて次の家に向かって呼び鈴を押すが、ここもまた不在。

次は三老家。

そして神社近くまで戻ってきたお家もM家。



奥からご主人が出てこられてごーさん札を受け取った。

かつては4月2日、3日辺りの日に苗代作りをしていた。

ところが奥さんが足を痛めたので立って、また座る作業は難しくなったから・・という。

当家もかつては一老を務めたお家。秋の祭りもそうだが、一老家での朝風呂がしなくなっただけでもラクになったという婦人の声である。

餅搗きは十老など若い者の務め。

お風呂は一老から入浴して最後に十老。

力仕事をしている者が最後になると話してくれた。



ところで、餅分け作業をしている際に見せていただいた木製の大皿である。

洗米を盛った大皿の裏を返せばそこに文字があった。



「嘉永四亥(1851)の亥年九月 施主 當村惣左エ門」とあった。

苗字はわからないが、もう一枚の寄進者名は「景□衛」のようだ。

もう一枚は「嘉永四年(1851)九月□□□ 奉納 氏子源平治」。

当時の氏子たちが寄進した木製大皿は大切にしてくださいとお伝えして場を離れた。

(H29. 4. 8 EOS40D撮影)

遺作展になった森本康則個展「大和の一本桜」inアートスペース上三条

2018年03月12日 09時23分37秒 | しゃしん
森本康則氏が個展の写真展をされていると知ってぶらり散歩がてらに寄ってみる。

展示会場は知人の豊田定男さんが織りなす「奈良いまむかし」展をしていたアートスペース上三条

平成25年の6月4日だった。

場所はわかり難く往生したことがあった。

今回は2度目。

それでもあれから4年も経っている。

町の移り変わりは早く感じる。

あの狭い通路のようなところに入る口はどこだろうか。

たぶんここらであろうと思った地にタイムパーキングが見つかった。

以前はたしかなかったような気がする。

駐車しようとすればこれまた知人の写真家Kさんが歩道を歩いていたところに遭遇。

タイミングは30秒もズレておれば遭遇することのない、これを奇遇としか言いようのないタイミングである。

これから個展に、といえばご一緒しましょうということで会場にあがる。

そこにおられた森本康則氏。

1カ月半も入院に体重は10kgの減量。

ほっそりとされたが穏やかな面立ちはいつもお会いするときと同じだ。

温かみのお声で優しく喋られる、あの雰囲気は他の人には見られない魅力をもっている。

私もそうでありたいと思うが、無理なことである。

実は森本康則氏とはお会いしてお話しをしたのは平成27年5月3日に観覧させてもらった第20回水門会写真展のときである。

氏との繋がりはもっと以前である。

繋がりのキカッケを作ってくれた写真は一枚。天理市の大和神社で斎行されるちゃんちゃん祭りの一コマである。

その写真は「県政だより奈良 2005.4月号 第226号」に掲載された。

平成17年のことだから、今から12年も前のこと。

掲載された写真は私が撮った原画とまったく同じ。

こんなことってあり得るのだろうか。

答えを知りたくて県庁広報課に向かった。

応対してくださった広報課職員のKさん。

その写真は大和神社宮司から提供されたのが事実であるとわかった。

後日、訪れてそのことを尋ねた宮司さんは、県より掲載写真の提供を願われて、神社にあった写真を渡したというのだ。

えーっ、である。

過去、撮らせてもらった写真はできる限り、お礼として取材地にさしあげている。

その写真を渡したというのだから、間違いなく私に著作権がある。

HPにも書いたが、逆に名誉なことなので広報課の了解をえて「ならグルグル散歩」に紹介することにした。

そのことをきっかけに発展した「県政だより奈良」の写真掲載。

広報課から正式にお願いされての祭り・行事写真の掲載に一役買っていただいたのが森本康則氏だった。

直接はお会いしなかったが、候補写真の何枚かを広報課に提供した。

その中から選んでくださった選者であった。

そのときの写真は川上村烏川の弓始式を筆頭に、御所市鴨都波神社のススキ提灯などがある。

それからさらに発展した県からの依頼は平城遷都1300年祭を記念に発刊された『奈良・大和路まほろば巡礼』であった。

このときも写真監修をされたのが森本康則氏だった。

そんな経緯によって繋がっていた氏と初めてお会いして喋ったのが、先に挙げた第20回水門会写真展のときだった。

私の思い出はそういうことだが、監修をしてくださったおかげで今日の私がある。

いわば先生みたいなもので、今でも感謝している。

さて、写真展は氏が県内のあらゆる所に目を向けて撮ってきた「大和の一本桜」。

私も県内各地の一本桜や美桜を求めて探し回ったことがある。

見慣れた桜もあれば、ここってどこと思えるような桜もある。

穏やかな人物が穏やかな作風で写真を仕上げた「個展」に魅了される。

私が気に入っている桜にこんなのもありますって伝えたら、是非、来春にでかけてみたいと話していた。

個展より半年前の平成28年10月である。

氏がFBをされていると聞いてリクエストさせてもらった。

繋がった私のFBにコメントしてくださったのは平成28年11月4日。

その返事に「桃香野でもっとお話ししたかったのですが、隣村の行事取材の時間に追われていて失礼しました。行事のあれこれを写真に収めるだけでは限界を感じます。何年か前に民俗芸能調査員を委嘱されたこともあってより一層、所作の動きが気になりますね」を送った。

平成28年の10月23日に訪れた奈良市月ヶ瀬の桃香野の伝統行事に出会ったときのことである。

返答したコメントにコメントを返してくださる。

そのときの私の返答は「10年ほど前のことですが、『県政だより 奈良』の表紙写真を厳選してくださったのですから、私にとってはやはり先生ですょ。また、どこかでお会いしたいものです」。

そうしてお会いした個展であった。

実質はたった3度のリアルな出合いの写真談義が嬉しかった。


それから半年後の平成29年9月24日に訃報が届く。

直接ではなく、知人のNさんがFBに投稿した文章が気になる。

もしか・・、と思っていた翌日の9月25日。

電話の発信者は写真家のKさん。

主たる目的は撮影協力の願いだ。

通しで5日間のビデオ撮り。

それにはスチル写真が要るとのこと。

5日間のうち、この日は身体が空いていますか、という電話だった。

その日の夕刻は近々に取材の許諾をしてもらった伝統的民俗行事の取材が決まっている。

決まったのは前日のことである。

早朝からの行事もあったが、それは断った。

いや、断るというよりも行きたいな、と伝えてはいても確約ではないから、断念である。

なんせ行事が一番多いとされる10月の第二日曜日。

困ったものである。

そのKさんに森本さんの名を出した。

実は今から葬儀が始まるということだ。

心配されたことが現実になってしまった。

もう一度会って写真談義をしたかったが叶えられることはない。

突然の葬儀知らせに泣いてしまった。

氏の誕生日は4月4日。

私の方が3カ月早く生まれた同年生。

今でも病いを抱えている私より先に逝ってしまった。

合掌。

写真展から1年後。

逝去されてから半年後。

森本康則さんのFBは生きていたが・・・。

FBが伝える平成30年4月4日の一日前。

「・・誕生日を祝いましょう」のメッセージに反応する人は現れない。

天国に逝ってしまった森本康則さんも応えてくれない。

逝去されて半年間。

どうか天上で見守っていただきたく、FBも「友達から削除」を押して、合掌。

(H29. 4.12 SB932SH撮影)
(H29. 9.25 追記)
(H30. 4. 6 追記)