今から76年前の奈良観光を描いたイラスト画とともに現在の観光地を写真で捉えた「奈良いまむかし展」の案内が届いていた。
昨年の9月~10月には奈良市観光センターで展示されたことは覚えている。
覚えているだけで時間を確保する余裕もなかった昨年の秋である。
案内をいただいたのはデジタル夢工房の豊田定男さんだ。
豊田さんを知ったのは立ちあげていたホームページを通じてである。
平成14年8月のころだから本格的に写真を始めようと奮い立った時期である。
豊田さんのホームページは「奈良大和路写真紀行」。
四季折々の大和路景観を写真で紹介する。
捉えた映像はときおり写真展でも紹介されていた。
大判の写真に圧倒されたことを覚えている。
開発された「アルトピコ」の画像に感動を覚えたこともある。
原画は写真であるがコットン材に印刷した映像はまるで水彩画、油絵である。
平成15年11月に奈良県民ギャラリーで展示された作品には小躍りしたものだ。
それから随分と月日が経った。
「奈良いまむかし展」の展示作品は復刻された『奈良名勝漫遊三日の旅』。
昭和12年(1937)11月に発刊された奈良観光を巡るイラスト絵画である。
蛇腹形式の手のひらサイズだった原本は豊田さんの知人が彼地である北海道の古書店で発見されて買い求めた。
黄ばみ、染みなどもあって損傷していた原本を復刻したいと思って培ったデジタル処理技術を駆使して蘇らせた。
その件は新聞などで報道されていた。
平成22年10月に復刻販売された『昭和十二年発行の奈良観光絵図 復刻限定版 奈良名勝漫遊三日の旅』。
奈良国立博物館、啓林堂書店、若草書店、豊住書店、奈良町情報館、まちや工房奈楽など。税込み価格1000円で販売されている。
復刊といえども元々の版元(はとや観光協会)や著者(小国堅太郎・編)の承諾を得なければならない。
京都市の発行者(小国堅太郎・編)、発行所、印刷所など手を尽くして探したが調べがつかなかったそうだ。
『奈良名勝漫遊三日の旅』をキーワードにネットで検索すれば平成22年12月に発刊された『コレクション・モダン都市文化〈第63巻〉奈良とツーリズム』が見つかった。
価格は18900円。
『奈良名勝漫遊三日の旅 小国堅太郎・編(一九三七年一一月、はとや観光協会)』の他、『大和めぐり 大阪鉄道局・編(一九二八年一一月、日本旅行協会) 』、『聖地大和 鉄道省(一九四〇年二月、博文館) 』、『随筆大和 臼井喜之介・編(一九四三年七月、一条書房) 』などが収録されているようだ。
豊田さんが復刻された『奈良名勝漫遊三日の旅』のことが紹介されていた新聞記事のサブタイトルが気にいっている。
「過去にはお宝が眠っている。デジタル技術で呼び覚まして感動を届ける仕事だと・・・」話されていたとおりのサブタイトルだ。
6月4日から6日間の展示会場はアートスペース上三条。
画廊のような名前の会場はどこなのかと思いながら探してみた。
案内状には会場の地図も載っていた。
率川神社が鎮座する本子守町から道路を隔てた向こう側だ。
近くにコインパーキングがある。
そこに車を停めて探してみた。
目印の岡三証券のビルはどこだろう。すぐ近くらしい。
ふと、狭い道に目がいった。
そこに書いてあった「アートスペース上三条はこちら」の矢印だ。
それに沿って入ってみれば、あった。
展示会場はそこの2階だ。
上がっていけば絵を展示している室があった。
そこではない。
隣の部屋の画廊だ。
2室あるアートスペース上三条である。
そこに並んでいた『奈良名勝漫遊三日の旅』の展示パネル。
中央にはソファもある。
歓談できるようになっているらしい。
トップから何枚かのイラスト画を拝見して入室した。
そこに居られた豊田さん。
久しぶりに見るご仁は私よりも十歳上だが相変わらず若々しい。
積もる話に盛りあがる。
立派なことをされた作品に見惚れる。
「奈良いまむかし展」を拝見するにはワケがある。
昭和12年の観光地巡りをされている人たちの姿である。
当時の姿は今では見られない。
服装、着物、帽子、車両・・・すべてが風俗である。
風俗は民俗にも通じる。
民俗行事の記録写真を撮っている私にとっては貴重なイラスト画である。
昭和12年は太平洋戦争に突入する少し前の時代。
戦後生まれの私は知らない世界。
親たちの世代が暮らしていた風俗を見たかった。
トップページに登場するちょび髭の男性が羽織袴に高高帽。
黒い傘を肩に掲げて荷物を包んだ風呂敷を吊っている。
近鉄八木駅の駅長をしていた叔父きの生前姿を思い起こす。
おふくろの母親の弟だ。
イラスト画は八木駅ではなく、JR奈良駅だ。
当時はJRとは呼んでいない。
国鉄関西本線の驛舎である。
平成22年に駅周辺の土地区画整理事業に合わせて高架化された奈良駅だが駅舎は残された。
昭和9年に建築された歴史的遺産建造物の駅舎は洋館と寺院を組み合わせたような威風堂々の外観である。
乗降する女性観光客は和風の着物姿。
マフラーを首に巻きつけている男性も居ることから冬場であったろう。
春日大社、興福寺、東大寺へ向かう参拝者を案内する人は手旗を揚げている。
昔はどこも各地のみんなそうだった。
奈良自動車会社の車両はボンネットバスだ。
その頁には大軌奈良駅も書かれている。
近鉄の奈良駅である。
大軌は大阪電気軌道の略で、現在の近畿日本鉄道の前身会社。
大阪電気鉄道の前身は奈良軌道である。
今でも近鉄奈良線は親しみを込めて愛称の大軌と呼ぶ人も多い。
昭和21年、22年に発生した旧生駒トンネルの車両火災。
さらに昭和23年には大阪に向かう急行列車がブレーキを破損して下り勾配を暴走した大惨事を覚えている人も多い。
戦後しばらくしてから生まれの私は当時の事故を知らないが、祖母やおふくろが話していたことを覚えている。
鹿せんべい売り子の行商姿。
ほっかむりをしている。
今では売り子は動かないが当時は籠に入れて移動していたようだ。
奈良の鹿と云えば鹿寄せだ。
今ではホルンを吹き鳴らしているが、当時はラッパであった。
トテチテターだったかどうかは判らない。
萬葉植物園も紹介されている。
当時の入場料は十銭だ。
描かれた植物は三種。
あしび、りんどう、ひかげのかつらだ。
花が咲くアシビやリンドウはともかくヒカゲノカツラに興味を覚える。
ヒカゲノカツラはヒカゲノカズラと呼ばれるツル性のシダ植物。
充てる漢字は日陰鬘であるから、本来はカツラの鬘であるからヒカゲノカヅラが正しい表記だと思うのだが・・・。
万葉集の巻18-4120 大伴家持に「見まく欲り 思ひしなへに かづらかげ かぐはし君を 相見つるかも」がある。
「カズラ」でなく「カヅラ」である。
古事記に記す神代の話。天照大神が天の岩戸に隠れられたときである。
アメノウズメノミコト(天宇受売命)が舞に用いたヒカゲ(日陰)の「たすき」は天の香具山の「ヒカゲノカヅラ」であったそうだ。
新嘗祭における神官が被る冠にヒカゲノカヅラを模した鬘がある。
両耳に垂らした鬘である。
率川神社で行われる三枝祭(さいぐさまつり)にヒカゲノカヅラを頭に巻き挿した四人の巫女が奉納舞いをするうま酒みわの舞は五節の舞がある。
吉野町南国栖に鎮座する浄見原神社の国栖奏がある。
奉納される舞台は舞殿。
その柱た桁に巻きつけているのがヒカゲノカヅラである。
昭和7年に開園した萬葉植物園は春日大社の直轄神苑。
ひかげのかつらを描いた著者に敬意を表したい。
なお、「ヒカゲノカヅラ」用いた伝統行事に奈良市矢田原町のこども涅槃がある。
黄楊(ツゲ)の枝葉を芯に、シダの仲間のヒカゲノカズラ(別称キツネノタスキ)を丸くして麻緒で括る。
タロ(タラの木)を半切にして片面を朱色に塗り牛蒡を模った箸を膳に盛る。
タロの木箸で赤飯と白飯をいただくのだが、ヒカゲノカズラやタラの木は棘でイガイガである。
棘だらけの箸は手でもつと痛い。
タロの木箸でなんとか飯を口にもっていって食べる所作は子どもから大人になる通過儀礼であるとされるのだ。
『奈良名勝漫遊三日の旅』には奈良市内における行事祭礼が多く掲載されている。
頁をめくっていけば春日野グランドがあった。
すべり台にブランコは特に印象を受けないが、水着姿の女性が飛び込む50メートル競泳プールも描かれている。
公会堂の西北にあった春日野(園地)大グランドは面積が8125坪(換算2462m²)もあったというから相当広い。
春日野園地一帯はかつて民地であった。
広がる草地(水田かも)の周りに民家が建ち並んでいたそうだ。
園地は春日野運動場、グラウンド等を整備した。
グラウンドには400mの陸上競技場、サッカー球技場や野球場、テニスコートにプールもあった。プールは進駐軍によって撤収されたというような話もあるが、昭和63年の「なら・シルクロード博覧会」の開催に伴って消滅したようだ。
二人の息子がまだ幼児だった頃。次男を乳母車に乗せて出かけたことを覚えている。
かつてグラウンドで野球をしていたと話す人から聞いたことがある。
それがどのような姿であったのか。
一部ではあるがなんとなく思い浮かべることができたイラスト画。
調べてみればなんと球場は阪神タイガースの公式戦で使われたそうだ。
昭和24年11月7日のことだが、その後は使われずにたった一日の公式戦だった。
春日野園地は、今では夏の風物詩となった奈良燈花会の会場の一つになっている。
さらに頁をめくっていけば「おん祭」と大きな文字で書いた芝舞台の大太鼓。
映像から音が飛び出してきそうだ。
大名行列の奴さんの演武絵。
その左下に描かれたカニが二匹。
大きなツメを上げている。
なぜに書かれているのか・・・。
おん祭の行列は春日大社の参道。
両端にさまざまな露天商が売りさばく。
その一店が売っていたサワガニではないだろうか。
奈良写真の大家である入江泰吉氏が捉えた映像で見たような気がする。
「おん祭通りの露天店では毛が生えたカワガニを売っていた」と話していたのは白土町の県住に住むSさん。
「法隆寺会式を会式レンゾと言ってミズアメを食べる孫と参拝した。カワガニを売っているし植木市も。昔はサーカスもあって平端駅から臨時バスも出ていた」と話していたのは額田部町のOさん、Yさん、Sさんらだ。
また、明日香村の上居(じょうご)地区を聞き取りされた史料によれば岡寺の初午、二の午、三の午に出ていた参道の露天で売っていたのもカワガニであった。
それは茹でたカワガニだったようだ。
毛が生えたカワガニというのはおそらくモクズガニであろう。
『奈良名勝漫遊三日の旅』に描かれたカニは薄赤色。
茹でた状態で売っていた証しの色と伺える。
(H25. 6. 4 記)
昨年の9月~10月には奈良市観光センターで展示されたことは覚えている。
覚えているだけで時間を確保する余裕もなかった昨年の秋である。
案内をいただいたのはデジタル夢工房の豊田定男さんだ。
豊田さんを知ったのは立ちあげていたホームページを通じてである。
平成14年8月のころだから本格的に写真を始めようと奮い立った時期である。
豊田さんのホームページは「奈良大和路写真紀行」。
四季折々の大和路景観を写真で紹介する。
捉えた映像はときおり写真展でも紹介されていた。
大判の写真に圧倒されたことを覚えている。
開発された「アルトピコ」の画像に感動を覚えたこともある。
原画は写真であるがコットン材に印刷した映像はまるで水彩画、油絵である。
平成15年11月に奈良県民ギャラリーで展示された作品には小躍りしたものだ。
それから随分と月日が経った。
「奈良いまむかし展」の展示作品は復刻された『奈良名勝漫遊三日の旅』。
昭和12年(1937)11月に発刊された奈良観光を巡るイラスト絵画である。
蛇腹形式の手のひらサイズだった原本は豊田さんの知人が彼地である北海道の古書店で発見されて買い求めた。
黄ばみ、染みなどもあって損傷していた原本を復刻したいと思って培ったデジタル処理技術を駆使して蘇らせた。
その件は新聞などで報道されていた。
平成22年10月に復刻販売された『昭和十二年発行の奈良観光絵図 復刻限定版 奈良名勝漫遊三日の旅』。
奈良国立博物館、啓林堂書店、若草書店、豊住書店、奈良町情報館、まちや工房奈楽など。税込み価格1000円で販売されている。
復刊といえども元々の版元(はとや観光協会)や著者(小国堅太郎・編)の承諾を得なければならない。
京都市の発行者(小国堅太郎・編)、発行所、印刷所など手を尽くして探したが調べがつかなかったそうだ。
『奈良名勝漫遊三日の旅』をキーワードにネットで検索すれば平成22年12月に発刊された『コレクション・モダン都市文化〈第63巻〉奈良とツーリズム』が見つかった。
価格は18900円。
『奈良名勝漫遊三日の旅 小国堅太郎・編(一九三七年一一月、はとや観光協会)』の他、『大和めぐり 大阪鉄道局・編(一九二八年一一月、日本旅行協会) 』、『聖地大和 鉄道省(一九四〇年二月、博文館) 』、『随筆大和 臼井喜之介・編(一九四三年七月、一条書房) 』などが収録されているようだ。
豊田さんが復刻された『奈良名勝漫遊三日の旅』のことが紹介されていた新聞記事のサブタイトルが気にいっている。
「過去にはお宝が眠っている。デジタル技術で呼び覚まして感動を届ける仕事だと・・・」話されていたとおりのサブタイトルだ。
6月4日から6日間の展示会場はアートスペース上三条。
画廊のような名前の会場はどこなのかと思いながら探してみた。
案内状には会場の地図も載っていた。
率川神社が鎮座する本子守町から道路を隔てた向こう側だ。
近くにコインパーキングがある。
そこに車を停めて探してみた。
目印の岡三証券のビルはどこだろう。すぐ近くらしい。
ふと、狭い道に目がいった。
そこに書いてあった「アートスペース上三条はこちら」の矢印だ。
それに沿って入ってみれば、あった。
展示会場はそこの2階だ。
上がっていけば絵を展示している室があった。
そこではない。
隣の部屋の画廊だ。
2室あるアートスペース上三条である。
そこに並んでいた『奈良名勝漫遊三日の旅』の展示パネル。
中央にはソファもある。
歓談できるようになっているらしい。
トップから何枚かのイラスト画を拝見して入室した。
そこに居られた豊田さん。
久しぶりに見るご仁は私よりも十歳上だが相変わらず若々しい。
積もる話に盛りあがる。
立派なことをされた作品に見惚れる。
「奈良いまむかし展」を拝見するにはワケがある。
昭和12年の観光地巡りをされている人たちの姿である。
当時の姿は今では見られない。
服装、着物、帽子、車両・・・すべてが風俗である。
風俗は民俗にも通じる。
民俗行事の記録写真を撮っている私にとっては貴重なイラスト画である。
昭和12年は太平洋戦争に突入する少し前の時代。
戦後生まれの私は知らない世界。
親たちの世代が暮らしていた風俗を見たかった。
トップページに登場するちょび髭の男性が羽織袴に高高帽。
黒い傘を肩に掲げて荷物を包んだ風呂敷を吊っている。
近鉄八木駅の駅長をしていた叔父きの生前姿を思い起こす。
おふくろの母親の弟だ。
イラスト画は八木駅ではなく、JR奈良駅だ。
当時はJRとは呼んでいない。
国鉄関西本線の驛舎である。
平成22年に駅周辺の土地区画整理事業に合わせて高架化された奈良駅だが駅舎は残された。
昭和9年に建築された歴史的遺産建造物の駅舎は洋館と寺院を組み合わせたような威風堂々の外観である。
乗降する女性観光客は和風の着物姿。
マフラーを首に巻きつけている男性も居ることから冬場であったろう。
春日大社、興福寺、東大寺へ向かう参拝者を案内する人は手旗を揚げている。
昔はどこも各地のみんなそうだった。
奈良自動車会社の車両はボンネットバスだ。
その頁には大軌奈良駅も書かれている。
近鉄の奈良駅である。
大軌は大阪電気軌道の略で、現在の近畿日本鉄道の前身会社。
大阪電気鉄道の前身は奈良軌道である。
今でも近鉄奈良線は親しみを込めて愛称の大軌と呼ぶ人も多い。
昭和21年、22年に発生した旧生駒トンネルの車両火災。
さらに昭和23年には大阪に向かう急行列車がブレーキを破損して下り勾配を暴走した大惨事を覚えている人も多い。
戦後しばらくしてから生まれの私は当時の事故を知らないが、祖母やおふくろが話していたことを覚えている。
鹿せんべい売り子の行商姿。
ほっかむりをしている。
今では売り子は動かないが当時は籠に入れて移動していたようだ。
奈良の鹿と云えば鹿寄せだ。
今ではホルンを吹き鳴らしているが、当時はラッパであった。
トテチテターだったかどうかは判らない。
萬葉植物園も紹介されている。
当時の入場料は十銭だ。
描かれた植物は三種。
あしび、りんどう、ひかげのかつらだ。
花が咲くアシビやリンドウはともかくヒカゲノカツラに興味を覚える。
ヒカゲノカツラはヒカゲノカズラと呼ばれるツル性のシダ植物。
充てる漢字は日陰鬘であるから、本来はカツラの鬘であるからヒカゲノカヅラが正しい表記だと思うのだが・・・。
万葉集の巻18-4120 大伴家持に「見まく欲り 思ひしなへに かづらかげ かぐはし君を 相見つるかも」がある。
「カズラ」でなく「カヅラ」である。
古事記に記す神代の話。天照大神が天の岩戸に隠れられたときである。
アメノウズメノミコト(天宇受売命)が舞に用いたヒカゲ(日陰)の「たすき」は天の香具山の「ヒカゲノカヅラ」であったそうだ。
新嘗祭における神官が被る冠にヒカゲノカヅラを模した鬘がある。
両耳に垂らした鬘である。
率川神社で行われる三枝祭(さいぐさまつり)にヒカゲノカヅラを頭に巻き挿した四人の巫女が奉納舞いをするうま酒みわの舞は五節の舞がある。
吉野町南国栖に鎮座する浄見原神社の国栖奏がある。
奉納される舞台は舞殿。
その柱た桁に巻きつけているのがヒカゲノカヅラである。
昭和7年に開園した萬葉植物園は春日大社の直轄神苑。
ひかげのかつらを描いた著者に敬意を表したい。
なお、「ヒカゲノカヅラ」用いた伝統行事に奈良市矢田原町のこども涅槃がある。
黄楊(ツゲ)の枝葉を芯に、シダの仲間のヒカゲノカズラ(別称キツネノタスキ)を丸くして麻緒で括る。
タロ(タラの木)を半切にして片面を朱色に塗り牛蒡を模った箸を膳に盛る。
タロの木箸で赤飯と白飯をいただくのだが、ヒカゲノカズラやタラの木は棘でイガイガである。
棘だらけの箸は手でもつと痛い。
タロの木箸でなんとか飯を口にもっていって食べる所作は子どもから大人になる通過儀礼であるとされるのだ。
『奈良名勝漫遊三日の旅』には奈良市内における行事祭礼が多く掲載されている。
頁をめくっていけば春日野グランドがあった。
すべり台にブランコは特に印象を受けないが、水着姿の女性が飛び込む50メートル競泳プールも描かれている。
公会堂の西北にあった春日野(園地)大グランドは面積が8125坪(換算2462m²)もあったというから相当広い。
春日野園地一帯はかつて民地であった。
広がる草地(水田かも)の周りに民家が建ち並んでいたそうだ。
園地は春日野運動場、グラウンド等を整備した。
グラウンドには400mの陸上競技場、サッカー球技場や野球場、テニスコートにプールもあった。プールは進駐軍によって撤収されたというような話もあるが、昭和63年の「なら・シルクロード博覧会」の開催に伴って消滅したようだ。
二人の息子がまだ幼児だった頃。次男を乳母車に乗せて出かけたことを覚えている。
かつてグラウンドで野球をしていたと話す人から聞いたことがある。
それがどのような姿であったのか。
一部ではあるがなんとなく思い浮かべることができたイラスト画。
調べてみればなんと球場は阪神タイガースの公式戦で使われたそうだ。
昭和24年11月7日のことだが、その後は使われずにたった一日の公式戦だった。
春日野園地は、今では夏の風物詩となった奈良燈花会の会場の一つになっている。
さらに頁をめくっていけば「おん祭」と大きな文字で書いた芝舞台の大太鼓。
映像から音が飛び出してきそうだ。
大名行列の奴さんの演武絵。
その左下に描かれたカニが二匹。
大きなツメを上げている。
なぜに書かれているのか・・・。
おん祭の行列は春日大社の参道。
両端にさまざまな露天商が売りさばく。
その一店が売っていたサワガニではないだろうか。
奈良写真の大家である入江泰吉氏が捉えた映像で見たような気がする。
「おん祭通りの露天店では毛が生えたカワガニを売っていた」と話していたのは白土町の県住に住むSさん。
「法隆寺会式を会式レンゾと言ってミズアメを食べる孫と参拝した。カワガニを売っているし植木市も。昔はサーカスもあって平端駅から臨時バスも出ていた」と話していたのは額田部町のOさん、Yさん、Sさんらだ。
また、明日香村の上居(じょうご)地区を聞き取りされた史料によれば岡寺の初午、二の午、三の午に出ていた参道の露天で売っていたのもカワガニであった。
それは茹でたカワガニだったようだ。
毛が生えたカワガニというのはおそらくモクズガニであろう。
『奈良名勝漫遊三日の旅』に描かれたカニは薄赤色。
茹でた状態で売っていた証しの色と伺える。
(H25. 6. 4 記)