マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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榛原萩原小鹿野・中組の旧暦閏年の庚申トアゲ

2018年08月12日 09時08分21秒 | 宇陀市(旧榛原町)へ
宇陀市榛原萩原の小鹿野に庚申講があると知ったのは平成28年の10月28日だった。

民俗探訪に訪れた宇陀市菟田野の平井。

帰路に立ち寄ったのが、小鹿野であった。

その際、目にした庚申堂。

旧暦閏年に行われる庚申行事に奉ったと想定される塔婆があった。

花立ての残欠もあるから行事をしているのだろう。

話しを聞いてみたくなった区長家はすぐ近くだったが、不在だった。

区長にお会いできたのは、翌年の平成29年4月14日

凡その行事感触を伝えてくださる。

度々に小鹿野へ向かうことが難しいので区長の電話番号を教えてもらっていた。

6月末までに、村で行事日程を決めると区長が話していた。

そろそろ決まっているころであろうと思って電話を架けたのが6月28日。

そのときの話しでは、7月1日が実施日になると云っていた。

午後になってからになるが、ある家に講中が集まって、花立やゴクダイを作るという。

祭りの道具が出来あがった午後3時ころには庚申さんに参って三巻の般若心経を唱える。

小鹿野に庚申講は3組あるが、1組は講中が2軒になったので中断した。

もう1組は講中の都合を考えて翌日の2日にする。

花立もせず参るだけになったという。

その組の講中が3軒になったから大幅に簡略化した、と電話で伝えてくれた。

そうした経緯があってたどり着いた行事の日である。

中組の講中は4軒。

所有する軸箱の箱面に「明治八亥年 小鹿野 ・・・」の墨書に5人の名があったからかつては5軒であった。

小鹿野にある3組の庚申講は上組、中組に東の組もある。

上組の庚申さんは山ノ神と呼ばれている庚申石。

かつては5、6軒の講中で営んでいたが、現在は2軒。

今年は人数が少なくなったので中断したそうだ。

東の組は6軒で営んでいたが、ここも同じように軒数は減って3軒でしているという。



紹介されたヤド家のM家の床の間に庚申さんの掛図を掲げていた。

見た目でも古さを感じる掛図。

裏面なども拝見したが、寄進年号を示すものがないが、装飾素晴らしく立派な掛図に感動を覚える。

黒光りの風合いをもつ掛図箱も拝見する。



黒一色の表面に文字は見つからない。

開けた蓋裏もないが、底面になにかしかの文字がある。

「の」の文字に判読不能文字と「上」は何を伝えているのだろうか。

専門家の判定がほしいところであるが、ひっくり返した箱の底面に連名があった。

判読できた文字は右から「明治八年(1875)乙亥」、「小鹿野村」、「□本時□」、「西向元□」、「堂本時□」、「大西□□」、「□□□」、中、村」とあるから、当時は5軒の講中であった。

時代は明治とわかって、実は小鹿野の前身は玉小西(たまこしに)と呼ぶ地域であった。

明治初めの時代であるが、今でも字地に(元)玉小西があるようだ。

その箱とは別保管している封筒がある。

中に納めているのは便せん。

平成16年4月、18年7月、21年7月、26年10月、29年7月にそれぞれ担ったヤド家の名前。

こうして書いておかんと忘れてしまうので記録したそうだ。

その書面に書いてあったのが行事名。

「とあげ庚申」と記されていた。

これまで村々でされている数々の旧暦閏年の庚申行事を記録してきた。

ここ小鹿野も同じく「とあげ庚申」。

「とあげ」とは、庚申さんに願文を書いた塔婆を揚げ、念仏を申す「塔婆揚げ」である。

ある地域では「とあげ」とあったが、別の地域では「とうあげ」だった。

それがあったからわかった「塔揚げ」。

願文を書いた塔婆を揚げることから塔婆揚げであるが、「とうあげ」が短く訛って「とあげ」になったことは・・」ということである。



その願文は、これまでずっと同じ。

見本通りに願文を葉付きの杉の木に書いてきたという。

そのような話しをし終わって、取り掛かった庚申さんに奉る祭具の調製である。



屋外である調整作業は二つある。

一つは真竹で作るゴクダイ(御供台)である。

もう一つは杉の木で作る塔婆である。

予め伐採していた真竹はとても長い。

それを切る長さは庚申堂に遺していた前回に立てたゴクダイが見本。

見本に合わせて伐っていく。

丸太素材の状態で作るゴクダイに載せる棚作りもある。

真竹を割って細い竹を何本か作る。



これもまた前回の棚を見本に長さを合わす。

枚数も同じ枚数にする。

あとからわかったが本数は15本だった。

そのままの状態では棚にならない。

両端を編んでいくように紐を通していく。



編み方も全開を見本につくるヤド家のご主人。

できあがった棚は御簾(みす)のような簾型である。

一方、ゴクダイの土台になる支柱部分も作り始める。

支柱は棚を載せる形に調整する。

ヤド主がゴクダイの棚作りをしている最中、みなは協力しあって棚を載せる支柱を作る。



これもまた、前回に祭った見本を元に作っていく。

真ん中より若干下に節目があるように竹を切る。

その節目までを四つに割く。



勢いをつけ過ぎたら節目まで割ってしまう。

それを越さない程度に割るのが難しい。



しかも、である。

割いた4辺に曲げを入れる。

これもまた力を入れ過ぎてしまえばパリパリと音を立てて先まで割かれてバラバラになるからその加減が難しい。

そういうわけで工夫するのが曲げである。

節目より少し上にバーナーの火の力を借りて優しく曲げる。

予め作っておいた2本の竹片を割いたところにかます。

よく見れば内側に節目がある。

その端の見えない部分に竹片を噛ませば出来上がりだ。

竹片は支柱の反りで外れないように抑えられている。

それも確かめて出来上がったゴクダイである。

次の製作物は真竹で作る花立と杉の木で成形する塔婆作りである。

塔婆の木肌成形を撮っている際に行われていた花立作りの工程である。

塔婆に目線がいってしまったものだから花立は出来あがり状態を見ていただきたい。

ただ、製作工程はとても難しく、切込みの大きさに外れないようにした鉄線巻きなど、昔はしていなかった工程がある。

できるだけ簡単にできるようにと工夫されたのは前回の平成26年10月7日からだという。



これまで実施した日とヤド家がどの家であったのか、メモを残すようにしたのは平成16年の4月4日からだった。

次は平成18年7月29日。

その次は平成21年7月11日、その次は平成24年7月1日。

このように履歴をみていけばわかるように榛原萩原・小鹿野の旧暦閏年のトアゲは「大」の月にされてきたことがわかる。

私がこれまでに取材してきた地域では「大」の月を意識するが、どの地域も間違いなく3月から5月辺りに行っている。

つまりは豊作を願って春の季節にしているのだ。

ところが小鹿野は、多少日程は前後するものの、頑固にも旧暦の「大」の月に合わせて実行していることがわかった。



葉付きの杉材で作る庚申塔婆である。

カマで皮を剥いで、願文を書けるように、また、白い部分がわかるように削る。



願文書きもまた前回の見本を元に太文字サインペンで書いていく。

願文は初めに「空 風 火 水 地」の「キャ カ ラ バァ」。



続いて「奉造立 庚申供養五穀成就講中安全祈願 平成二十九年七月一日」と書いた。



ゴクダイ、花立、塔婆の三つが揃ったら地蔵寺(兼集会所内)の建つ地にある庚申堂に向かう。

急な坂道を登ってきた講中たち。

その道は人の歩ける範囲の里道である。

だが、集落を訪れるには、車利用でないとしんどい急坂ばかりの里道。

普通自動車では難義しそうな狭くて急な坂道。

4WD型軽自動車でないと、実に走行が難しい狭い道。

急坂の地形に、坂道の途中で一旦停まったら、発進は実に難しい地域だと思った。

急な坂道を行き来するにはとてもしんどい。

心臓に病をもつ私にとっては負担度が最高潮に達する坂道を講中は難なく歩いている。

ヤド家はご主人の代わりに奥さんが参られる。

実は作業中もずっと座ったままであったご主人は事故で脊椎を壊された。

歩くのもままならない身体でなんとか製作した庚申講の祭具。

「座ってする作業はもう慣れています」と云っていたのが印象的だった。



運んできた花立は庚申堂の右側に立てる。

花立ては2本それぞれにお花を活けて飾る。

左側にはゴクダイ。

そして庚申塔婆である。



ゴクダイの棚にそっと載せたのは器に盛った御供。

オカキやお菓子なんどの軽い御供だった。



ローソクに火を灯して始めたお念仏は般若心経。



このときの導師は区長さん。

小鹿野の年中行事のお勤めは般若心経を十巻、或いは三巻が多い。



この日の庚申講行事は一巻で終えた。

(H29. 7. 1 EOS40D撮影)


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