マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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椎木町の若宮おん祭薦上げのコモ編み

2015年08月18日 10時42分24秒 | 大和郡山市へ
この日の朝、携帯電話が鳴った。

大和郡山市在住のMさんからだ。

「今から若宮おん祭の仮御殿(行宮)に奉納・薦上げするコモ編みを始める。もし良ければ来れないか」と云う電話である。

薦上げをされる地域は旧村の椎木町。

西椎木と東椎木の二村に分かれており、毎年交替する。

この年のアタリの村は西椎木の北垣内。

前回の平成24年は南垣内だった。

つまり西椎木と東椎木であるが西椎木は北垣内と南垣内が毎回のアタリの年ともなれば交替しているのである。

電話があったMさんは北垣内。

平成22年もアタリの年を勤めた垣内なのである。

その年はコモ刈り、コモの天日干しならびに薦上げ神事も取材させてもらった。

若干の顔ぶれも替ったが、今回も撮りにきてほしいと云うのである。

ありがたいお誘いの電話は断わる理由もない。

大慌てで支度して西椎木に向かった。

前回の作業場は旧公民館だった。

今回は場も広い新公民館。

前回の平成24年よりこの場になったそうだ。

すでに作業は始まっていた公民館。

それぞれが作業する場にはタワラアミの台とツチを設けていた。

中央に広げているのは7月半ばに宮田で刈り取ったマコモである。

奇麗なマコモを選別する作業や天日干しを経て旧公民館で保存していた。

それから4ヶ月、マコモの葉の色は変わりなく美しい。

タワラアミの台はウマの足のような形をした木材。

自然木をそのまま二つに割った二股足である。

百姓をしていた時代、このタワラアミの台でコメダワラ(米俵)を編んでいたと云う。

台にかました木材。

水平に据えて安定させる。

木材の長さは1m20cmぐらい。

そこには等間隔に4本の筋目を入れている。

そこが編目の基準となる印である。

筋目は深く凹んでいる。

長年に亘って編んできたのであろう。

使用量が多かったために深い刻みを残したようだ。

編む道具に木製のツチノコがある。

村人は「ツチ」と呼んでいた。

いわゆる錘具のひとつに挙げられる道具であり、中央にくぼみがある。

充てる漢字は槌子だ。

燻し色になっているツチノコも含めて編む道具はそれぞれの家で使っていた年代物。

「古いものは明治のころどころかもっと前や。そりゃ年季が入った道具や」と話していた4年前のことを思い出した。

藁縄をぐるぐる巻きにしているツチノコ。

この年、始めて近代的な道具を使った。

一般的に売られている洗濯バサミである。

以前はツチノコそのものにぐるぐる巻いていた。

藁縄が外れないように端を輪っかにした部分に通していた。

引っかかることもあって途中でたぐらなければならない。

洗濯バサミであれば取り扱いやすいと考えられて購入したと云う洗濯バサミは「ハサンバリ」と呼んでいた。

献上する薦は3種類。

横幅はいずれも同じであるが長さが異なる3種類。

45cmは10枚、90cmが24枚。

いちばん長い180cmは2枚である。

それらを分担して薦編みをする。

4年前は5人が分担していたが、この年は服忌があって欠席。

やむを得ず4人の作業となった。

負担が増えた作業である。



4年前は男性ばかりで作業をしていたが、この年は奥さんも支援する二人がかりの作業になった。

当時されていた二人の男性は亡くなられた。

そのうちの一人は酸素ボンベで呼吸しながら作業をされていた。

亡くなった旦那さんの代わりを勤めていたのは老婦人。



編み台は今年参加できない家から借りてきた。

「神さんごとやから、私が継がなければ」と云って熱心に作業をされる。

病に伏した男性は作業をすることもできない身体になったと聞く。

今夜遅くまでかかるという作業は黙々と進められる。

数本の薦を掴んで束ごと水平台に添える。

まずは右側である。

茎側の薦を右端の基準点に置く。

そして手前にあるツチノコを前方右にもっていく。

次に向こう側にあるツチノコを手前にもってきて左側に置く。

置くというよりも振るという感じで、編み目はクロスしていく。

作業を文章にすると長くなるが、実際は素早い動作である。

それもツチノコを持つという感じではなく、藁縄を引っ張り上げて、振り上げるというような感じだ。

次の編み目は一つ飛ばした箇所である。

今度は左の基準点に茎側に置く。

さきほどと左右の置き方が逆になる。

そして手前の箇所を編む。

それから同じように一つ飛ばして編む。

これを繰り返していく。

藁縄が縦糸で薦は横糸になるのだ。

こうして一枚の薦筵ができあがる。

左右、薦茎の端から端まで測ってみれば1m。

水平台の長さよりも左右10cmずつ短い。

その部分は薦が跳ねる「遊び」になるのだろう。

一枚ができあがれば次の薦編みにとりかかる。

始めにするのは藁縄の長さを測ることだ。

45cmの筵を仕上げるには縄の長さは150cmを要する。

これまでの経験値を実測値に計算された。

平成22年に拝見したときは編むにつれてメジャーで長さを測っていた。

いちいち測らなくとも縄がなくなればできあがりとなるのだ。

90cmを編むには長さが270cm。

180cmであれば540cm。

若干余裕をみて10cmほど足した藁縄をツチノコにぐるぐる巻く。

止めは「ハサンバリ」だ。

それぞれを四本筋目に掛ける。

こうして数束の薦を掴んで水平に置く。

薦束を纏めて茎側をとんとん床に当てる。



揃えていた婦人はご主人に手渡す。

受け取ったご主人が編んでいく。

作業はこうして再び黙々と進められた。



何枚か作られて一服する。

家で作ったホシガキやお菓子をよばれてお茶にする。

ホシガキを作るには沸騰したお湯が要る。

カキをお湯に丸ごと浸ける。

そうすれば腐らないと話す。

10月ころに作ったホシガキは腐りやすい。

早いうちに作る日はまだ気温が高め。

どうしてもカビが生えてくるという。

ひと休みをされて続行する薦編み。

家に戻って食事をする時間がもったいないと云って近くのスーパーで弁当を買って来られた。

この年は公民館で食事をすることにした。

おそらくは晩の9時も過ぎることだろうと云う。

「春日さんにもうやめたら」と云いたいがそうすることもできない椎木の献上物。

椎木の薦筵献上に関する最古の記録は、室町時代初期、応永十四年(1407)の『春日社下遷宮記』にあるそうだ。

その年、春日社から各社領へ下遷宮用途の上納を命じた。

椎木には「米三斗、松明三十把、薦十束」であった。

尤もこれは春日大社の式年造替に際する献上である。

椎木の地名が歴史上に現れるのは平安時代中ごろの延久二年(1070)の『興福寺雑役免帳』だ。

当時の地名は「強木(しいぎ)であった。

直接、春日社と椎木の関係を示す最初の記録は平安時代末期の大治二年(1129)である。

春日社の社家の日記に「椎木預」の文字がある。

そのころは、春日若宮おん祭が始まる保延二年(1136)の7年前のことである。

そのころかどうか判っていないが、春日若宮おん祭の始まりとともに、春日神領である椎木が編んだ薦を献上するようになったのだろう。

公民館には「菰上げ」と記された一枚の用紙が額縁に入れて保管されている。

「菰上げ」のサイズと枚数だ。

6尺(180cm)が2枚。

3尺(90cm)は24枚。

1.5尺(45cm)は10枚である。

夜遅くまでかけて編んだ菰筵は12月15日に参拝されて春日若宮さんの仮御殿(行宮)に奉納・献上される。

これを「薦上げ」と呼んでいるのだ。

薦筵は献上されたのちに春日大社の蔵に一旦保管される。

一年間保管されて翌年の仮御殿(行宮)に敷きつめられるのだが、いつ敷かれるのか拝見していない。

考えられるに16日の宵宮祭のころではないだろうか。

翌17日の午前時には遷幸の儀が執り行われる。

それまでに敷きつめるには16日しかないと思うのである。

献上された薦筵は長さに応じて敷かれる場所が異なる。

柱用は10枚の45cm。

床や御殿周りの覆い用は24枚の90cm。

階段用に2枚の180cmを敷くと聞いている。

(H26.11.15 EOS40D撮影)


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