朔日参りに御供飯を供えた四老を見送ってからのことだ。
しばらくは瀧ノ蔵神社の拝殿前で佇んでいた。
そろそろ昼の食事に行こうと思って腰をあげたときである。
石段を登ってくる音が聞こえる。
どなたなのか、と思って待っていたら顔馴染みのOさんだった。
さきほどに六人衆の顔ぶれに変化があったと四老が話していた。
Oさんはこれまでずっと二老を務めていた。
私が瀧倉の年中行事を取材させてもらってからはずっとそうだった。
今は前一老のⅠさんの後を継いだ現一老だ。
やってきたのはこの日の華参りである。
華参りは一日から始まって7日まで連続する行事である。
朝、昼、夜それぞれに参って拝殿内にある太鼓を三度打つ。
これを7回繰り返す。
そして、ローソクを灯して三巻の心経を唱える。
鳥居を潜ってやってきた一老はサカキの木を持っている。
それは太鼓を打つ拝殿の祭壇に収める。
これを7日までの毎日を繰り返すのであるが、日にちごとに役目する六人衆は入れ替わる。
8月1日は一老、2日は二老、3日は三老・・・で、6日は六老が務める。
かつては7日から14日までは下の六人衆が役目をしていたが、今はない。
7日は再び役目をする一老がお礼参りとして〆るのである。
時間はきっちり決まっているわけでもない。
朝、昼、晩のそれぞれの時間帯はブレがある。
この日を役目する一老の時間は朝が5時、昼は12時、晩は午後8時というが、ときすでに昼時間は若干のブレで12時半だった。
尤も滞在していた私に説明している間に時間が動いていたのでそういう時間になったのだが・・・。
この日の心経は「心願成就」。
一老は座の最長老。
村の願いごとも含めて唱えさせてもらったと云った。
ちなみに前一老のⅠさんは、拝殿で丸一日籠って唱えていたと云う。
その話しは頷ける。
平成26年の8月1日に訪れたときは、まさにその通りだった。
ときおりO家を訪ねてはさまざまな瀧倉のことをお聞きする。
この日もしてくれた話題は・・。
七日トーヤ(頭屋)は「アカイヤ(閼伽井屋)」に参って水垢離をしていた。
瀧ノ蔵の神社下を左に折れていけば岩がある。
そこは「アカイヤ」で水が湧く。
梵字の版がある。
木の版は「もっぱん」と呼んでいた。
蟲が喰ってボロボロの木版。
何を書いているのかさっぱりわからない。
わからんから判読はやめた。
瀧の「ゾウゴン(荘厳か)」。
龍の絵がぐるりにあった。
天保時代なのかわからないが・・・。
版の様相から3カ所立てて水垢離の行をしていたようだ。
故Mさんの家の下に流れる初瀬川の上流に小川がある。
水垢離の行は冬のトーヤ(頭屋)がしていたという。
冬のトーヤはたぶんに今では中断している二月トーヤ(頭屋)のことだと思う。
その件については昭和54年から56年にかけて発刊された『桜井市史下巻』。
特に昭和56年の『民俗編』に、次のような記事があった。
瀧倉の「七月頭屋 正月頭屋をすました者のなかから、毎年兄弟頭屋二名を選出しておく。そして7月14日の早朝に、字西川の初瀬川の上流、大井堰で、現在と受けの兄弟頭屋四名が、ミソギをして、小石三個ずつ拾って帰り、自宅のカマドの上にのせて祀っておく(もとは旧6月14日で、この四名は前の十三日夕刻に神社で参籠したという)。当日、午前9時ごろ、神主および一老、二老の三人が受け頭屋の兄弟二軒の頭屋に集まり、門口にそれぞれに〆縄を張り、お祓いをしてもらう。次に現在の兄頭屋のオカリヤを受け頭屋の兄頭屋へうつす。午後四時に祭典をして、下の宮の石にて、カワラケ一枚を割り、戻って頭屋渡しの式を行い、一老と二老の酌で頭人四名が三々九度の盃事をして、式終了となる。このあと一同直会にうつる。チソウは現頭屋のうけもちだ」とある。
記事の内容は七月頭屋の式典状況であるが、Oさんが話す禊の作法は正月頭屋(七日頭屋)も同じだったと思われるのである。
(H28. 8. 1 EOS40D撮影)
しばらくは瀧ノ蔵神社の拝殿前で佇んでいた。
そろそろ昼の食事に行こうと思って腰をあげたときである。
石段を登ってくる音が聞こえる。
どなたなのか、と思って待っていたら顔馴染みのOさんだった。
さきほどに六人衆の顔ぶれに変化があったと四老が話していた。
Oさんはこれまでずっと二老を務めていた。
私が瀧倉の年中行事を取材させてもらってからはずっとそうだった。
今は前一老のⅠさんの後を継いだ現一老だ。
やってきたのはこの日の華参りである。
華参りは一日から始まって7日まで連続する行事である。
朝、昼、夜それぞれに参って拝殿内にある太鼓を三度打つ。
これを7回繰り返す。
そして、ローソクを灯して三巻の心経を唱える。
鳥居を潜ってやってきた一老はサカキの木を持っている。
それは太鼓を打つ拝殿の祭壇に収める。
これを7日までの毎日を繰り返すのであるが、日にちごとに役目する六人衆は入れ替わる。
8月1日は一老、2日は二老、3日は三老・・・で、6日は六老が務める。
かつては7日から14日までは下の六人衆が役目をしていたが、今はない。
7日は再び役目をする一老がお礼参りとして〆るのである。
時間はきっちり決まっているわけでもない。
朝、昼、晩のそれぞれの時間帯はブレがある。
この日を役目する一老の時間は朝が5時、昼は12時、晩は午後8時というが、ときすでに昼時間は若干のブレで12時半だった。
尤も滞在していた私に説明している間に時間が動いていたのでそういう時間になったのだが・・・。
この日の心経は「心願成就」。
一老は座の最長老。
村の願いごとも含めて唱えさせてもらったと云った。
ちなみに前一老のⅠさんは、拝殿で丸一日籠って唱えていたと云う。
その話しは頷ける。
平成26年の8月1日に訪れたときは、まさにその通りだった。
ときおりO家を訪ねてはさまざまな瀧倉のことをお聞きする。
この日もしてくれた話題は・・。
七日トーヤ(頭屋)は「アカイヤ(閼伽井屋)」に参って水垢離をしていた。
瀧ノ蔵の神社下を左に折れていけば岩がある。
そこは「アカイヤ」で水が湧く。
梵字の版がある。
木の版は「もっぱん」と呼んでいた。
蟲が喰ってボロボロの木版。
何を書いているのかさっぱりわからない。
わからんから判読はやめた。
瀧の「ゾウゴン(荘厳か)」。
龍の絵がぐるりにあった。
天保時代なのかわからないが・・・。
版の様相から3カ所立てて水垢離の行をしていたようだ。
故Mさんの家の下に流れる初瀬川の上流に小川がある。
水垢離の行は冬のトーヤ(頭屋)がしていたという。
冬のトーヤはたぶんに今では中断している二月トーヤ(頭屋)のことだと思う。
その件については昭和54年から56年にかけて発刊された『桜井市史下巻』。
特に昭和56年の『民俗編』に、次のような記事があった。
瀧倉の「七月頭屋 正月頭屋をすました者のなかから、毎年兄弟頭屋二名を選出しておく。そして7月14日の早朝に、字西川の初瀬川の上流、大井堰で、現在と受けの兄弟頭屋四名が、ミソギをして、小石三個ずつ拾って帰り、自宅のカマドの上にのせて祀っておく(もとは旧6月14日で、この四名は前の十三日夕刻に神社で参籠したという)。当日、午前9時ごろ、神主および一老、二老の三人が受け頭屋の兄弟二軒の頭屋に集まり、門口にそれぞれに〆縄を張り、お祓いをしてもらう。次に現在の兄頭屋のオカリヤを受け頭屋の兄頭屋へうつす。午後四時に祭典をして、下の宮の石にて、カワラケ一枚を割り、戻って頭屋渡しの式を行い、一老と二老の酌で頭人四名が三々九度の盃事をして、式終了となる。このあと一同直会にうつる。チソウは現頭屋のうけもちだ」とある。
記事の内容は七月頭屋の式典状況であるが、Oさんが話す禊の作法は正月頭屋(七日頭屋)も同じだったと思われるのである。
(H28. 8. 1 EOS40D撮影)