マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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小綱町ノージンサンのジャ

2016年04月15日 09時11分28秒 | 橿原市へ
6月28日に行われる「すももの荒神さん」の運営も小綱町文化財保存会に移った。



「浴衣まつり」でもあるので役員さんも浴衣姿になると話していた。

記録用に撮った写真に赤いモノが見えた。

なんだろう。気になったら眠りから覚めるので一週間後に再訪した。

その部分を拝見すれば・・・。

赤いモノは「ジャ」の舌ではないだろうか。

藁束を二股にした部位は「ジャ」の頭であろう。

ヨノミの葉で覆われているので手で除けながら光を当てて撮っておいた。

これも記録用として撮っておいた。

ちなみに奈良県教育委員会が記録作成事業報告書に纏めた『大和の野神行事』がある。

昭和59年度から昭和60年度の二年間に亘って調査してきた報告書に「小綱町ノグチサン(ノーグッツアン)」がある。

昭和57年当時に記された史料によれば、野神祭りは座中当屋、神主、総代らによって行われていたとある。



6月4日の当日までに蛇作り材料のモチワラ・縄、天秤棒の青竹を調達して、半紙に牛・農具を描いた。

蛇作りは座の先座、後座の二人が作った。

担いで歩くのもこの二人だ。

4日当日は各農家から昼食時に経費を徴収していた。

昼食を済ませた午後1時は蛇作り、輪作り、御幣作りなどの作業を行う。

午後2時ともなれば、当屋家より野神塚へ向かう。

蛇の参進には作った蛇をオーコで担いで歩いていた。

今では想定できないぐらいにかつての蛇は太かった。

重さがある蛇はヨノミの木の前に置いて納めた。

現在のように巻き付けることはなかった。

そして神主による祈祷・お祓いがあったもようだ。

祭典を終えた午後3時には近所の子供たちにお菓子を配って終わる。

戦前までの子供たちには野神祭の役目があった。

田んぼに生えていた麦の畝の中に隠れていた子供たちは、野神塚へ参進する一向に土や泥を投げつけるなど大暴れしていた。

その行為を避けるために一行は手ぬぐいをほうかぶりして防いでいた。

座の家(当屋であろう)は野神塚から戻ってきたら、作っておいた串団子をあげたという一連の調査報告に時代の変遷を感じる。

(H27. 6.11 EOS40D撮影)


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