マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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久安寺の植付け休みの御湯

2013年10月08日 08時56分43秒 | 平群町へ
村の田植えのすべてが終われば植付け休み。

農作を終えて身体を休める日である。

今では植付け休みと云っているがが、本来は「ケツケ」であると総代が話す平群町久安寺の村。

「サナブリだ」と云う人もいるが、隣村の福貴畑の宮総代もそう云う「ケツケ」は、毛を付けて実りの豊作を願う村行事である。

久安寺の地はお寺の名でなく大字の名である。

「慶長郷帳(1596~)」「元和郷帳(1615~)」に記す大字名は「休安寺」であったようだ。

畑仕事の一切をせずに農休み。

そうでなければ村の行事に大勢が集まることは難しいから、第四土曜にしている植付け休みの場は氏神さんを祀る素盞嗚神社である。



本殿前の境内に設えた斎場は注連縄を張って立てた四方竹。

厳かに行われる神事の場である。

中央に設えた古いお釜。

鉄輪(かなわ)の三徳で支えられた湯釜である。

脚にはそれぞれ獣面が彫刻されている鑄物製だ。

10年ほど前までは一本の脚がとれていた。

なんとか支えながら遣ってきた湯釜の脚は修理した。

その際に、取り付けられた輪形で羽釜になった。

その湯釜に刻印が見られる。

「牛頭天王宮元文三戌年(1738)八月吉日 和州平群久安寺邑長生院住持本住比丘氏子中」である。

およそ270年前の代物を今尚使っている久安寺の祭具に感動を覚える。

刻印された寺院は「長生院」。

かつて薬師堂と呼ばれていた寺院は明治七年に廃寺となった。

境内にひっそりと佇むお堂がそれだという。

「比丘」の名が示すように安寿さんがおられたと伝わる長生院である。

昭和の時代までは久安寺の村に宮座があった。

10軒ぐらいであった宮座は自治会に行事を移管して以来村の行事として運営している。

奈良県庁文書に残されている『昭和四年大和国神宮神社宮座調査』によれば座は8人であったようである。

小学6年生の女の子は虫類が大好きなようだ。

動かなくなったタマムシを見つけて見せてくれる。

在学している平群西小学校は平成25年度に閉校し、在校生は東小学校に移管されて統合される。

少子化の波はどこもかしこも押し寄せる。

植付け休みの祭典に集まったのは村の人が40人ほど。

この日に行われるのは御湯の神事である。

神職の姿はなく、三郷町の巫女さんが神事を勤められる。



神饌を供えた本殿前で行われる神楽の舞。

始めに鈴の舞で左手に扇を持つ。

次が剣の舞だ。



神楽を終えて、一人、一人に鈴と剣で祓ってくださる。



「祓いたまえー 清めたまえー」と生後間もない赤ちゃんまでも祓い清めるありがたい作法である。

神事は斎場に移って御湯の神事。

柏手を打って、かしこみ申すと神さんに告げる。

最初にキリヌサを撒く。



お神酒を投入して御幣でゆっくりとかき回す。



御幣と鈴を手にして右や左に舞う。

2本の笹を両手にもって湯に浸ける。

もうもうと立ちあがる湯気。

大きな動作でシャバシャバすれば湯が立ちあげる。



東の伊勢神宮の天照皇大明神、南の談山神社の多武峰大権現、西の住吉大社の住吉大明神、北は春日若宮大明神の四柱の神々の名を告げて呼び起こす。

再び笹を湯釜に浸けてシャバシャバする御湯の作法は実にダイナミックである。

何度か行って、東、南、西、北の四方に向かって「この屋敷に送りそうろう 治めそうろう 御なおれ」と告げられた。

御湯に浸けた笹と幣、鈴を持って再び神楽の舞いをする場は本社、末社の2社である。



シャンシャンと鈴の音がする。

履物を履いて並んでいた村人の前にゆく。

「交通安全、家内安全、水難盗難、身体健勝、祓いたまえ、清めたまえ」と鈴を振って祓う。



氏子たち一人ずつ順に祓い清めて神事を終えた。

笹の葉で飛び散らす御湯は清めの湯。

まさにオハライの御湯を受けた村人たちは神社の会所に上がる。

巻き寿司、稲荷寿司にオードブルなどをテーブルに広げて食するひとときの歓談に移った。

オードブル皿にはエビフライ、カラアゲ、タマゴ焼き、ヤキトリ、イカの天ぷら、肉だんごなどを盛っている。

50年も前はコフキマメにカボチャ(煮ものであろう)の手料理だった。

それを貰いにきた子どもたちは会所の縁側で食べていたと話す。

十数年前までは神職が会所に住んでいた。

不在となってからは神社の秋祭りに龍田大社の神職がやってくる。

素盞嗚神社は龍田の末社であると云う。

秋祭りは10月の第三金曜、土曜、日曜日である。

金曜の宵宮は提灯を掲げる。

日も暮れる6時ころのようだ。

翌日は子供御輿を軽トラに乗せて村を巡行する。

太鼓を叩くのは子どもだ。

祭りの翌日は提灯を片付けて終える。

1月8日は薬師堂でオコナイをする。

午後に参集するのは寺役。

奉書に墨汁を付けた版木でする。

村の戸数の50枚のお札を刷って祈祷するのは僧侶。

神職が居られたときは「ゴンボ」と呼ばれる注連縄を用意していたらしい。

刷ったお札は先を割った竹に挿す。

以前はウルシの木であったが、いつしか竹に替ったようだ。

かつてはオコナイの日にカンジョウカケをしていた。

ツナを結って薬師堂で祈祷してからツナを掛けたと云う。

今では、その日でなく年末だ。

カンジョウツナは注連縄になったようで20日辺りにするらしい。

オコナイで祈祷したお札は春の苗代の水口にお花とともに挿していたが、久安寺の村ではたった1軒の稲作農家。

会食に居られた男性の声。

「家人が食べるぐらいの量しか作らない稲作ゆえ、水口に祭ることもないだろうと思う」と話す。

「ケツケ」を終えた後日に雨が降れば「アマヨロコビ」を垣内単位で行っていた。

これも50年前のことだという垣内の風習は南、窪、北(三つの組垣内)の5垣内それぞれである。

かつては滝ノ上垣内もそうだったと思うのであるが、聞きそびれた。

(H25. 6.22 EOS40D撮影)


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