ASAKA通信

ノンジャンル。2006年6月6日スタート。

「返信」20240124

2024-01-23 | Weblog

 

 

観るより、描く、かな?

ミロとピカソ
ともに定型を破壊して遊んだふたりは
幼馴染みということでした

ミロの絵をみて、
教養のアトリエが浮かびました。

デタラメが遊ぶ居場所、分別のダサさ
一切の配慮を外したフリースペース

(例えば民青的正論は圏外、そのクサさは常識以前だった)

それがただ一つのとりえ
得がたいとりえだったかもしれない

新作!いつか拝見したいと思います

 

 

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「一次愛からの分離、自我の愛」20240123

2024-01-23 | 参照

 

 

──アリス・バリント「母への愛と母の愛」中井・桝矢訳

母からの分離とは、相互性にもとづく
原初的愛着を解消させるという意味ならば、
母親が私的利害をもつ個別の存在である
という事実を受けいれることを意味している。

そういう母親を憎悪してみても何の解決にもならない。
憎悪とは愛着を温存しつつ、
それにマイナスの符号をつけることだからである。

洗練された、配慮、思いやり、共感、感謝、
(抑止された官能性という意味での)やさしさ、
これらは情動の世界における現実感覚の力が
増大しつつある徴候でありまた結果である。

社会的な意味における愛を可能にする現実的能力は、
外的な攪乱によって生み出される二次的形成物である。
それは性器性(の発達)とは直接の関係はない。

性器性交は、実は、幼児期に経験した互恵的相互依存が
再創造される場である。両者の中間期に学習したものは
何であっても求愛には重要な役割を演ずることだろうが、
性行為の最中は忘れなければならない。

私は、観察可能な現象から出発して、
この初期段階を現実感覚なき古型対象関係と表現しようとした。
一般に愛と言い習わされているものは、
現実の影響下に直接この初期相から発生してくるのである。

私の仮説は、自我をイド(エス)という用語を使えば
簡単に述べることができる。
現実感覚なき古型の愛はイド(エス)の愛であり、
それはそういうものとして生涯存在しつづける。
一方、社会的な、現実に基礎をおく愛の形は自我の愛の形である。

 

 

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「Another Galaxy」 20240123

2024-01-23 | Weblog

             京都橘S.H.S. BAND 京都さくらパレード2018 - (youtube.com)

             京都橘高等学校吹奏楽部 2010年ブラスエキスポ (youtube.com)

             京都【京都橘高等学校】マーチング (youtube.com)

 

 

心臓に近接した生の前線があって
いまここを告げる作動がある

けっして追い越すことはできない

頌歌なのか悲歌なのか
過去か未来か、向かう方角はどこか

考えるよりはやく世界への着生が告げられる

読み切れないシグナル群を縫うように
新たな結界へ導く光の通り道が開かれる

すべてを照らし返す意志が駆けている
より生の祝祭が沸き立つ方角へ

 

 

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