ASAKA通信

ノンジャンル。2006年6月6日スタート。

「ことば、世界分節」20240109

2024-01-09 | 参照

 

 

──G.ベイトソン『精神の生態学』佐藤ほか訳


(娘とのメタローグ)

「ただの言葉」なんてものはない。……
身ぶりとか口調とか、そういうものに包まれた言葉しかない。
しかし、言葉を包んでいない身ぶりというものは──これは、どこにでもある。
構文とか文法とか、そういうのも全部ナンセンスだ。
「ただの言葉」というものがあるという前提の上に、
はじめて成り立つ概念だ──

言葉というものを、もっと大きく、身ぶりのシステムとして
捉えなおすところから始めるんでなければ全然意味がない。
動物は、身ぶりと口調しかない……「語」が出来たのは
ずーっとあとの話だよ。語学教師が出来たのは、そのまたあとだ。

科学者(あるいは人間)というのはいつも、
世界が単純に出来ていると考えたがるんだな。
そしてその期待は、決まって裏切られる。

全体の一部として収まっているべき〝思考〟が、
ひとり立ちして、ほかの部分につかみかかる、……
何でも細かくスライスしてしまう。

そして目的が出来るということは、同時に
その目的を邪魔するものが出来るということでもある。
客観的に生きるものにとって、
世界は〝助けになる〟ものと、〝邪魔になる〟ものに二分されるんだ。

次に、この生き物が、自分のなかに出来た分裂を、
人間全体にとっての世界に押し当てるということが起こる。
すると、ただ「助けになる」「邪魔になる」というだけだったものが、
「善」と「悪」というふうに捉えられてくる。
世界が「神」の側と「悪魔」の側とに二分されるわけだ。
それからあとは、もう分裂の一方さ。

 

 

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