「比喩として聞いてくれる?」
「どうぞ」
わたしたち人間はそれぞれ固有の理解のポッケというものをもっている。
サイズ、カタチ、素材、色、意匠、キャパシティ、伸縮性、拡張可能性。
それぞれに「入れられるもの」と「入れられないもの」があって、
それぞれの固有のスタイル、個性とか人格とか呼ばれるものをかたどっている。
そうかも。いろんなものを好き勝手にポッケに入れるわけだけどさ。
究極的には、世界全体をまるごとポッケに収めたいという欲望かな。
他者を含めてね。ポッケに収納して完全な理解、、
いいかえると完全な掌握、つまり制圧の下に置きたいと願っている。どう?
ちょっとちがうかな。制圧したい、コントロールしたいということもあるかもしれない。
けれど逆に、よりよく理解していい関係を築いて仲よくしたいということもあると思う。
ひとことで言えないけどさ。これは余談だけど、最強最大最上のポッケ、〝カミ〟という想定もあるけど、
わたしたちはそんなものに頼らないと決めたのね。じぶんを見失わないためにね。だよね。
「うん。そうかもしれない」
ガチでいうとね、実際にはポッケに収まりきらないもの、それが世界、そして他者なのね。
理解のポッケに入れたと思った瞬間にはもうちがったものとして存在して動き回っている。
もっと本質的にいえば、どんなポッケにも絶対的な限界があって、
ポッケに入り切らないもののことを、わたしたちは世界とか、無意識とか、他者と呼んでいる。
「わかる気がする」
ようするにさ、わたしの理解のポッケは、わたしの理解から〝隔絶〟したものを理解しようとする、
そのための道具なのね。だから、最初に限界ありき、隔絶ありき、なの。
「そもそもこちらのキャパオーバー存在が、世界、そして他者?」
「わたし自身の存在も含めてね」
「そうかな。自分のことはちがうんじゃない?」
もちろん他人とはちがう。でも理解のポッケは自分という本体の付属品でしょ。
付属品が本体ぜんぶを入れることはできない。これは構造的にそういえると思うのね。
「靴ひもを引っ張ってカラダを持ち上げることはできない。そんな感じ?」
「そんな感じ」
この隔絶性、人と人との間に横たわる超え難い深淵を、なんとかして超えたい、渡りきりたい、飛び越したい。
そんな内なる願いを、抑えがたい欲望を抱いて生きているのだと思う、人間って。そのための理解のポッケ。
でもさ、そんなこと抱くというより、現に飛び越しながらつきあい、仲よくしたり、喧嘩したり、
恋をしたり、いろんな関係を結びながらともに暮らしている。なんで?
なんでって、それができるって考えるから。そうできるって疑わないからそうして生きている。
単なる思いこみ?思いこみで生きているって、ちょっとバカみたいだけど。
そうなのかな。だったら疑えよって?
そうじゃなくて、疑えないように生きているわけ。
生きざるをえないのね。なぜかそうできている。
疑えない確信みたいなものがそもそもの最初にあるわけです、われわれの心のありようとしてね。
たまに、あるいはしばしば〝そうかな〟という疑問は湧いて出てくる。
でもね、それは事後的なものなの。
疑問が浮かぶには、疑問を発する根本にある確かさの感覚があるからなのね。
あれやこれや、少しズレてるかな、そんな確かめの根拠が自分にあるから疑問を発することができる。どう?
「ちょっとよくわかんない」
たとえば、〝すききらい〟とかの感情は、否応なく、理解のポッケとは関係なく自分に訪れる。
わたしという存在の本体の声なのね。意識するより先に訪れるものに、理解のポッケは先行できない。
つまりね、お互いの存在が隔絶していようがいまいが、端的に〝すききらい〟みたいな、、
そのときどきの生身の感情は勝手に動いてゆく。
そしてそれが存在の一番の底、つまり突き当りになっているわけ。
すべてそこが理解のはじまり、出発点になっている。
隔絶ということは、理解のポッケ自身が知っておいたほうがいい関係本質だけど、
それと関係なく、まずは感情は動いている。感情が動いてはじめて、理解はかたちを結ぼうとする。
「まだよくわからないけど。まあいいや、つづけてみて」
本質的に、原理的っていったほうがいいかな、渡り切ることは絶対にできないのね。
わかる?そもそもわたしはわたしの外に出ることができない。あなたはあなたの外に出ることができない。
ふたりはそれぞれの内なる経験の中にいることしかできない。
でもね、お互いの思いが一つになる、という内なる確信をわたしたちは抱くことができる。
できるというよりむしろ、感情や情動によって疑えなさが告げられる。否応なくね。
あとからそれがカンちがいだということがあってとしても、内なる〝おつげ〟が一番先なのね。
「よくある。後の祭り。毎日かも」
わたしたちはそれぞれの理解のポッケにいろいろなことを収めながら、それぞれの人生を生きている。
そうすることで現実を生き、現実を作り、作りつづけていく。
つまり、超えられない深淵を飛び越そうとする。その試みの連続としての自分を生きていく。
日々、小さな納得、満足、あるいは不納得、後悔を刻みつけるようにね。
「でもさ、そんなこといちいち意識していたら疲れない?」
そう、疲れる。でもね、そのことを一度だけでもみずから刻んでおくことには意味がある。
胸のうち深くね。そうすることで飛び越しかたにある種の〝つつしみ〟のようなものが生まれるかもしれない。
自信満々の理解のポッケってダサいでしょ。やわらかく、ふくらみがあって、柔軟なものがいいな。
「そう思うけれどね」
感情の動きにもなんらかの変化が起こるかもしれない。よりましな方向に動けばいいね。
少なくとも無理やり、頭ごなし、決めつけ、傲慢、強引、オレさま的なポッケは捨てたほうがいい。
ときどきそうしたいことがあるけどさ。でもそうすると、何かがこぼれていくかもしれない。
大事なものがね。よくわからないけれど、そのダサさはよくわかる。