ASAKA通信

ノンジャンル。2006年6月6日スタート。

「信念対立──未決のアポリア」 20220404

2024-01-21 | 参照

 


──竹田青嗣『人間の未来』

カントによれば、何が善であるかは理性によって必ず判断でき、そうである以上、
人間は、自由であるためには、善をめがけて行為する意志をもつべきとされる。
善(道徳的行為)に向かう自由意志に人間の自由の本質があるから、
この「当為」(かくあるべき)こそ「道徳法則」
(自然法則ではなく、自由の世界の法則)なのである。
だがここからは、理性が感情や欲望を抑制し、善の判断を絶対的義務として向かうべし、
という理性対感情の対立の構図が現われる。

しかし、ヘーゲルによれば、理性が感性(感情・欲望)を一方的に抑制するという仕方ではなく、
むしろ人が教養を深めることで、感性や感情のありようをより社会的なもの(=普遍的なもの)
へと陶冶してゆく点に、近代精神の倫理性の本質がある。

カントの「道徳」の本質は、「人間は善であるべき」という理想家の
単なる希望、当為、要請、要求を超えるものではなく、感受性をより
普遍的なものへ陶冶してゆくという近代人の倫理の本質にむしろ反するものである。

さらに、もっと決定的な批判は、ヘーゲルの、
近代社会における「善」の理念の複数性という考え方から現われる。

近代社会は人々の「自由」を解放し、許容する。この自由は大きく二つの柱をもつ。
各人の「享受」の追求の自由と、各人の「善」(ほんとう)の追求の自由である。
すなわち近代社会では、「享受」だけでなく「善」の追求もまた自由なゲームとなる。
いうまでもなく近代以前の社会では、善はただ一つ(=真理)でなければならない。


──竹田青嗣『言語的思考へ』

私の考えでは、カントの「最高善」の理念は、近代的な「善」の原理としてひとつの
極限概念をなしている。それはつまり、「善」という概念の根拠を、
極限的理想状態から逆算して導こうとしているのである。

しかしすでに見てきたように、現象学の方法では、「倫理」や「善」の本質を
捉えようとするなら個別的な内的実存におけるその本質から出発し、
そこからこれを「間主観的」に展開していくという順序をとらなくてはならない。

そして、この方法によって取り出される「倫理」の問題の本質的アポリアは、
「福徳一致」や「万人への愛」といったアポリアではなく、
「信念対立」というアポリアにほかならない。

現代の社会理論は、社会が客観的に「いかなる存在か」という
事実学であることはできない。
むしろそれは、何が社会の「正義」や「公共」の根拠たりうるか、
また統治権力の正当性が何にもとづくのかについての
普遍的な理論でなくてはならない。
そしてその根拠は、デリダ的「贈与」やレヴィナス的「他者」といった
任意の理想理念に求めることはできない。
そうした理想理念は現代社会の矛盾や問題点を人々に意識させる
ことはできても、価値の多様性、あるいは理想理念の複数性という
難問を克服する可能性をもたないからである。

市民的メンバーシップの育成に失敗すると、
社会は複数の共同性、複数の価値観によって分裂し、
その対立によって市民社会としての命を失うのだ。

 

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