完全無欠な「もうすぐ前期高齢男」日記

「もうすぐ前期高齢男」に進級「老いの自覚」を中心にUpしていきます。

あの寿司炒飯はおいしいだろう。      ~ヨルタモリのMr炒飯は?~

2015年08月22日 | テレビ
私は初老男である。


相変わらずの「ヨルタモリ」である。


ちょっと前の回のことで申し訳ないが・・・・ついに「寿司」まで炒飯にするのである。



一般人は思うであろう。




「おいしくないだろう」と。



しかし、料理という物には「完全なる正解」も「完全なる不正解」も無いのだ。




1000人の人が「不味い」といっても、1人が「美味しい!」といえば、その人にとっての「正解」なのだ。



料理をすることを単純に見てはいけない。



番組の本編で高橋幸宏氏が言っていたが、炒飯に「ほんの少しの酢」は良い効果を与える。



つまり、今回使った寿司は「シャリ」の加減がかなりシビアだったはずだ。



それはMR.炒飯がシャリだけを北京鍋で炒めたときに分かった。



やはり、寿司も炒飯も「ご飯(シャリ)」が命だ。



ほかの具材は、基本的にどの程度の大きさに切るか、が問題なだけである。



その切り方によって火の通りが違い、食べたときの食感が変わることを計算してさえいれば、どんな具材を使っても良いのが炒飯の奥深いところだ。



このMr炒飯のやっていることは、ある意味「究極の遊び」である。



今まで炒飯にしてきた物は、すでに「料理」として完成された物ばかりだ。



それをさらに「手を加えて」おいしくしようという「お遊び」なのである。



好意を持って見なければ「調理に対する冒涜だ!」と見えないこともない。



故にこれが許されたり認められたりするのは、やっている本人が「究極の遊び人」出なければならない。


生きること自体に「緩さ」を持っているタモリならではの「遊び方」が、このMr炒飯を成立させている。



寿司炒飯は、もとの「寿司」を越えてはいない。しかし「おいしい」レベルから外れてはいないのだ。



今回も最後までおつきあいいただきありがとう。これを呼んでいるみなさんも「緩さ」のもっているパワーを甘く見ませんように。


         May



・・・だから、安斎さん(ソラミミスト・知らない方はタモリ倶楽部参照)のCDは売れない。彼はタモリのレベルの緩さを持っていないもの。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする