私は初老男である。
相変わらずの「ヨルタモリ」である。
ちょっと前の回のことで申し訳ないが・・・・ついに「寿司」まで炒飯にするのである。
一般人は思うであろう。
「おいしくないだろう」と。
しかし、料理という物には「完全なる正解」も「完全なる不正解」も無いのだ。
1000人の人が「不味い」といっても、1人が「美味しい!」といえば、その人にとっての「正解」なのだ。
料理をすることを単純に見てはいけない。
番組の本編で高橋幸宏氏が言っていたが、炒飯に「ほんの少しの酢」は良い効果を与える。
つまり、今回使った寿司は「シャリ」の加減がかなりシビアだったはずだ。
それはMR.炒飯がシャリだけを北京鍋で炒めたときに分かった。
やはり、寿司も炒飯も「ご飯(シャリ)」が命だ。
ほかの具材は、基本的にどの程度の大きさに切るか、が問題なだけである。
その切り方によって火の通りが違い、食べたときの食感が変わることを計算してさえいれば、どんな具材を使っても良いのが炒飯の奥深いところだ。
このMr炒飯のやっていることは、ある意味「究極の遊び」である。
今まで炒飯にしてきた物は、すでに「料理」として完成された物ばかりだ。
それをさらに「手を加えて」おいしくしようという「お遊び」なのである。
好意を持って見なければ「調理に対する冒涜だ!」と見えないこともない。
故にこれが許されたり認められたりするのは、やっている本人が「究極の遊び人」出なければならない。
生きること自体に「緩さ」を持っているタモリならではの「遊び方」が、このMr炒飯を成立させている。
寿司炒飯は、もとの「寿司」を越えてはいない。しかし「おいしい」レベルから外れてはいないのだ。
今回も最後までおつきあいいただきありがとう。これを呼んでいるみなさんも「緩さ」のもっているパワーを甘く見ませんように。
May
・・・だから、安斎さん(ソラミミスト・知らない方はタモリ倶楽部参照)のCDは売れない。彼はタモリのレベルの緩さを持っていないもの。
相変わらずの「ヨルタモリ」である。
ちょっと前の回のことで申し訳ないが・・・・ついに「寿司」まで炒飯にするのである。
一般人は思うであろう。
「おいしくないだろう」と。
しかし、料理という物には「完全なる正解」も「完全なる不正解」も無いのだ。
1000人の人が「不味い」といっても、1人が「美味しい!」といえば、その人にとっての「正解」なのだ。
料理をすることを単純に見てはいけない。
番組の本編で高橋幸宏氏が言っていたが、炒飯に「ほんの少しの酢」は良い効果を与える。
つまり、今回使った寿司は「シャリ」の加減がかなりシビアだったはずだ。
それはMR.炒飯がシャリだけを北京鍋で炒めたときに分かった。
やはり、寿司も炒飯も「ご飯(シャリ)」が命だ。
ほかの具材は、基本的にどの程度の大きさに切るか、が問題なだけである。
その切り方によって火の通りが違い、食べたときの食感が変わることを計算してさえいれば、どんな具材を使っても良いのが炒飯の奥深いところだ。
このMr炒飯のやっていることは、ある意味「究極の遊び」である。
今まで炒飯にしてきた物は、すでに「料理」として完成された物ばかりだ。
それをさらに「手を加えて」おいしくしようという「お遊び」なのである。
好意を持って見なければ「調理に対する冒涜だ!」と見えないこともない。
故にこれが許されたり認められたりするのは、やっている本人が「究極の遊び人」出なければならない。
生きること自体に「緩さ」を持っているタモリならではの「遊び方」が、このMr炒飯を成立させている。
寿司炒飯は、もとの「寿司」を越えてはいない。しかし「おいしい」レベルから外れてはいないのだ。
今回も最後までおつきあいいただきありがとう。これを呼んでいるみなさんも「緩さ」のもっているパワーを甘く見ませんように。
May
・・・だから、安斎さん(ソラミミスト・知らない方はタモリ倶楽部参照)のCDは売れない。彼はタモリのレベルの緩さを持っていないもの。