私は中年である。
すっかり、怠け者なってしまった・・・。
仕事もブログも自分の楽しみにしていることさえも、億劫で何もやる気になれない。
病気なのだろうか?
なんて思っていたら本当に病気らしい。
「LOH症候群」というものらしい。
これに関しては次回Upしようと思う。
さて「龍馬伝」の話。
余韻に浸っていたかのように気がつくと龍馬伝が終わって八日余り。
長い大河ドラマの歴史の中でも、キラリと光る秀作だったと私は思う。
・・・ずいぶん間が開いてしまった。すいません。
続けます。
話によると今回の「龍馬伝」は、昨年の「天地人」に年間視聴率で上回れなかったという。
最終回の視聴率も低調だったらしい。
これだけ世間が「龍馬・龍馬」といっていたのにである。
そもそも大河ドラマは国民的番組だから「王道」を行かねばならない。
そんな意識が作る方にも、見るほうにもあるものだ。
今回の「龍馬伝」はその王道のギリギリを踏み外した気がしている。
王道であることにおいて、クラシックな「舞台」のような演出が多々行われる。
それこそが時代劇の王道・歌舞伎・能狂言にも通じる雰囲気が出てくるものだ。(昨年の「天地人」なんかその典型だな)
しかし「龍馬伝」において、そのような演出はほとんど見られなかったと思う。
カメラの性能を最大に生かすべく、普通に人間が見ないアングルを多用し「映画的広がり」を全回に渡り徹底していた。
それが今までの大河ドラマに慣れた視聴者にとってどう映ったか・・・。
そのアングルでの画像に迫力を感じながらも、広い野外でのシーンが少ない上に、話を詰め込みすぎたために説明でしか場所を特定できないという欠点が気になった。
町並みも懸命に作り変えて土佐・江戸・京都・長崎を表現しようとしていたが、映画っぽい演出である「暗さ」が禍してその差が分かりにくかった。
大河ドラマ通の人なら知っているだろうが、大河ドラマにおいて「幕末物はウケナイ」というジンクスがある。
たしかに、幕末物「竜馬がゆく」「勝海舟」「花神」「獅子の時代」「翔ぶが如く」「新撰組!」と聞くと大河ドラマの中では残念ながら「ウケナイ」と表現せざるを得ないだろう。
ただ、その中で唯一「篤姫」は、非常に評判がよかった。
それは女性を主人公に据えたが故、しかも「宮崎あおい」という旬な女優の名演があってこそだろう。(実はこの篤姫の内容は、今回の龍馬伝とほぼピッタリと重なるのである)
龍馬伝は主演に福山雅治を抜擢し、これだけの奮闘をしたにもかかわらず、低迷した視聴率。
つまり、坂本龍馬のことは「過去から未来へ」とずっと人気があり、大河ドラマに取り上げられたといって急激に上がったり下がったりするものではないということが証明されたような気がする。(福山のファンだけど大河は見ないって女性がかなり居たんじゃないかなぁ・・・)
だいたい「幕末・維新」は決定的に「時代劇」と呼ばれるものとは次元の違う物であろう。
その中でもそのちょうど接点に人物として存在するのが「坂本龍馬」と言う人なのだ。
今回のドラマを全編見た人は分かるであろうが、彼は「武士」としての生を受け「人間」として自我に目覚めた。それゆえに旧世代の「武士」たちに殺されることになった。思想ではなく実践として「人間」になったが故に暗殺されたのだ。
「人間平等」の思想を、現代日本への扉を開けたのは彼なのだ。
ドラマの中で龍馬が脱藩に至ったかという部分の心情の弱さ、なぜ「おりょう」を妻にしたかという部分の不可解さ。など全編を通して重要な部分がぼやけてしまったのが心残りだが、その斬新なカメラワークと、福山雅治のおおらかな演技は充分評価できる作品だったと、私は思うのである。
今回も最後までお付き合いいただきありがとう。この龍馬が登場する時期の話は、実は別ブログを立ち上げたいほど言いたいことがあるのだが、まあ、これからもチョコチョコUpします。
may
前のどこかでも書いたけど、今回のドラマの「一番のシーン」は龍馬ではなく、近藤長次郎が武市半平太にむかって「私には『志』があります!」と言い放つところ。見方によると龍馬の片方の分身が長次郎。もう片方が岩崎弥太郎だった気がする・・・。
すっかり、怠け者なってしまった・・・。
仕事もブログも自分の楽しみにしていることさえも、億劫で何もやる気になれない。
病気なのだろうか?
なんて思っていたら本当に病気らしい。
「LOH症候群」というものらしい。
これに関しては次回Upしようと思う。
さて「龍馬伝」の話。
余韻に浸っていたかのように気がつくと龍馬伝が終わって八日余り。
長い大河ドラマの歴史の中でも、キラリと光る秀作だったと私は思う。
・・・ずいぶん間が開いてしまった。すいません。
続けます。
話によると今回の「龍馬伝」は、昨年の「天地人」に年間視聴率で上回れなかったという。
最終回の視聴率も低調だったらしい。
これだけ世間が「龍馬・龍馬」といっていたのにである。
そもそも大河ドラマは国民的番組だから「王道」を行かねばならない。
そんな意識が作る方にも、見るほうにもあるものだ。
今回の「龍馬伝」はその王道のギリギリを踏み外した気がしている。
王道であることにおいて、クラシックな「舞台」のような演出が多々行われる。
それこそが時代劇の王道・歌舞伎・能狂言にも通じる雰囲気が出てくるものだ。(昨年の「天地人」なんかその典型だな)
しかし「龍馬伝」において、そのような演出はほとんど見られなかったと思う。
カメラの性能を最大に生かすべく、普通に人間が見ないアングルを多用し「映画的広がり」を全回に渡り徹底していた。
それが今までの大河ドラマに慣れた視聴者にとってどう映ったか・・・。
そのアングルでの画像に迫力を感じながらも、広い野外でのシーンが少ない上に、話を詰め込みすぎたために説明でしか場所を特定できないという欠点が気になった。
町並みも懸命に作り変えて土佐・江戸・京都・長崎を表現しようとしていたが、映画っぽい演出である「暗さ」が禍してその差が分かりにくかった。
大河ドラマ通の人なら知っているだろうが、大河ドラマにおいて「幕末物はウケナイ」というジンクスがある。
たしかに、幕末物「竜馬がゆく」「勝海舟」「花神」「獅子の時代」「翔ぶが如く」「新撰組!」と聞くと大河ドラマの中では残念ながら「ウケナイ」と表現せざるを得ないだろう。
ただ、その中で唯一「篤姫」は、非常に評判がよかった。
それは女性を主人公に据えたが故、しかも「宮崎あおい」という旬な女優の名演があってこそだろう。(実はこの篤姫の内容は、今回の龍馬伝とほぼピッタリと重なるのである)
龍馬伝は主演に福山雅治を抜擢し、これだけの奮闘をしたにもかかわらず、低迷した視聴率。
つまり、坂本龍馬のことは「過去から未来へ」とずっと人気があり、大河ドラマに取り上げられたといって急激に上がったり下がったりするものではないということが証明されたような気がする。(福山のファンだけど大河は見ないって女性がかなり居たんじゃないかなぁ・・・)
だいたい「幕末・維新」は決定的に「時代劇」と呼ばれるものとは次元の違う物であろう。
その中でもそのちょうど接点に人物として存在するのが「坂本龍馬」と言う人なのだ。
今回のドラマを全編見た人は分かるであろうが、彼は「武士」としての生を受け「人間」として自我に目覚めた。それゆえに旧世代の「武士」たちに殺されることになった。思想ではなく実践として「人間」になったが故に暗殺されたのだ。
「人間平等」の思想を、現代日本への扉を開けたのは彼なのだ。
ドラマの中で龍馬が脱藩に至ったかという部分の心情の弱さ、なぜ「おりょう」を妻にしたかという部分の不可解さ。など全編を通して重要な部分がぼやけてしまったのが心残りだが、その斬新なカメラワークと、福山雅治のおおらかな演技は充分評価できる作品だったと、私は思うのである。
今回も最後までお付き合いいただきありがとう。この龍馬が登場する時期の話は、実は別ブログを立ち上げたいほど言いたいことがあるのだが、まあ、これからもチョコチョコUpします。
may
前のどこかでも書いたけど、今回のドラマの「一番のシーン」は龍馬ではなく、近藤長次郎が武市半平太にむかって「私には『志』があります!」と言い放つところ。見方によると龍馬の片方の分身が長次郎。もう片方が岩崎弥太郎だった気がする・・・。