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新刊紹介『戦国日本を見た中国人』 海の物語『日本一鑑』を読む

2023-07-23 10:36:08 | Weblog
スペインの話の途中ですが、今回は新刊のご紹介です。じつはスペインが日本にも触手を伸ばした大航海時代ともかかわっておりまして・・。
(長文ですので、小見出しをご覧くださってもよろしいかと。)

【倭寇前夜】
戦国時代の日本といえば、織田信長ほか戦国武将が有名です。彼らの必須アイテムは鉄砲。そのためには火薬がかかせません。
 火薬は硫黄、硝石、炭粉でできています。硝石は日本で産出しなかったので、輸入が必要でした。一方、硫黄は輸出するほどありました。

ところが貿易をしようにも、お隣の中国は明(ミン)朝の時代で海を閉ざす海禁のまっただなか。そのため正式には10年に一度、国の盟主同士がものを贈りあう朝貢しかありませんでした。あとは全部、密貿易になってしまうのです。

 本書では、これらが本格化する前段からはじまります。

 日本では室町幕府が衰えていき、朝貢貿易のノウハウがうまく伝えられなくなった結果、1523年に「寧波事件」と呼ばれる日本人武士による抜刀事件が中国の港町・寧波で起こりました。以降、日本人は「凶暴」というイメージが固定化されました。実際、1550年代に入ると、倭寇(わこう)と呼ばれるザンバラ髪の武士のような集団が中国の沿海部を襲うようになります。

 
写真は本のカバーより。左のほぼ裸で戦う人たちが倭寇。
(「抗倭図巻」中国国家博物館蔵。)

【草莽の士、海を渡る】
そんななか、自らの意思で(海禁中なので「国の許可を受け」)中国の民間人が日本へ渡りました。名は鄭舜功(てい しゅんこう)。日本を理解し、日本国王に倭寇対策を行わせようと強い決意を抱いていました。

1556年、広州を船で出発し、九州は豊後の有力大名の大友義鎮(宗麟)のもとに滞在。そこから部下を京都に派遣して見聞を広げ、倭寇政策について了解の文書ももらいました。

この任務は大成功、と思ったのですが、じつはそのころ明の朝廷の権力闘争はし烈を極めており、別の勢力に倭寇対策のトップが入れ替わってしまいました。そして、そこからも日本に人が派遣されたのです。

これを知った鄭舜功は、ライバルに先を越されることを恐れ、京に派遣した部下を待つことなく、1557年1月に慌ただしく帰国することにしました。

【待ち受ける悲運と幸運】
ところが海難事故のため、漂着。さらに中国で官憲にとらえられ、7年間、投獄されてしまいます。反対勢力に倭寇取り締まりの総督が代わっていたため、彼の潔白は証明されなかったのです。

日本での見聞記録も破棄され、京に派遣した部下2人も中国で官憲につかまり、死刑となりました。
 帰国の際に豊後の大名の命令で鄭舜功とともにした日本人僧侶・清援は、なんと中国の内陸部の四川に流罪となりました。彼が鄭舜功にあてた手紙に書かれた詩が、本書には収録されています。なんとも痛切!

そんな逆境の中で鄭舜功は、獄中、日本での見聞をまとめました。これが『日本一鑑』です。残念ながら刊行されることはありませんでした。
ただし奇跡的にも写本などが断片的に残されました。現在、研究者の間で当時の日本の国情を知る一級史料として評価されています。

本書では『日本一鑑』に記された、日本の当時の風俗習慣や刀や陶磁器の見極め方、日本人には秩序があり、話し合いで十分に友好が保てること、などの具体的な内容を紹介しています。序文の鄭舜功の熱い志はしびれました。


写真は、椿泊湾。戦国時代に名を馳せた森水軍(阿波水軍)の拠点であった。今も森家歴代の墓が湾を見渡せる山の上に連なっている。

【ビジュアルから魅力的な海賊たち】
本書のもう一つの柱が倭寇です。ここには海を舞台にしたもう一つの歴史がうねっていました。日本人をよそおった中国や東南アジアの人々も海で暗躍していたのです。

本書でもっとも印象的だったのがこの、いわば「海賊」です。

おもな舞台は中国南岸の杭州湾の外縁に浮かぶ舟山群島。片目のリーダー陳思盻、僧侶姿で日本人にも中国の女性にもモテモテの徐海など、魅力あふれる海賊たち。とくに徐海が大小さまざまな島が浮かぶ舟山群島で1000以上の船を率いて進み、最後には官憲に砲弾で打たれる様子は目に浮かぶよう。ここは歴史学者の筆なので、やや抑え気味ですが。

【海洋ルートの詳細もわかる】
中国から日本に向かう船のルートも具体的に記されていて、とくに日本の領域内に入ってからの記述は興味深いものがあります。九州の南をまわって、瀬戸内海を通って大阪まで抜けるルートは『村上海賊の娘』などで知っていましたが、外洋船ならではのルートで四国沖を通って、四国と紀伊半島の間を通って大阪に至るルートは初めて知りました。

徳島の東南の海に抱かれた椿泊や淡路島の南にそびえ立つ沼島など、かつてのルートは昔の海賊の拠点でもあります。

現在、徳島には「海賊料理」という名でガイドブックなどに書かれている名物料理があります。ところが地元に人に話すと「水軍料理ね」と即座に言い直されるのです。地元の人にとっては、当然のように今でも「賊」ではなく「軍」なのです。

このルートは、大航海時代のポルトガル、スペインの商人も利用していたらしいです。

暑い夏、潮の香りがぴったりな本書で、まったり過ごすのはいかがでしょう?
『戦国日本を見た中国人』  海の物語『日本一鑑』を読む
講談社選書メチエ
上田 信著
1700円(税別)
 
参考;椿泊漁港の位置
https://www.bing.com/search?pglt=41&q=%E6%A4%BF%E6%B3%8A%E6%BC%81%E5%8D%94+%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%B8%80&cvid=78b1c5c4a5e348399ea2dda66019f773&aqs=edge..69i57.24178j0j1&FORM=ANNTA1&PC=TBTS

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