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雲南の書記と副書記19 

2017-08-06 16:00:16 | Weblog
シーサンパンナの打洛付近のゴム林。この辺りの多くの場所に文革中に多くの学生が「下放」といって、知識と労働の一致のためという名目で、実際には都市の食糧不足の改善のために農村に親元を離れて居住した。そして、各地にゴム林を植えていった。同じ時期に植えられたゴムの木だが、こちらの方が、葉がしげり、幹も太くなっている。タイ族の寺院の敷地内にあるためかもしれない。


【清華大学つながり】
2001年5月に汚職で失脚した雲南省長の後釜に付き、同時に共産党雲南省副書記を拝命した徐栄凱は60年に清華大学動力学部に入学しました。

65年に清華大学動力学部の学生会会長に選ばれていた徐栄凱は、水利学部の学生会長だった胡錦濤と自然と知り合ったようです。
 入学後に文化大革命がはじまり、政治指導員だった胡錦濤が批判の対象となって「つるし上げ」にあい、以後、胡氏がキャンパスを暇つぶしに張り紙を見て回るだけの政治に無関心な人として過ごしていたときの散歩仲間でもありました。

 その後、卒業後、いくつもの人事異動を経て胡錦濤が貴州省党書記となり、省の経済振興に奮闘していたとき、徐栄凱は貴州省のとなりの四川省で軽工業局長をつとめていました。胡錦濤が地元・マオタイ酒の復興に奔走していたとき、造酒のさかんな四川の技術、資金や流通の支援を四川省の軽工業局長として支援し、その後のマオタイ酒の成功に導いたのです。

そ の後、徐栄凱は軽工業省次官となった後に、清華大学経済管理学院の博士課程に入学し、5年後に博士号を取得。また様々な経歴を経て、95年には胡錦濤の推薦により国務院研究室副主任に任命され、98年には国務院秘書長、さらに同年国家科学技術教育指導グループのメンバーとなり、2000年10月には中国国際災害対策委員会副主任に就任しました。

現在の中国の興隆の地盤は、たしかな技術を持つテクノクラートが政権の中枢にいる、彼らが判断する立場にいる、ということが大きいように思います。

 日本の政治のぐだぐだを見るに付け、地道にたしかな知識で国を支えてきた人が厳しい政権争いの中で、火の粉がかからずに最上位の上がれる、というのは、うらやましいようにも思えます。

 清華大学卒の人脈は胡錦濤を支える重要な要素ですが、なかでも雲南へ配置した徐栄凱は、彼の腹心とも呼ぶべき人でした。

 ちなみに現在、中国の最高位に付いている習近平も1975年に清華大学化学工程部に入学しています。ただし、1966年に文化大革命がはじまってから1977年に鄧小平が復権して大学入試を復活させるまで、通常の学力試験による大学入学のルートはないので、学力試験ではなく、所属する労働隊の推薦といった特殊な選抜方法による時期でした。

 習近平とともに現在、国を運営している国務院総理の李克強は77年に鄧小平の号令のもと大学入試が復活が決定した翌年、78年に受験して最難関の北京大学法学部に入学しています。

※参考文献:祁英力著『胡錦濤体制の挑戦』(勉誠出版。2003年)
      大塚豊「文革期中国の大学入学者選抜に関する一考察」『広島大学大学教育研究センター大学論集』第8集、1980年、109-128頁
 (つづく・次週はお休みします)
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