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イシュタル門へ 年表(中)なぜかポルトガル?

2019-07-14 10:07:57 | Weblog
写真はポルトガルのポルトの夕景。

今週は年表づくし。年表の全体像は来週にまとめるので、辛抱できない方は、次週にご期待ください。

【イシュタル門発掘 年表・中編】
1911-14年 コンヤ-バスラ間(1500㎞)で協定が成立。(アナトリア鉄道から延伸してバグダードま       で行く鉄道建設に世界の同意が得られる見込みが立つはずだった。しかし批准を見ないう       ちに第一次世界大戦へ。)
1914年 第一次世界大戦はじまる。
1914年 オスマン帝国も巻き込まれたように参戦。ドイツ側につく。
1914年 ドイツ考古学チームが戦争のため、バビロンをイシュタル門のタイルのかけらと共に放棄する事     態に直面する。
     門のかけらは900箱になっていた。ヴィルヘルム2世の名で仕事を遂行していたドイツチームは     発見したものを避難させ、遺跡は放棄することに。
(ロベルト・コルヴェライは、遺跡の半分     しか調査していない、という。)
     箱はバビロンからポルトガルのポルト大学に保管される。1917-18 バグダード鉄道はコンヤ-ヌサイビン(トルコ)間とバグダード-ザマラ間とに敷設されてい     た(全長3200㎞の約3分の2)が完成せず。その後、トルコ共和国が建設を継承して1940年に     完成した。
1918年11月 第一次世界大戦 終結

【ポルトガルに運ばれたイシュタル門】
 ここでまた、わかりにくいので注釈です。バグダード鉄道建設は当初、事業主体はドイツ銀行とし、イギリス、フランス資本の協力を得る計画でした。第一次世界大戦前の対立の中で、ようやく条約が批准される直前までいったところで大戦に突入。3B政策を推進するドイツの国家的事業となりました。

 そして、大戦の混乱の中で遺跡も危なくなり遺跡の放棄を決断。門のかけらを入れた箱は、ポルトガルのポルト大学に行った、とナショナルジオグラフィックの取材チームは書いているのですが、その経緯がわかりません。時期はペルガモン博物館に掲示された文から1917年ということは分かります。

 第一次世界大戦前、ポルトガルは政治も経済もぐずぐずで議会もドイツ派とイギリス派に分かれていましたが、1916年にイギリス側で世界大戦に参戦しています。その理由も「1916年3月にポルトガルはリスボンに退避していたドイツ商船を拿捕し、ドイツに対して戦線を布告する。」(ウィキペディア「第一共和政」の項目より)というなかば強引な手法です。

 つまり箱は1916年、ポルトガルがドイツに宣戦布告した後の1917年以降にポルト大学に到着したことになります。いったいどんな経緯があったのでしょうか?友好的に保管されていたものなのでしょうか。まさか拿捕された船?

 ちなみにポルトは港町で、ここからポートワインが主にイギリスに大量に出荷されていました。大航海時代の先鞭をつけたエンリケ航海王子の幼少期の家も港のすぐ隣に今なお、保存されています。
 ドイツはこの大戦で敗戦国となりました。

 旗幟が悪くなっていく中で計画全体の3分の2しか仕上がらないうちにバグダード鉄道は、放棄され、18年間発掘しつづけてもなお終わらないバビロン遺跡の調査もなかばで放棄することになったのでした。
(つづく)

※おもに、日本大百科全書(ニッポニカ)岡部健彦 著および、各種、百科事典で「バグダード鉄道」を引き、世界の歴史やウィキペディアで「ドイツ帝国」「第一次世界大戦」「ヴィルヘルム2世」発掘者の「ROBERT JOHANN KOLDWAY」の記述、及びナショナルジオグラフィ』2018年1月5日の記事「Inside the 30-year Quest for Babylon’s Ishtar gate」(文 Felip maso’)を追い、年表を作ってみました。(ナショナルジオグラフィックからの情報は赤字にしています。)
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