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雲南の誇り・ヤン・リーピン⑦

2010-02-21 10:06:45 | Weblog
シーサンパンナ・モンフンの市場にて。写真はかごを売るタイ族の女性たち。市場の主役は買い手も売り手ももちろん女性。男性はヒヨコをつついたり、ビリヤードに興じたりと、なんとなくのんびり。

【「孔雀の舞」の系譜】
 さて、「孔雀の精霊」は、いまでも彼女の重要演目の一つだ。腕から指先までの関節を自在に使った指遣いなど独特のテクニックはシーサンパンナや徳宏タイ族で継承されてきた独特のもの。それをどのようにして、ヤン・リーピンが舞台化していったのかを考えてみたい。

『雲南文化芸術詞典』(雲南省民俗芸術研究所など編、雲南人民出版社、1997年)によると、「孔雀の舞」の正式な踊り(神事など)は、男性のみによって演じられる。自然界でも、もともと優美な羽根でダンスする孔雀は雄なのだから、考えてみれば当然である。ちなみにタイ族にとって、「孔雀」は幸福の象徴だ。

 その踊りは優雅というよりは、水を飲む、森林を散歩する、飛ぶ、といった生態模写風。服装も緑色の服に、塔形の帽子をかぶって孔雀の格好とする。地域によっては菩薩の面をつけることもあるらしい。

 女性の踊りは調べた限りでは見あたらないが、「ない」のではなく、神事以外の場で踊られていたのだろう。

 これらの素材に舞台化が成功したのが、1957年のこと。中央歌舞団の演出家・金明が、集団で行う女性舞踊「孔雀の舞」を発表し、モスクワの舞踊大会で金賞を獲得した。同時に同歌舞団の雲南タイ族出身の男性ダンサー・毛相も、二人舞の「孔雀の舞」を発表して同大会で銀賞を獲得し、周恩来に絶賛された。こうして「孔雀の舞」は有名になり、伝統の舞の一つとなった。

 20年の時を経てヤン・リーピンが、その型を継承、発展させてウエディングドレスのようなふくらみのある白のドレスを着て優雅に舞って見せたのである。これに人々はしびれた。
 そして今やインターネットやちょっとした雲南ガイドで「孔雀の舞」といえば、ヤン・リーピンの舞う姿がスタンダードとして取り上げられるまでに定着していった。このように雲南の伝統的な舞のスタンダードが彼女の影響力によって、ゆるやかに改変され、昆明の「雲南民族村」や本場、シーサンパンナの民族生態村などで古くから伝わる踊りとして、上演される事態となってしまったのである。

 現在、雲南は浙江省など沿海地区の実業家による資本投下で大々的に観光化している。各地の観光村の踊りは、観光化が進むほど、本来の形から変容している。たとえばイ族の踊りにかかかせないバンジョーのような楽器には弦がなく、ただ弾くまねだけ、とか、衣装は手縫いの刺繍ではなく、ポリエステルに模様をプリントしただけ、といった有様だ。振り付けもバレエ風なこともある。

 その一方で伝統的な祭りを復活させようとするアツい動きも、ないわけではない。2005年、維西にほど近い山奥の村で、文化大革命前(1970年前半までの10年間)の記憶を持ち寄って、村の元校長や村長らを中心として、伝統的な祭りと踊りを復活させた。とくに地元のマスコミは関心を示さなかったが、日本人研究者が数名、取材に訪れている。

 ヤン・リーピンも農村に伝わる本来の手作りの衣装を着、本来の踊りを残す方向で努力を重ねている。それは雲南各地の伝統から外れつつある観光村を見た人達には「本物の迫力」として確かに伝わるものがある。だが、舞台に載せた時点で、厳しいようだが、やはり変容するものはでてきてしまう、ようだ。

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