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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



古くから「天神ノ森」と呼ばれていた紀州街道沿いの森林を開き、そこに道をつけたのが、堺の茶人、武野紹鷗(1502~1555年)で、それ以来この地は「紹鷗森」とも呼ばれるようになっています。

 

 

 

武野紹鷗の父、武田信久(1457~1539年)は、甲斐、若狭の武将、武田一族の出身でしたが、1485年頃に日明貿易の中心地となっていた堺に定住、そこで細川家、三好家の庇護を受けて軍事物資の調達、製造と日明貿易に乗り出し、莫大な資産を築いたようです。

 

 

 

その頃、武士の武田一族出身であることが、商売にさし障りがあったので武田から武野と改姓、その経済力を背景として子息の紹鴎を京都の有力者の元に留学させています。

 

 

 

1539年、信久が亡くなると京都にいた紹鴎は、家督を継ぐために堺に戻り、茶の湯をはじめとする京都の文化を堺の有力商人(会合衆)に紹介しています。紹鴎天満宮拝殿

 

 

 

紹鴎が堺で茶の湯を指導した絶頂期は、1539~1553年といわれ、紹鴎の茶の湯は、その根幹となる「一期一会の思想」とともに日本各地に広まっています。子安石

 

 

 

紹鴎は、その最晩年(1554~5年頃か)に大坂天神ノ森を切り開き、そこに隠遁して「わびの行」を実践していますが、それから30数年後、太閤殿下豊臣秀吉(1537~1598年)がその地を訪ね、千利休(1522~1591年)の立てた茶の湯を味わっています。太閤殿下の茶屋から天下茶屋と呼ばれるようになったといいます。

 

 

 

千利休の師は、武野紹鴎と言われていますが、紹鴎の「わび茶」の形成に利休の関与は無く、本来心静かに楽しむ茶の湯を利休は政治の道具として活用、紹鴎とは違う独自の茶風を打ち出しはじめています。現在の天下茶屋跡

 

 

 

紹鴎の武家風ではなく、町人的な茶風に違和感を持った秀吉は、1590年頃から利休を粗略に扱うようになりますが、秀吉に挑戦するかのように、独自の茶風を改めなかったことなどで最後に切腹を命じられたのです。

 

 

参考文献: 利休の師竹野紹鴎  武野宗延著



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